目からウロコって、こういうこと言うのかもしれない。

あたしは中学でメザメてからずっと、髪やファッション、メイクだけじゃなくて、爪も弄ってきた。

でもさっぱり――

こんな方法があるなんて、思いつきもしなかった。

レディ・バード-鈴虫編

「……………なぁに、それ?」

「爪を磨く道具」

「つめ………………を、……?」

昼休みになって、購買で買ったパンといっしょに薬局の袋を持ってきたあたしを、マツはすごく不思議そうに見た。

もともとあんまり声が大きくないマツだけど、さらに小さく消えていく。

理解できてない。

ギャル系のあたしともふっつーにツルんでくれるマツは、分類するならおとなし系。中にはネクラ系とか言うやつもいるけど、マツはネクラじゃない。

ちょっと思考が、デンパ入ってるだけ。

デンパらしく、自分のデンパ具合を理解していないマツは、ちょっとだけ首を傾げたけど、すぐに広げていたお弁当に視線を戻した。

ちなみにあたしは昼というと、購買でパンを買ってくるか、近くのコンビニまで出てお弁当を買う。

中学のときは給食がある学校だったからアレだけど、高校は食堂があるとこじゃない。購買がせいぜい。

で、マツはというと、毎日手作りのお弁当。

お母さんが作ってくれてんのかと思ったら、そういうこともあるし、自分で作ることもあるという。

マツのお母さんの仕事はシフト制で、土日休みの平日出勤とは限らない。しかも夜勤もあって、マツが出かけるまでに帰って来られないときもあるとか。

毎日まいにち、お弁当が作れる仕事ではないらしい。

いや、そもそも、毎食のごはんもそうそう用意できるわけじゃないから、マツは必然的に料理ができるようになった。

マツが作ったというときにひと口もらったけど、おいしかった。

そういう家庭状況だから、マツは料理だけじゃなくて掃除も洗濯も、家事は一通りできるという。

ごはんもおいしいし、掃除も洗濯もカンペキ。

それでおとなし系で、そこそこ頭もよくって、ひとをバカにしたことを言わない。

マツのダンナになるオトコは、世界でいちばんしあわせだ。

「マツの爪を磨くの」

「………………私?」

「そう。マツ」

「…………………」

目を逸らされてもメゲずに言ったあたしに、マツはものすごく困ったような顔を向けた。自分の爪と、あたしが持ってきた薬局の袋とを見比べて、食事中なのに膝に手を置く。

今時、髪にまったくカラーもパーマも入れてなくて、まっすぐどストレートに伸ばしただけの黒髪のマツ。

そのうえ制服は、このままお手本として掲載できるほどに校則通り。

ブラウスのボタンが首まで留まっているのはいいけど、スカートがきちんと膝丈なんて、いくらおとなし系でもマツくらいだ。

そういうお手本通りのマツはもちろん、爪にもなにも手を加えていない。

白く伸びて飛び出したところは、深爪しない、でも長過ぎない程度に切り揃えられて、――でも、それだけ。

形はすっごくきれいだけど、それだけ。

いや、形がきれいなだけに、もったいないったらない。

あたしなんか苦労して伸ばして、色を乗せて誤魔化して、ようやくきれいに見せてるっていうのに。

宝の持ち腐れだから、色を塗ろうと誘うこと数年。

嫌だと断られ続け、ならばせめて透明なやつだけでも――

と、懇願しても断られ続けて、昨日。

バイト代が入って、先月ちょっとがんばったせいでけっこう余裕があったあたしは、久しぶりにちゃんとネイルの店に行った。

普段は自分で塗るけど、たまにお金があるときには、プロに頼むこともある。ぷちゼイタクってやつ。

ヘタに甘いもの買うとか、服を買うとかより、ずっとずっと気分良くなれるし。

それにあたしはちょっと、将来こっちの道に行きたいなとか、…………まあ、バクゼンとだけど。

思ってたり、する。

他のヤツに言ったら、好きにすればとか、けっこーあの業界タイヘンらしいよとか、適当に流されたけど。

マツに言ったら、いつもの通りにちょこんと首を傾げて――

『……………スズがプロのネイリストになったら、一号のお客さんになって上げる』

俄然やる気湧いた。

それまでは、言ってみただけくらいだったんだけど、ヒマなときとかは、けっこー調べたりするようになった。

で、改めてマツの爪にはどんなのが似合うか考えて――カベにぶち当たった。

伸びたら切るだけのマツの爪だけど、形はすっごくきれいだ。たぶん赤ちゃんのときに、お母さんがすっごく気を遣って切ったんだと思う。

爪の形って、赤ちゃんのときにどう切ったかで決まるって、聞いたことあるから。

で、すっごくきれいなマツの爪――に。

なにをどうしたらいちばんきれいで映えるのか、いろいろ調べたけど、しっくりくるものが全然なかった。

単純に色を乗せただけじゃ、だめ。だからっていって、ストーンやホログラムも違う。

といって、マーブルにすればいいってもんでもないし、先にだけ色を乗せるっていうのも、なんかしっくり来ない。

いろんなサイトとか見ながら考えてたけど、昨日になって、答えに辿り着いた。

磨けばいいんだ。

――まあ、あんまり解決にはなってない。

一瞬そう思ったけど、磨きにだけ来るお客さんも、たまにいるらしい。

職場の都合とかで爪に色を乗せられなくて、でもきれいにしたいからって。

あたし、ネイリストって色を乗せるのが仕事だと思ってた。磨いてくれるけど、それはなんていうか――髪を切る前に、シャンプーしてもらう感じ。

サブ。

省ける手間。

そう思ってたんだけど。

「最初にちゃんと磨くのが大事って、聞いてはいたんだけどさ。あたしめんどいから、てきとーにやってたんだよね。で、昨日、バイト代入ったから、久しぶりにプロのネイル頼んで………そこで、自分では上手く色が乗らないとか相談したら、磨き方が悪いからだって」

爪を磨くということも知らなかったマツは、なにをされるのかと、完全に引いてた。

でもあたしが、色も乗せないし薬も塗らない、ただ角質を落とすだけっていっしょーけんめーに説明して、それだけならいーでしょ?!ってお願いしたら、なんとか指を貸してくれた。

そうカンタンに気分を変えたりしないマツだけど、あたしは大慌てで口の中にパンを突っ込んで、お昼を終わらせた。

それから、差し出されたマツの手を取って――

白くてやわらかい、マツの指。

でも思ってたより、ちょっとだけ指の先が固い。

よっぽどのことでないと、考えた先から口に出ちゃうあたしがそう言うと、マツはいつもの通りに首を傾げた。

「…………そうなの?」

つぶやいて、一度手を取り戻すとあたしの指をつまんだ。ふにふにと揉まれて、あたしは口を引き結ぶ。

――よっぽどのことは、言わない。あたしの、『よっぽど』で言っていない、ヒミツ。

ずきずきと、痛むくらいに疼く下半身を持て余して、あたしはマツからさっさと指を取り戻した。

「………たぶん、ごはん作ってるから。熱いものとかも、素手で掴むし…………そのうち指の皮が厚くなって固くなるわよって、おばあちゃんに言われたことがある」

「そっか」

さっきよりもどきどきしながら、あたしは改めてマツの手を取った。

マツの指は、マツがちゃんと家事ができるオンナだっていう、証明。

オンナなのにやわらかくねえなとか言う、見る目のないオトコには、ゼッタイにもったいない。

そんなオトコ、あたしがゼッタイ、近寄らせない。

マツはきっと、そういうところ鷹揚で、全部流しちゃうし……………。

そうやって、お昼を食べてから延々と磨いているのは、マツの右手の人差し指。

教えてもらった通りにやってるけど、やっぱり難しい。

せめて自分の指でやってみてからにすればよかったけど、始めちゃったもんは仕方ない。

途中で放り出したら、せっかくきれいなマツの爪を汚しただけになる。

そんなの、赦せない。

あたしもだけど、マツも。

「よっし。これからだからね、マツッ」

ようやく削り落とす作業が終わって、あたしは思わず満面の笑みになった。白く濁っただけの、マツの爪――だけど、これから磨いたら。

「…………まだあるの?」

メイクやなにやらが時間も手間も掛かるものだと、なんとなく知ってはいても、その詳細は知らないのがマツだ。

なにしろ、やったことがない。

指一本にものすごく時間を掛けるあたしに、先に音を上げて逃げようとした。嫌だとは言わないけど、体が逃げた。

まだ角質を削ったとこで、磨いてない段階だ。

爪は白く濁っただけで、それだったら手をつけないほうがマシっていう状態。

「なに言ってんの、マツこれじゃ、汚くなっただけじゃん。本番はこれからだっつーの」

「……………………………下準備、だったの?」

慌てて指を掴んだあたしに、マツも諦めて付き合ってくれて――

昼休みも終わる、ぎりぎり。

「ね、ほら、見てッ我ながらケッサク聞いて初めてでここまでできるって、ちょっと天才ッ!」

ようやく仕上がった指を持ち上げて見せてやると、マツはまず、ほっと安堵した顔をした。

それから自分で掲げて見つめて――

「………………そうね。きれい」

ふんわりと、ものすごくうれしそうに微笑んで見入った。

昼休みは、もうすぐ終わる。

トイレに行っている時間があるかは、ビミョウ。

でも下半身がずぐずぐして、一度トイレに行きたい。行かないとたぶん、――スカート沁みそう。

処女なんか捨てるんじゃなかった。シンユウ相手にまで節操なく濡れるって、あたしの体はばかじゃないのか。

いつもの後悔とともに、あたしは決意を新たにしていた。

あたしはもう、ほんとのホンキで、プロを目指す。

それで、マツのこと磨きに磨いて、家事も外もカンペキなマツにする。

そんなカンペキなマツを、そこらの適当なオトコになんか、触らせられない。

見た目も収入も、性格もなにもかも、世界でいちばんカンペキなオトコにでなきゃ――

あたしのシンユウは、渡さない。