「せいちゃん。せいちゃんは、いつか、世界に呑みこまれて消えてしまうかもしれないけれど。わたしのことを覚えていてくれる世界に呑みこまれるよりはやくに消えてしまうわたしのことを?」

「かぐやちゃん。なにいってるの。征司くんは覚えていてくれるわよ。なんたって、東京の大学を目指せるくらい、頭がいいんだから」

だから、はやく帰りましょ。

おばさんが腕を引っ張る。

そういえば、香具夜と話したことが久しぶりだったことを思い出した。

顔を見ることはあっても、こんなふうに電波な会話に付き合ったのはいつ以来だろう。

夜-04

そう、夏だ。夏休み。

じりじり焼ける日の下。咽るような草いきれ。アスファルトの照り返し。

川を渡って吹く風の冷たさと、それすらもうっとおしい暑さに変えてしまう、非情な太陽の光。

その下で、刈られたばかりの青々しい血生臭さを漂わせる草の上に、香具夜は今日のように横たわっていた。

キャミソールに、太ももも露なミニスカート姿の香具夜。

キャミソールの下に、本来つけていなければならないはずの下着をつけていなかった。胸の突起がなまなましく天を目指していた。

なにしてるの?

ぼくは訊き、香具夜はいった。

香具夜は。

「絶望しているの、香具夜?」

静かに訊いたぼくに、香具夜はおばさんの手を振り払った。

そんなことをしたのは生まれて初めてだろう。

どんなに愛されても、大切にされても、人形としてしか反応しなかった香具夜。

だれになにをいわれなくとも、己がだれの子かわからないということを肌に刻みつけられ続けた香具夜。

香具夜の名は、月に帰る昔話のお姫様、拾われ子のかぐや姫から取られたものだ。

どうしてかぐやはかぐやなの?

訊いた香具夜に、おばさんは答えた。

かぐやちゃんが、あんまりにもかわいくて、昔話のかぐや姫そっくりだったからよ。

幼い香具夜は訊く。

じゃあ、かぐやは月のおひめさまなのいつか、月に帰らなくちゃいけないの?

おばさんは、香具夜を抱きしめる。まとわりつく、熱気を伴って。

そんなことさせないわ。かぐやちゃんは、ずっとお母さんの子なの。ずっと、お母さんのそばにいるのよ。だれにも渡さないわ。

「かぐやちゃん!」

手を振り払われた竹取の媼が叫んだように、おばさんが悲痛な声でもって叫ぶ。

大きくなった香具夜が、いつか自分のもとを離れることを、決して赦さないと誓った母親。

巣立つことを赦さない、自我を持つことすら赦さない、絶対の君主。

なぜなら香具夜は、親に捨てられて死ぬところだったのを、わざわざ高い金を払って引き取られたのだから。

香具夜を育てるために、うつくしく保つために、高い金が払われ続けたのだから。

逆らうことなど、万が一にも赦されない、娘という名の奴隷。

「ちがうよ」

香具夜が、大きな声で否定する。

淡々として、人形のように抑揚のない話し方しかしない香具夜にしては珍しい、大声。

「絶望しているのは、せいちゃんだよ。わたしじゃない」

「かぐやちゃん!」

おばさんが叫ぶ。手を伸ばす。

香具夜はその手をさらりと避けて、さらにはおばさんのからだを後ろに押しのけるという荒業をくり出した。

あまりのことに、おばさんはぺたんと尻餅をつく。

その顔は暗闇に隠れて見えないけれど、呆然としているであろうことは予想に難くなかった。

香具夜はおばさんを見ない。ぼくを見つめている。

ぼくだけを。

「せいちゃん。わたしの世界は絶望でできているから、もう絶望することはない。でも、せいちゃんの世界は、絶望ではできていない。だから、せいちゃんは絶望する。その絶望は、きっと、わたしの世界のようにうつくしくもやさしくもない。せいちゃんの世界が、絶望に慣れていないのだもの」

目を瞠って成り行きを見つめるだけのぼくに、香具夜は精いっぱい叫んでいる。

精いっぱい、世界そのものである母親に逆らいながら。

ただの幼馴染であるぼくに。

幼馴染でしかない、ぼくに。

ぼくは笑った。

そうだ、ぼくは香具夜の幼馴染でしかない。親にとっては、はた迷惑な。

ぼくは香具夜を利用し続ける。

この村を出て、自分ひとりで生きていけるようになるまで。

自分ひとりで生きていけるようになるまで?

突然、やわらかい香りがぼくの鼻を刺した。

香具夜が目のまえに来て、ぼくの腕をしっかりと掴んでいた。

その顔は、驚くほど近くにあった。

今朝、孝一の顔がそばにあったように。

「ふたりとも絶望しているのなら、心中でもする?」

腑抜けのように笑いながら、ぼくは訊いた。

「そんな世界に、生きていたくないよ」

「心中しない。心中しないよ」

香具夜から返ってきた答えの意外な強さに、ぼくは驚いた。驚いて、香具夜の夜より黒い瞳を見た。

鮮やかに、その瞳は潤んで光を放っていた。

「わたしはもう、せいちゃんと心中しないよ。ふたりとも、生きていくんだ。生きるんだよ、どんなことがあっても。だって、世界が絶望に塗れているってことは、世界が絶望するっていうことは」

それは、幼いあの日、ぼくが香具夜にいった答え。

「そこに、希望があるっていうことなんだよ。希望がないなら、ひとは絶望しないんだから。探すんだよ、希望を。わたしたちは、希望を探すために、見つけるために、絶望の世界に生まれてきたんだから」

精いっぱい考えた、屁理屈。ぼく自身、信じていもいない、わかってもいない、世界の真実。

けれど、あのときのぼくはわかっているような気がしていた。信じていた。

絶望がうつくしいというのなら、その反対の希望は醜いだろう。

けれど、世界を救うキィワードである、希望。

絶望から、世界を救い続けているヒーロー。

醜いせむし男のような、報われないけれどひとびとを救うなにか。

「見つからなかったら」

大きくなって臆病になったぼくは、あの日、香具夜が問い返さなかった答えを求める。

香具夜が求めなかった、あるいは絶望そのものの言葉を。

あの日より大きくなった香具夜は、ぼくの腕をしっかりと掴んで世界に縫いとめ、力強く支えた。

「見つけるよ。せいちゃんひとりでは見つけられないというのなら、わたしがいっしょに探す。そして必ず、せいちゃんにあげる」

それは、香具夜自身を傷つける言葉だ。

ぼくにとっての希望とは――必ずしも、香具夜の望む答えであるとは限らない。

なぜならぼくの絶望は、香具夜が見つけ出したのだから。

あの夏の日、ぼくが静かに香具夜の希望を打ち砕いたように。

「かぐやちゃん!」

一段とヒステリックになった声が轟き渡り、香具夜のからだがぼくから離れていった。

ぼくは鳩尾に強い衝撃を感じてよろめいた。

復活したおばさんは、ぼくの腹を突いて、香具夜のからだを抱え込んでぼくらを引き離したのだ。

「どうしてどうしてどうして!」

おばさんの声はもはや騒音以外のなにものでもなく、言葉は意味をなさなかった。喚きたてながら香具夜を引きずっていく。

香具夜はもう、抵抗することはなかった。

ぼくはよろけるままに尻餅をつき、ぼんやりと香具夜を見送った。

香具夜はずっとぼくを見ていた。

あの日、香具夜は訊いた。

わたしを抱かないの?

ぼくはその問いの意味がしばらくわからなくて、立ち尽くしていた。

わからないということがどういうことなのか、ぼくがわかってその場を逃げ出すまで、香具夜は黙って横たわっていた。

おそらく、ぼくが逃げ出したあとも。

足元の川には蛇が泳いでいて、なぜか上流を目指していた。

ただ単にそれは、流れるまま、流されぬように抗っていただけかもしれないけれど、流されることも、選択肢のひとつではあったのだ。

川の流れに抗い続けることは難しい。たとえばそれが、ぼくにはひょいと飛びこえられる幅の川で、ぼくには泳げないような浅い川でも。

小さい蛇にとっては大河だったし、ただそこで生き続けることは、陸の生き物である蛇にとっては死と等しい難行だった。

ぼくは蛇に、陸があることを教えた。蛇が忘れていた、自分が生きる本来の場所。

容易く呼吸のできる場所があることを、ぼくが蛇に教えたのだ。

だから、蛇は泳ぐことを止めなかった。ぼくこそが陸になることを信じて。

ぼくは結局、蛇に陸があることを教えたけれど、陸ではない、人間だった。蛇を懐に飼うことはできない、人間だったのだ。

蛇はまた川に落とされた。

落とされて、だが、泳ぐことを止めなかった。今度こそ陸に上がると決めて。

流れようとしているぼくを、いっしょに連れて。

陸を教えたのが、ぼくだから?

答えはわからない。

ぼくはただ眺めていただけだ。なぜ蛇は泳いでいるのだろうと。

なぜ?

だが、ぼくは立ち上がった。

疑問を抱えていても、絶望に塗れていても、とりあえず、立ち上がったのだ。

そして、凍えた関節を励まして歩き始めた。

まずはうちに帰り、熱い風呂に入る。母親に頼んで、生姜湯を淹れてもらおう。それを飲みながら、勉強をする。

外の世界に出て行くために。

世界に希望があるのかどうかを探しに行くために。

いつか、世界がぼくを呑みこんでしまうまで。

世界よりはやく消えてしまう幼馴染とともに。

END