左手の婚約者:00

ぐす、と洟を啜る音が聞こえた。

かすかな音だが、明人は聞き逃したりしない。かくれんぼは得意なのだ。――得意ならざるを得なかった。気難しくて、我が儘な婚約者を持ってしまったがために。

とはいえ、明人はそのことを不幸だとは思っていない。気難しいところも、我が儘なところも、高飛車なところも、高慢なところも、全部含めて、婚約者を愛している。なにをしても、なにをされても、婚約者が愛しくて堪らない。

おまえはきっとそう言うと思ったよ。

親が笑って頷いていた。

そもそもは親の決めた婚約者だが、明人はそれを親が成し得たもっともすばらしい功績だと思っている。

「…みーつけた」

音をたどって納戸に入り、重ねられた長持ちの後ろの隙間を覗くと、案の定、花のようにきれいな明人の婚約者が、哀れな泣き顔で蹲っていた。

二歳年上だが、九歳の明人とそれほど変わらない体格だ。いや、抱きしめるとわかるが、よほど細い。

先天的な心臓の病気ゆえに、発育が悪いのだと聞かされた。

「ね、出てきて」

「ばか、来るな。おまえなんか知らないっ、おまえなんかきらいだ、あきとっ」

ぐずぐずと洟を啜りあげながら、怒っている婚約者は口汚く明人を罵る。これでいて二歳年上だ。だが、二歳年下の婚約者に甘えることも、我が儘を言うことも躊躇わない、素敵お姫様なのだ。

「おまえなんか、どぉせ、俺のことなんかどうでもいいんだからっ。探したりするな、ばかっ」

「つーくん…」

怒鳴る婚約者――剛に、明人は途方に暮れた。

呼吸が荒い。ただ泣くだけでも、か弱い剛の心臓は悲鳴を上げるのだ。こんなふうに興奮して怒鳴ったりしたら、発作を起こして倒れるかもしれない。

人気のない奥の間の、狭い納戸の中。しかも、重いものが入った長持ちの山の奥で倒れられたりしたら、いくらなんでもしゃれにならない。

最近、発作を起こして倒れる頻度が増えていることに、九歳の明人でも気がついている。遊びに来ても、以前のようには会えない日が続いている。

今日はちょっと疲れちゃって眠ってるから、と言われて、顔を見ることもできずに追い返されること、たびたび。

ようやく、久しぶりに会えたと思ったら――

「つーくん」

「出てけっ、おまえなんかきらいだっ。顔も見たくないっ」

呼吸が怪しくなっている。手が胸を鷲掴みにしている。発作の前兆が現れているのかもしれない。

明人の耳に、今しがた聞いたばかりの親たちの話が蘇る。

次に大きい発作が起きたら――

「つーくん」

つぶやくと、明人は決心して長持ちを乗り越えた。

納戸の中は暗い。

よく見えずに、着地に失敗して顎をしたたかに打ちつけた。星が飛んで、一瞬、視界が明るくなったように錯覚する。反射的に涙がこぼれかけるが、それを袖でぐいと拭いて堪えた。

深呼吸をすると、蹲る剛を抱きしめた。

「やだよ、つーくん。いじわるいわないで。僕がどんなにつーくんのことすきか、しってるでしょう?」

「…っ」

荒く浅い呼吸が耳を打つ。抱きしめた体が大量の冷や汗で湿っている。

明人には想像もできない痛みと、剛は闘っているのだ。

「いじわるしないで、つーくん…だいすきなんだよ、おねがい」

囁いて、必死に抱きしめる。

剛の体は十一歳の少年としては小柄だが、まだまだ細い九歳の明人には、そんな小さな体ですらきちんと抱きくるめられない。

まるで取りすがっているようにしか見えないのが嫌で、悔しい。

この我が儘で高慢な婚約者が、全身で甘えてきても受け止められるようになりたいのに。

幸いなことに、発作は小さく済んだらしい。

抱きしめていると、徐々に呼吸が落ち着いてきた。強張った体が、自然なやわらかさを取り戻していく。

「つーくん」

ほっとして腕を緩めると、骨ばった指が引き縋ってきた。腕に爪が食いこんで痛い。

だが、その痛みはうれしい痛みだ。怒って近づくことを許してくれなかった剛が、こうやって抱きしめさせてくれるのだから。

わずかに体を動かして、長持ちに囲まれながらもどうにか安定した姿勢を取る。

花のようにきれいで高慢な婚約者を、腕の中いっぱいに抱きしめた。

「あのね、つーくん」

「やだ」

駄々っ子そのもので、剛が吐き捨てる。腕に食いこんだ指の力は、この細い体のどこにそんな力があるのかと驚くほどだ。

明人はわずかに顔をしかめた。

年下の婚約者に甘えることを躊躇わない剛は、そのまま嗚咽を漏らす。

「やだ。やだ…離れたりしたら、おまえは俺のこと忘れる…俺以外の人のこと、好きになっちゃう…そんなのやだぁ…っ」

「つーくん…」

なんだかんだ言って、婚約者のほうも明人のことを愛してくれている。

多分に我が儘に、高慢に。

それでいて、少しも自信なく。

追い返されることを覚悟のうえで、今日も明人は剛の家へ遊びに来た。

追い返されても追い返されてもめげずに日参するのは、婚約者としては当然の務めだ。なにより、相手のことを愛しているなら尚更。

そうやって遊びに来ても、剛が発作で寝込んでいたりすれば、すげなく追い返されてしまうのが日常というもの。

だが、今日は家に上げて貰えた。

久しぶりに、あの花のようにきれいな婚約者に会える。

心ときめかせた明人が通されたのは、しかし、剛の父親の書斎だった。そこには明人の父親もいて、二人の前に正座させられた。

そして聞かされたのが、剛の病状だ。

発作の頻度が増えていることは、明人も気がついていた。たぶん、あまりいいことではないということも。

それでも、深くは考えようとしなかった明人に、親たちは厳然と告げた。

次に大きな発作を起こしたら、剛の命は危ないのだ、と。

剛の成長に、剛の脆弱な心臓は悲鳴を上げているのだ。

このままでは、剛は長く生きられない。だから…――

「フランスなんて、どこだよ…そんなの知らない、ばかぁ…っ」

弱々しい声で、剛が吐き捨てる。明人は黙って、剛を抱きしめる腕に力を込めた。

フランスに、剛の病気に関しては権威である医者がいるのだという。

前々から連絡は取り合っていたのだが、このたび、ようやく治療を担当してもらえることになったのだ。

とはいえ、日本に来てもらうわけにはいかない。剛の病気は一朝一夕に治るものではないのだ。長い療養が必要になる。その間、フランスの権威を借りっぱなしにすることはできない。

だから、剛はフランスに行くことになった、と。

何年かかるかわからない治療のために、ひとり渡仏することになった、と…――。

聞かされた明人は、最初、目の前が真っ暗になった。

大事な大事な、どんな宝物より大切な婚約者が死に瀕しているなどということがもう、信じたくないほど最悪の知らせだ。

そのうえ、何年も何年も、剛と離れて生きなければいけない。

違う国で、違う時間で。

親たちは、明人にもわかりやすく、地球儀を使ってフランスと日本を教えてくれた。

九歳の明人にわかったのは、絶望的に遠いということだ。

治療が終わるのがいつかもわからず、どこへとも知れぬ国へ。

永遠の別離を告げられたも同然だった。

「どうする、明人くん」

ついていくのはなしだよ、と言われて、ならば明人に答えられる言葉はひとつだった。

「待ちます」

実際、待つ覚悟を固めていた。何年だろうが、永遠にだろうが、剛以上に愛しい存在が現れるはずもない。

いつか帰ってくると約束してくれるなら、いや、たとえ約束がなくても、待つ。

そう伝えようとしたところで、立ち聞きしていた剛が癇癪を起こしたのだ。

話をしようとした明人の声も聞かず、追えば逃げて。

九歳の子供どころか、大人にとっても広い宮野谷家である。隠れ場所も豊富にある。

生まれたときからこの家に暮らしている剛は、必然的にかくれんぼの名手だった。

明人にいじわるをしようと思ったら、適当なところに隠れて姿を見せてくれないのが常なのだ。

こんなにも自分が、彼を求めていることを知って。

「つーくん」

「おまえなんか、きらいだ…」

腕に取りすがって、剛は甘くつぶやく。

鼻の頭にキスをして、明人は暗闇でも輝く剛の瞳を見つめた。

「僕はすきだよ。あいしてる。
どんなにはなれたって、どれだけあえなくったって、ぜったい、いちばんにつーくんのことあいしてる」

「…そんなの、言葉ではどうでも言える」

「そんなことないよ。ウソついちゃいけないんだから。ちゃんとやくそくしたじゃない。僕はつーくんにはぜったいウソつかないって。
だからウソじゃないの」

「…そういうことじゃないもん」

不貞腐れたようにつぶやき、剛はそっぽを向いた。ず、と洟を啜る。

明人は慎重に顔を寄せて、剛の頬にキスをした。わずかにこちらを向いたところで、くちびるにもキスをする。

「つーくんだけだよ。僕には、つーくんだけ。
だからおねがい。きらいなんていわないで。僕にいじわるしないで。
ね、つーくん。つーくんもして?」

「…」

キスの雨を降らせながらお願いすると、花のようにきれいな婚約者は、腕にめり込んでいた指をそろそろと離した。細いが形のきれいな手を明人の頬に添え、顔を近づける。

うっすら開いたくちびるが明人のくちびるを塞ぎ、ちゅ、と音を立てて離れた。おまけにぺろりと舐められる。

瞳がきらきら光って、明人を見つめていた。

「…ありがと、つーくん」

えへへ、と笑って頭を抱きしめると、小さなため息が聞こえた。どうやらだいぶ、激情が落ち着いてきたらしい。

明人はさらさらで触り心地のいい剛の髪を梳きながら、自分の想いを素直に吐露した。

「ほんとはね、つーくんとはなればなれになるの、すごくいや。
でもね、つーくんがしんじゃうのは、もっといやだ。
だって、はなればなれになっても、どこかにいるってわかってるなら、さがしてまたあって、こうやってキスできるけど、しんじゃったらもう、キスできないんだよ。つーくんのこと、こうやってだきしめて、あいしてるっていうのもできないんだよ。
僕、そっちのほうがずっといや」

「…離れたくない」

「僕もついていきたいよ。でも、おじさまもおとうさんもだめっていうんだもん。僕はこどもだから、おとながだめっていったら、みうごきとれないよ。
でもぜったい、このまんまにはしないからね。
じぶんのおかねためて、じぶんひとりのめんどうみられるようになって、ぜったい、つーくんのことおいかけるんだ」

「…ほんとに?」

「ウソつかないよ。やくそくしたでしょう」

「…」

腕の中で、小さな頭がすり寄ってくる。なにか考えている間があって、やがて細い手が胸を押した。

顔を見合わせたいということだと察して、明人は素直に離れる。

目線を合わせると、花のようにきれいな婚約者は、わずかに瞳を揺らした。

「追いかけなくていい」

「つーくん」

「その代わり、待ってて。ぜったい、待ってて。俺は必ず、元気になって、帰ってくるから。ふつうの人みたいに、なんでもできるくらい元気になって帰ってくるから。
おまえは、ぜったい俺のことを待っていて」

「…」

どこか縋るように言い募られる。

待っているだけでは、足らない。追いかけたいのだ。

傍にいられるようになったら、すぐにでも傍に行きたい。

傍で生きたい。

訴えようかと思って、止めた。

おそらく、明人が考えているよりも、明人が理解したよりも、ずっとずっと剛のほうが、自分の病気について理解している。その治療についても、わかっているのだ。

その困難さをわかったうえで、明人に待っていてくれと言うなら。

「…どうしてもつらいときは、よんでくれる?」

それでも訊いた明人に、剛はうっとりするほど華やかな笑みを閃かせた。

「うん」

細い手が頬に伸びて、くちびるが迫ってくる。ちゅ、と音を立ててキスされて、小さな頭が甘えるように胸に凭れた。

「おまえ以外のだれに、甘えるのおまえ以外のだれに、俺のことがわかるの?
おまえ以上の存在なんて、ぜったいいないんだから」

「じゃあ、まってる」

約束して、明人は甘える婚約者を抱きしめた。

花のようにきれいな彼からはいつも、焚き染められている香の匂いと、それでも消し切れない薬の臭いがする。

次に会ったときには、このやわらかな香の匂いだけの彼。

それも不思議な気がしたが、ただ楽しみにしようと思った。

次に会うときまで…――