「…やっぱ、イカれてんじゃねえか…」

ダーが勤めているという診療所の待合室に座って、仁は小さくつぶやく。

VARCORACI

1部-第5

ダーの勤め先の診療所は、仁が昨日潰されたスラムの中にあった。

仁にぶつかってきた男が飛び出てきたビルの地下がそうで、そしてどうにも怪しいことには、看板の類が一切出ていなかった。

その時点で疑わしかったのだが。

裏口から入ると、仁はまず、「診療室」というプレートの掛かった部屋に通された。

だが、全体の雰囲気の怪しさをきちんと踏襲して、その部屋もまた、町医者の診療室、という言葉から想像するような造りではなかった。

十畳ほどの広さの部屋には、三人掛けの大きなソファがあり、その奥に重厚なつくりの物々しい書き物机が鎮座ましましている。

窓のない壁を埋めるのは古びた本の並ぶ本棚で、表紙には外国語と日本語がまぜこぜで並んでいた。

どちらかというと、書斎を兼ねた応接間といった感じだ。

「おや、ダーや。今日はまた一段とつやつやしているね。生血を飲ませてもらえたかい」

書き物机の奥の椅子に収まっていた老人は、仁を連れて入って来たダーを一目見るなりそう言った。

それも、ごく好々爺然とした人の好さそうな穏やかな口調で、というかあれだ、むしろ、かわいい孫でも相手にするかのように。

しかしながら、言っている内容がちっとも微笑ましくない。

なぜに、一言目に生血。

「残念ある、いんちょー。血は飲ませてもらえなかったあるよ」

にこにこと告げたダーに、老人は大げさに目を見張った。

「おやおや、そりゃあ、けちなことだ。ひとっ口も飲ませてもらえてないのかい」

「ひとっ口もある」

幼稚園に上がった孫をあやすかのような老人の口調に、ダーもごく平然と応じる。

仁はちょっと眩暈を覚えた。

音声を消せば、実に微笑ましい図に見えるかもしれない。

しかし、音声を入れた瞬間に世界が反転し、反逆のダンスを踊り始める。

「頑固なやつで、ちっとも吾になびかないあるよ。あの手この手を尽くしたあるが、ぜんっぜんある」

むしろ楽しそうに告げたダーに、老人は老人らしく、うんうんと意味不明に何度も頷いた。

「そりゃあ大変だ。ダーになびかないなんて、この男はおかしいね」

「おかしいのはてめえらだ!」

耐えかねて叫んだ仁を、老人はわざとらしく驚いたように見て、ダーはくすくす笑って顔を背けた。

ダーには構わず、仁は書き物机の奥の老人を睨みつける。

「血なんぞ飲まれて堪るか俺は化けもんの仲間入りをする気はねえんだよつうか、てめえもてめえだ化けもんと知ってこいつを雇ってるなんざ、どういう神経してやがる!」

「おやおや」

泣く子も失神する仁の怒声に、老人は至って穏やかに嘆息し、皺に隠れた目をこれでもかと見張ってそっくり返った。

ダーに対するのと扱いが同じだ。まるきり幼稚園児を相手にしているかのような、わざとらしいだけの大げさな身振り。

「それだけ血の気が多いんだから、ダーにちょっとくらい分けてあげてくれたって罰は当たらんよ。むしろ余計な血が抜けた分、まっとうな人間になれるかもしれない」

穏やかな物言いだが、言っていることがとても失礼だ。

仁は口を裂いて書き物机越しに老人へと手を伸ばした。

老人にだとて容赦はしない。間違った方向で老若男女差別しない男なのである。

「こら、いんちょーは普通の人間ある。おまえが殴ったら死んでしまうあるよ」

「ぐえ」

脇から軽く口を挟んだダーが、仁の襟首を引く。ボタンが飛びそうなほどに首が絞まって、仁はえづいた。

「この化けもんが」

「化けもんだっていいじゃないかね」

罵ろうとした仁に、老人は平然と言った。

「勤勉で、まじめで、そして有能だ。怠け者で、ふまじめで、無能なのに、人間を雇うほうがいいっていうのかね私はそうは思わんよ。化けもんだってなんだって、大事なのは素養だよ」

一聴、正論に聞こえる。

あまりに泰然とした老人の態度に、めずらしくも仁は、おとなしく意見を拝聴しそうになった。

ごもっともです、と頷きかけて、首を傾げる。

頭の働きが鈍いのも、たまには役に立つことがあるようだ。

「ここは病院だろうが人の血を飲ませろ飲ませろせがむやつを置いといていいのかよ?」

ごくまっとうな問いかけだった。ここは警察だろう、犯罪者を雇っていていいのかよ、的な。

老人は動じもせずに、落ち着いて頷いた。

「有能だと言っただろうそれこそ、そういうダーだからここには必要なんだ」

そういう、が、どういう、で、どうして必要なのか。

問う暇は与えられなかった。

仁が本能的な危険を察知して総毛立っている間に、「さあ、吾たちは開店準備で忙しいあるよ!」とダーに追いやられたからだ。

そして、呆然としたまま待合室に置かれること、一時間。

仕事もないから暇とはいえ、なんで自分はこんなところにおとなしくいるんだ、と仁は仁なりに疑問に思ったが、彼もまた常識的に人間らしさというものを持っていた。

怖いもの見たいのだ。

地下ということを差し引いても薄暗くつくられた、患者の安心感二の次なぼろい待合室には、入口入って向かいに窓口があり、そこが受付らしい。

そして、そこにはどこからどう見ても根暗そうな青年がひとり、険しい顔で座っていた。

受付カウンターの中にいるからには従業員なのだろうが、診療所を流行らせる気がないとしか思えないほどにやせ細って顔色が悪く、それ以上に表情と雰囲気が悪い。

すだれのように伸ばした前髪の奥から覗く瞳は落ちくぼんでぎらぎらしており、いかにも粘着質そうで、仁の嫌いなタイプそのものだ。

なにが嫌いといって、彼らのような人種は正面から向かってこない。

裏から裏から、地味に地道に嫌がらせすることに命を賭けるのだ。さらに狡猾なことには、自分がやったという証拠を絶対に残さない。

もちろん、証拠などなくても、気に入らないからと絞めることは可能だが、とにかく後味の悪い思いしかした覚えがない。

置いてある雑誌をぱらぱらめくりながら見るともなしに見て様子を窺っていた仁だが、ふいに扉が開く重い音がして背筋が伸びた。

「おい、やってるか」

声からしてまっとうさとは相容れないという不憫な挨拶とともに、男が二人入って来た。

仁の荒んだ勘が言う。

声を掛けたほうの男は紛れもなく「まるかいてやー」の字で、それに連れられるように入って来た男のほうは、「カモ」だ。

そのあまり関わり合いになりたくない雰囲気芬々の二人に対し、受付の青年は陰険な眼差しを投げた。

「月曜から金曜までの平日は午前十時から開業していると何年ここに住んで覚えてないとか正直頭悪すぎて脳みそ抉り出しても問題ないんじゃないかと疑うけどいらっしゃいませ御用はなんですか」

それは病院の受付の台詞ではない。

一息の元に罵った青年に、客のやーの字のほうは軽く眉間を揉んだ。

「今日も絶好調に腹立つな、借金まみれのクズが。せめて一割でも返し終わってから偉そうな口聞けや、このだぼ。院長いるんだろ。出せや。診てもらいてえやつがいるんだ」

ドスを利かせるでもなく、ごく淡々と罵り返しつつ、用件を告げる。

物馴れた態度は、これが初めての利用ではなく、しかも青年の態度がごく日常的なものだと察せられた。

腹が立つより呆れて、仁はじろじろと彼らを見た。

カモのほうはどの方角から見ようともまっとうではない仁を一目見て震え上がって、まだ人面をしているやーの字の影に隠れた。

しかし、さすがにやーの字のほうはそうそう怯えた態度は取らない。

「なに見とる」

胸を張って、仁を威嚇する。

脳足りんの仁はここがどこだとかどういう状況であるかも忘れて、素直に喧嘩を買いかけた。

雑誌を脇に置き、立ち上がる。

「やめてください脳みそ筋肉ばかのつるぺたカス共がここは病院です。ダーを呼びますよ」

「…」

罵倒は本気で腹が立ったが、仁のほうもやーの字のほうも、「ダー」の一言に揃って顔をしかめた。

「…いんのかい」

やーの字がいやそうに青年を睨む。眉ひとつ動かさず、青年は軽快にパソコンを操った。

「当院唯一の看護師なんだから病院が開いている限りはいるのがあたりまえだってのにわざわざ訊くところが地獄まで行って閻魔のクソ摩羅しゃぶって来いってほどにうざいけどいますよもちろん。呼びますか」

「呼ぶな。でもおまえは一回ヤらせろ」

舌の動きも軽快そのものだ。

淡々とした声音に本気を滲ませたやーの字の前で、目にも止まらぬ速さで受付のカウンターの上に、鉄線入りのガラス窓が降ってきた。

轟音とともに待合室と受付とを隔てる。

そうやって自分の安全を確保して、青年は中から廊下の奥へと指差した。

『なんでもかんでも暴力振るえば即解決と思ってるところがすでに死にネタですがどうぞ、院長の許可が下りました。診療室へお進みください単細胞アオミドロの腐ったの』

「頼むからあとでケツに二、三発ぶちこませろ。おまえの泣き顔見ねえと俺の頭は治まっても息子が治まんねえわ」

本気なのか脅しなのかよくわからない懇願口調で言って、やーの字は逃げ腰になって、というより半ば逃げかけていたカモの首根っこを掴んだ。

「ここまで来てびびってんじゃねえよ。大丈夫、院長はまともだよ。見た目はな」

少しも安心にならないことを言って、やーの字はカモを引きずって廊下の奥へ入っていく。

仁も腹には据えかねていたが、青年の相手をするより、この診療所の実際業務のほうが気になった。

少し考えて、やーの字の後を追うと決める。

『男の診察現場を覗き見しようとかどこまでも性根が腐ってることこのうえない畜生以下の外道』

「待て、やっぱりてめえを先にどうにかする」

くるりと踵を返して受付の前に仁王立ちした仁の形相は、二目と見られない人間の暗黒面を晒していた。

その仁をちらりと見て、しかし眉ひとつ動かさず、青年はやせ細った手を廊下の奥へと流す。

『覗きをしたいなら診療室の手前の資料室からどうぞ。換気窓があるから、そこを開ければ声は十分聞こえる』

親切なご案内だったが、仁は両手を防護ガラスに叩きつけた。

「その前にてめえを片づけさせろ」

普通ならびびって声も出ないはずだが、青年は退屈そうにため息をこぼした。

『俺の借金を残らず肩代わりしてくれるってんなら乗らないでもない』

「いくらだ」

『一兆飛んで三千万』

「…」

ゼロの数が計算できずに、仁は一瞬考えこんだ。

現実的に言って、その額の借金は無理ではないだろうか。

どこの闇金業者だって、そこまでになるずっと手前で、この青年の命で金を購おうとするはずだ。

「吹いてんのかてめえ」

低く脅した仁に、青年はにたりと笑った。怒りに霞む仁の頭すら醒めるような、気持ちの悪い笑顔だった。

こんな笑顔を浮かべる人間に、たとえ冗談でもケツを貸せと言えるあのやーの字は、いやなふうにこの環境に順応している。

『一千万は返した』

「一割返してから威張れよ!」

思わずツッコむ。

得体の知れなさにこれ以上関わり合いになるのが躊躇われて、仁は受付から離れた。

『資料室だぞ、腐れ脳筋の文盲』

追ってきた声に、仁はやはり後で殴ることを決意した。後で、あの防護ガラスから出てきたところをとっ捕まえて、タダで。

それくらいの知恵は、仁でも回るのだ。

だが、それが可能ならば今頃青年が生きてこの世にいて、ああも元気に罵倒をくり出しているわけがないということに思い至らないのも、また仁の知恵の浅さだった。