Varcoraci――其は闇なる神の一族。

太陽を喰らい、月を喰らう、最強無比の龍。

さもなくば、空を喰らい進む、矮小な犬。

数多の口と幾多の口を持ち、闇を生み出すその肚は、この世のすべてを喰らう肉塊。

この世の最初に出でて、この世の最後を喰らい尽くす、始祖にして終焉を告げる禽。

汝、近づくなかれ。

汝、思い馳せるなかれ。

呪いも愛らしい、其は古き正しき邪神に連なる一族。

VARCORACI

1部-第1

強いて言うなら、ツイてなかったのだ。そうとしか言いようがない。

川西仁がその界隈を通ったのは、その日が初めてのことだった。

スラムと呼んで差し支えない、荒れた街中。

荒んだ暴力の臭いが芬々と漂い、それはつまり、血反吐とか、単に吐瀉物であるとか、とてもまともには嗅ぎたくない種類の臭いだ。

しかし、仁は平気だった。

暴力に慣れっこだからではない。鼻が悪いのだ。

詰まっているわけではないが、あまり鼻が利く性質ではなく、ふつうの人なら怖気を奮うような臭気の只中にあっても、あまり危険性を感知していなかった。

そのうえ、仁は見るからにこの街の住人と呼んで差し支えない、暴力と仲の良さげな風貌だった。

険しく瞳を吊り上げた不機嫌そのものの厳つい顔も、ぱんぱんに膨れ上がった筋肉に覆われた分厚い肉体も、どれもこれもが彼がまっとうでないことを示していた。

だが、人を見かけで判断してはいけない――仁はこう見えて、平和主義者で、温厚な性質だ。暴力なんてものとは無縁だし、実に小心者だ。

と、仁は自分では信じていた。

実際には、肩が触れあえば殴り合いに発展させるようなキレやすい男だったし、暴力と縁が切れたこともない荒んだ生活を送ってきた。

その仁が、彼のホームとすべきようなスラムを通ったのは、なにも故郷をつくるためではない。

単に、今まで暴れていたシマが居づらくなったので、ショバ替えを模索して、適当にふらついていただけだ。

そうしてたどり着いたのが――どこなのか、よくわかってはいなかった。

少なくとも、首都圏から出てはいない。わかっていればいいのはそれくらいだ。

ただ、ひどく荒んだ空気が、ぴりぴり肌を焼く緊張感とともに漂っている場所だった。

仁は無意識にその空気に影響されて、いつもよりさらにキレやすくなっていた。

そこに、ビルから飛び出してきた男がぶつかって来た。

男は仁より一回りは小さかったが、同じ穴の貉といった感のある、「まるかいてやー」さんな空気を纏っていた。

纏っていたとはいっても、そのとき男はひどく慌てていて、むしろ恐慌を来していて、泡を食っているという感じだったのだが。

ビルから飛び出してきた男は、仁に真正面からぶつかった。

分厚い仁の体が、わずかに揺らぐほどの突進だった。

喧嘩っ早い仁が、この好機を逃すわけがない。

「なにやってんだてめえ!」

そのまま走り去ろうとした胸倉を素早く掴み、体格の差に物言わせて吊し上げた。

「やめろぉ、放せえ!」

じたばたもがく男を言う通り放してやって、仁は拳を叩きこんだ。

「それがてめえのアイサツかよ人にぶつかっといて、一言もなしったあどういう育ちしてんだ!」

難癖をつけるより先に拳を叩きこむ人間に、育ちを問われたくはない。

だが、仁は大まじめに憤っていて、この男を叩きのめさなければまったくもって腹の虫が治まりそうになかった。

だれかを叩きのめしたところで、腹の虫が治まったことなどないのだが。

そんな真理は永遠に忘却の彼方で、仁は地べたに転がった男に蹴りを入れた。立ち直る隙も与えられない男は、呻きながら地面を転がる。

さらに拳を叩きこもうとした仁の前に、のんびりと割りこんで来た莫迦がいた。

「はいはいそこまであるー。うちとこの患者これ以上傷つけられたら、弁償あるよー」

神経を逆なでするような、人を莫迦にしているとしか思えない喋り方だった。

「うるせえ、どきやがれてめえ!」

相手もよく確認せず、仁は拳を振った。

ぱん、といい音がして、そいつはプロボクサーより重い仁の拳を片手で受け止めた。そして小揺るぎもせずに、嘆息する。

「やれやれある。血の気の多い男あるなー。おまえうちで献血していくとよろしよ」

「なんだと…?!」

仁の記憶はそこで途切れた。

目にも止まらぬ速さで、今まで食らったこともないほど重い衝撃を鳩尾に叩きこまれたのだ。

暗闇に落ちていく視界の端でようやく確認した相手は、仁より二回りは小柄で細身な、華奢としか言いようのない、妖艶なほどに美しい青年だった。