左手の婚約者:02

ホームルームが終わるやいなや、明人は大量の荷物を一瞬で纏めて、教室を飛び出した。

手際の良さは男子高校生、それも一年生のものではない。

その足で、隣のクラスに乗りこんだ。ホームルームこそ終わっていたものの、まだ、教師も生徒もいる。堂々と乗りこむ度胸は、以下略。

「おい、おまえ、余所のクラスに…」

教師の注意の声にはきれいさっぱりと耳栓をして、一瞬で見つけた目的地へ行く。

どんなに怒り心頭に発していても、花のようにきれいだと思う心はまったく変わらない、明人のつーくん。

教室の中ほどの席にいた剛は、机の上に大量の荷物を散らばしたまま、驚愕の眼差しで明人を見つめていた。

放っておかれるとは思っていなかっただろうが、ここまで素早く来られるとも思っていなかったのだろう。

周りを囲む、クラスメイトという名の邪魔者を蹴散らし、明人は剛の荷物も一瞬で纏めた。

呆れる手際だ。

荷物の大半は、分厚い教科書である。一人分でも重さは半端ではないが、それを二人分、持った。

「行くよ」

呆然と見つめる剛に、厳然と告げる。

「立って、つーくん。早く」

「…はい…」

しおらしい返事とともに、剛は立ち上がった。

「あの、荷物…」

持つから、と伸ばされる手は、制服を着ていても細い。明人だとて人のことを言えはしないが、それにしても制服に着られている感満々だ。

明人は黙って背を向けると、ずんずん歩き出した。

「明人…」

追ってくる声が、甘い。

怯えて震えているのだが、どうにも甘く響く。声変わりして低くなって、もう、女の子の声と聞き間違えられることもなくなっただろう。

けれど、甘さだけは変わらない。耳から全身を溶かされるようだ。

今は聞きたくない。聞きたくないが、もっとたくさん、この耳を埋めてほしい。いっそ、自分の名前だけ呼ぶように。

考えごとをしながらバスを乗り継ぎ、家までの道のりをずんずん歩いていた明人は、けほけほと咳きこむ音に立ち止まった。

後ろを振り返る。

遥か後ろのほうで、息を切らした剛が胸元を押さえて咳きこんでいた。

完治したから、帰ってきたのではないのか?

ふともたげた不安に、明人の足が固まる。

出会った当時はやんちゃに走り回りもしたつーくんは、別れるころには階段の上がり降りさえできなくなっていた。

その状態から、回復するための渡仏だったはずだ。

そのための、六年間の空白。

健康になって、普通の人と同じになって帰ってくる。

それが、明人とつーくんの交わした約束だった。

もしも、治っていなくて――約束を守れていないと思って、会うことを拒絶していたとしたら…。

「明人」

立ち竦む明人の元へ、剛は小走りで寄ってきた。うれしそうに微笑んで、今は頭ひとつ分も高い位置にある明人の顔を見る。

なんでそんな顔ができる。自分に対してした仕打ちを忘れたのか。

苛立ちが募って、明人は黙ってまた歩き出した。

ただし、歩調は緩める。

自分からすると、気が遠くなるほどゆっくりの歩調で、ようやく剛は息も切らさずに歩けることがわかった。

「…明人」

無言で歩き続けて、しばらく。剛が、不安そうな声を上げた。

このまま行くと、花懸家に行ってしまうことに気がついたのだろう。

もちろん、逃がすつもりなどない。

宮野谷家に送れば、門前で追い払われるのだろうから、邪魔をするもののいない自分の家に連れ込むのは当然だ。

「明人…あきと」

応えない明人の名を、剛はそれでも呼び続ける。苛々するのと同時に、いつまでも呼ばせていたい気持ちがある。

そうやって、ずっと自分だけ見ていたらいい。

そうしたら、なにもかもすべて許して、愛せる。

昔のように、ただ愛しいだけでいられる。

こんなふうに尖った気持ちでいるのは嫌だ。

嫌だが、許せない。

胸が痞えて、視界が眩むのだ。

黒と白を行ったり来たりする間に、自分の家の前に着いた。

ごく普通、――よりは、少し大きめの、洋風住宅だ。日本の伝統家屋に住んでいたつーくんは洋風建築が珍しいらしく、遊びに来るたびに不思議そうな顔をしていたものだった。

門扉に手をかけると、制服の裾が遠慮がちに引かれた。

「あの、ね…明人…」

「上がるよね?」

疑問形にはしながらも、これは命令だ。小さいころには、こんなふうに大上段に命令することなど思いつきもしなかった。

明人の基本スタイルは、お願いだ。

縋りつくように、情けを請うように、いじましくお願いする。

しかし、今、そんなことをする気分ではなかった。そもそも、そんなかわいらしい時代はとうに置いてきた。

今かわいく振る舞えないのは、なにを置いても、この婚約者があまりにすげなく自分を扱ったからだ。

「明人…」

剛の瞳が潤み、声が上擦る。

明人のつーくんらしくない態度だ。

彼も変わったということなのだろうか。

昔は、大上段に命令されようものなら、発作の危険も顧みずに癇癪を起こして喚き散らしたものだが。

「どうぞ早く、つーくん」

促し、鍵を使って扉を開く。

後ろに立つ剛がここまで来て逃げないように、華奢な体を先に押しこんだ。素早く扉を閉めると、鍵を掛ける。

がちり、と意外に大きく響いた音に、剛の体が竦み上がった。

「上がって。スリッパどうぞ。
部屋こっち。変わってないから、覚えてるでしょう」

「お邪魔…します…」

恐る恐る言いながら、剛はのろのろと家に上がった。きょときょとと辺りを見回すさまは、昔と変わらない。

間取りこそ変わってはいないものの、内装は多少変わっている。

どちらにしても洋風で纏められているから、剛には珍しいのだろう。

いや、そんなこともないはずだ、と明人は思い直した。

ついこの間までフランスにいた剛だ。かえって、新鮮な気持ちで検めているのかもしれない。

階段の上がり口で待つ明人の元へ、剛はそろそろやって来た。

…階段は昇れない、と言うだろうか。

言われたら、両肩に抱えた鞄を放り出して、華奢なつーくんをお姫様抱っこして運ぶだけなのだが。

九歳の自分にはできなかった。だが、今の自分にはできる。伊達に根暗く暗黒の中学時代を送っていたわけではないのだ。

再会したなら、してあげられることが少しでも多いように。鍛錬に鍛錬を重ねた。

「明人…あのね…おうちのひとは?」

「いないよ。仕事」

遠慮がちな問いに言い捨てて、階段を昇る。とりあえず、鞄を運ばないとどうしようもない。

残された剛はゆっくりだが、きちんと自分の足で階段を昇ってきた。昇りきると、せいせいと忙しなく肩で息をする。

少なくとも、状態は好転はしたようだ。

だがいかんせん、体力がない。

冷静に分析し、明人は自室へと足を運んだ。

剛は階段の前から動かない。

二つの鞄を部屋に放りこむと、明人はそんな剛をじっと見た。

「つーくん」

声は驚くほど冷たかった。剛がびくりと肩を震わせる。

明人のつーくんらしくない仕種だ。

彼はいつでも高慢で高飛車で、年下の婚約者を虐げることを躊躇わない性質だった。我が儘も甘えも、すべて許されて然るべきというのが基本姿勢。

そして実際、明人は驚くべき忍従性で、花のようにきれいなつーくんに従ってきた。

「つーくん。そこで話したいのそこが気に入ってるの?」

ばかにした口調で言うと、わずかに瞳が尖った。

しかしすぐにふるりと揺らぎ、自分の体を抱くようにして、悄然と明人の元へやって来た。

華奢な肩を掴み、部屋の中へ押しこむ。

ベッドと勉強机、それに本棚とクロゼットがあるだけの部屋だ。基本的なものはなにも変わっていない。

だが、本棚に並ぶ本は絵本から、小難しい辞書の類へと変わった。

フランス関係のものがいちばん多い。

そして、ベッドの上に溢れていたぬいぐるみたちも姿を消して、今あるのは剛と一度だけ行った遊園地で、お揃いで買ったくまのぬいぐるみがひとつだ。

思えば、デートらしいデートをしたのはあれ一回のことだった。剛は日曜平日もなくいつでも踊りの稽古に明け暮れていたし、稽古をしていないときは寝込んでいた。

そういう、家業と真剣に向き合う剛のことは好きだったし、誇りにも思っていたが、離れて気がついた。

あまりに、思い出として縋るべき縁が少ない。

「…」

俯いて自分の体を抱き、剛は震えている。

思い出の中で、明人のつーくんはこんなときはいつでも自棄を起こした瞳で睨みつけてきたものだが。

「…それで、つーくん」

ベッドに腰掛け、明人は俯く剛を下から覗きこんだ。

「なにか言うことあるでしょう?」

あるよね、ないとは言わせない。

言外に断じた明人に、剛は瞳を見張った。ぐす、と洟を啜る音がする。

もはや泣きが入っているらしい。

それもそうだ、こんな態度を取った明人など見たことがないだろうから、怯えもするだろう。

だからといってやさしくしてやる義理もない。

じっと見つめる明人に、剛のくちびるが震えた。

別れるころは血色が悪くて、いつも紫色だったそこは、今はほんのりとぴんく色だ。猛烈に触れたい欲求を煽られる。

「つーくん」

「…ぁ。…た、だぃま…?」

「…」

この場合、それでいいと本気で思っているなら、明人のつーくんは絶望的に頭が悪い。

思いきり顔をしかめた明人に、剛はまた、ぐす、と洟を啜った。

「…れん、らく…しなくて、ごめん、なさぃ…?」

「…」

だからなんで疑問形だ。

要するに、謝りたくないということか。悪いことをしたとは思っていても、謝らなければいけないことだとまでは思っていないと。

苛々を隠すことなく表情に出す明人に、剛の瞳が彷徨う。

「つーくん、あのね?」

ひどい渋面でありながら、明人の声はやさしかった。

怖いほどに。

そこにいるのが高校生の剛ではなく、癇癪を起こしてはかくれんぼをするつーくんであるかのように、やわらかく。

「病気、治ったの体の具合、良くなったのかな?」

「…うん」

怒っていると如実に表す顔と、やさしい声のギャップに戸惑いながら、剛は小さい子そのものの仕種でこっくり頷いた。

明人の声が、不機嫌に転じた。

「それでなんで、この扱いになるわけつーくん、僕のことなんだと思ってるのずっと待ってたのに、会いにだって行ったのに、門前払いしたりして!
それだけじゃないよ、帰ってくることを僕に教えてくれなかった手紙でもいい、電話だってできたはずでしょう?
それが黙って帰ってきて、そのうえ会ってもくれないって!」

昔のつーくんが乗り移ったかのように癇性に叫んだ明人に、剛が怯えて一歩後退さった。

んく、と涙を呑みこむ音がして、泣きたいのはどっちだとさらに叫びたくなった。

「待ってたんだよ。ずっと待ってたんだ。
手紙だって、電話だって、なんでもいいんだ。
一言くれるだけでよかったのに、一言だけでなんでも耐えられたのに…!」

「…あきと…」

顔を覆って呻く明人の傍に、そろそろと剛が寄ってくる。床にすとんと膝をついて、下から顔を覗きこんできた。

ごめんなさいとか言ったら、殴りそうだ。

この花のようにきれいで愛しい明人のつーくんを、殴るなんてしたくない。だが、謝る前にいくらでもやれることがあったはずだと、謝ったところで遅いのだと、心が暴れる。

「…明人、好き」

「…は?」

つぶやかれた告白に、明人は目を見張った。

前言撤回だ。

なにを言われても殴りたい。

凶暴な気持ちに駆られる明人に気づかないのか、剛は細い指を明人の腕に副わせ、そこからたどって引きつる頬を挟んだ。

剛の手はひんやりと冷たい。いつも熱っぽくて、妙に熱かったつーくんなのに。

「好き。明人のことが好き。大好き」

「…そのわりに、扱いがあんまりなんじゃないの」

冷たく指摘すると、瞳から手まで、びくりと震えた。一瞬、気弱に伏せられた瞳は、しかし、すぐに一途な光を宿して明人を見つめる。

「でも、好き。これだけは、ほんとなの。明人のことが好き。信じて」

「信じられない」

信じられたらびっくりだ。

すげなく言った明人に、剛の瞳が潤んだ。こぼれる吐息が熱量を増す。

「おねがい、明人…好きなの。明人が、好きなの…。俺には、明人だけなの。だから」

伏せられた瞳、わずかに開いたくちびる。近づいてくるそれが意図することはわかった。

引き結ばれた明人のくちびるに、熱い吐息がかかる。ちゅく、と粘膜に覆われ、伸びた舌に舐められる。覚えている感触そのままだ。

いや――違う。

覚えているより、ずっと、熱くて。

「あきと…」

ちゅく、ちゅく、と小さく音を立てながら、剛は何度も明人のくちびるにくちびるを押しつける。

もどかしい。

腹の底に熱が蟠っていく。

昔のキスと違う。

覚えているものと同じなのに、あまりに違う。

マグマのようなものが腹の底を蠢き、頭が沸騰しそうになる。こんなふうになるキスは知らない。

いくらキスをしても、いつもいつもただ幸福感だけがあったのに。

抱きしめて、押し倒して、体を開いて。

なにもかも、暴いて曝け出したい。

花のようにきれいな明人のつーくんを、この手で。