VARCORACI

1部-第6

「資料室」のプレートの掛かった部屋に入る。

丈高い棚の間を抜けて診療室との境の壁際へと回ると、そこには小さな椅子と机、そして古びたレコーダ機器が置かれていた。

マイクの伸びる方角に、換気窓というには場所がおかしい、壁の中ほどの高さに小窓がある。

「…」

仁がいくら頭の回転が鈍くても、これはわかった。

資料室とは名ばかりの、ここは、盗聴室だ。

普通に考えて、まっとうな診療所にはこんなものは必要ない。

顔をしかめながら、仁はそっと小窓を開いた。

さっき入ったときには存在に気がつかなかったが、小窓からは診療室の中がよく見渡せた。

「血なんか、金になりやしないよ」

開けたとたん、書き物机の奥に座った老人、院長が穏やかに言う。おっとりとやわらかなおじいちゃん声なのだが、言っている内容がどこまでも物騒だ。

「俺だってそう言ったよ」

向かいのソファにそっくり返って座ったやーの字がぶっきらぼうに答える。

「腎臓やら肝臓やらのほうがずっと金になるって。けど、いやだってぬかすんだよ」

「腎臓や肝臓がいやなら、胃袋や小腸でもいいよ。胃袋小さくするといいよ。あんまりごはん食べられなくなるから、食費が浮くし。借金あるなら、食費が浮くのはいいだろう」

院長の声はどこまでも穏やかでやさしい。思わず、その通りでございます、と頷いてしまいそうないやな説得力がある。

しかし仁の鈍い頭でも、院長の話がおかしいことはわかった。

それはまあ、食事ができなければ食費は浮くだろう。しかし、食事ができなければ体力が落ちる。体力が落ちれば、借金を返すために働くこともできない。

「俺の血なら高値がつく」

やーの字の隣に座ったカモの男が、震える声を張り上げる。院長の詭弁に惑わされなかったらしい。

「ABのRhマイナスだ。意味がわかるよな」

「こうなんだよ。どうなんだ、院長先生」

「めずらしいのは確かだよ、ほんとうならね。でも、ねえ…。まあいいや、とりあえず調べてみてから話を続けよう」

言って、院長は机の上から小さな銀の鈴を取り上げると、ちりん、と鳴らした。

「ダーや、ちょいと来とくれ」

「あいあいあるよー」

声だけ聞くと苛立ち倍増のしゃべり方で、本棚に隠れて見えなかった奥の扉からダーが入って来る。

人間離れした美貌に、緊張しきっていたカモの男は別の意味で震え上がった。

土偶か埴輪かというマヌケ面になって、ひたすら穴が開くほどダーを見つめる。

どこかに瑕疵がないかと探しても、ダーの美貌に翳るところはない。ひたすらに完璧を超越して、有り得ざる美だ。

そのダーは、今はどこにでもある平凡な看護師の制服を着ていた。ぱりっと糊が効いているのが遠目にもわかる、清潔な衣装だ。

まあ、清潔だろうがなんだろうが、似合わなくて泣けることこのうえないが。

この美貌で、看護師の制服。

いくらマニアックなコスチュームプレイヤでも、ダーの美貌にあまりに冒涜に過ぎるとして避けるはずだ。どうせなら、王侯貴族の重厚な衣装を着せたいところだろう。

「ちょいとね、血液型を調べてほしいんだよ」

「血液型あるか」

さすがに雇用主だけあって動じることもなく、院長はにこにことダーに頼む。相変わらず、孫かわいいばかじーさんのような声音だ。

ダーは軽く首を傾げると、腰に手をやった。ひらりと翻した手には、メスが握られている。

「手を出すあるよ」

「え」

言いながら、ダーはカモの手を自分から取る。慣れた手つきでメスが翻り、男の指先を切り裂いた。

「っい?!」

びくり、と逃げかけたカモを軽く捕まえたまま、ダーは血の滲む指先をくちびるに運ぶ。

ぬめる舌が覗き、ダーと対比するとあまりに醜い指を口の中に含んだ。

ちゅく、と卑猥な水音が響く。

「ん」

すぐさま口を離したダーは、朱いくちびるを舐めながら院長を振り返った。

「ABのRhマイナスあるね。珍味ある」

「なるほど」

院長が平然と頷く。

なにがなるほどだ!

一瞬、仁は場合を忘れてツッコミそうになった。

この場合、病院と銘打つなら出てくるのは注射器で、メスではない。しかも、採血したあとには検査が待っているはずだ。

メスで切りつけて、出てきた血を舐めて判定している時点で、病院ではないし、看護師としての仕事もしていない。

「確かに言う通りみたいだけど…。だからといって、血を売られてもねえ」

「なあ、そもそも、さっきから言ってる、えーびーのあーるえっちまいなすってなんなんだ」

やーの字が訊く。

院長が口を開くより先に、傍らに立ったままのダーが腰をかがめて、哀れな生徒を見る教師の顔でやーの字を覗きこんだ。

「ニオカ、おまえがいくら莫迦でも血には種類があることくらいわかっているあるな?
ABというのは、A型B型O型AB型と四つある、血液型の基本中の基本のひとつ、AB型のことある。日本人の割合的に見ると、AB型の人間というのはごく少数派に位置するあるよ。
で、Rhというのは、基本の四つの血液型をさらに細分化した分類法のひとつで、プラスとマイナスの二種類あるある。これもまた、日本人にはプラスが多いある。
これらを複合して考えると、AB型でRhマイナスという人間はごく少ない、つまり、この血は稀少性が高いということがわかるあるね」

諄々と諭すように言われて、ニオカという名らしいやーの字はうんざりしたようにそっぽを向いた。

「なんでこの病院の人間ってのは…」

「吾は人間じゃないある」

「…なんでこの病院の従業員ってのは」

「それが正しいある」

ごくまじめに言われて、ニオカは肩を落とした。

面相と態度こそまっとうではないが、心根はやさしいの典型例らしい。仁だったらすでに三回は拳が出ているところだ。

「…で、結局、金になんのかよ、それは」

もしかしたら人が好いのではなく、いやな感じにここに馴れているだけかもしれないニオカは、早々に現実に話を戻した。

「なるかって言われてもねえ…」

「ならないあるね」

日本人らしく言葉を濁した院長に対し、ダーはきっぱり言った。

「今も言ったとおり、ABのRhマイナスの人間はごく稀少あるよ。どこでもそこでも顧客がいるわけじゃないある。そしてその顧客が今すぐに大けがして輸液が必要で、しかも闇市場で買った怪しい血を必要とするような病院に入院する保証がない以上、それは無駄な買い物ある」

「そうなんだよねえ」

きっぱり言い切ったダーの言葉を引き継ぎ、こちらはごく穏やかに言い諭すように院長が口を挟む。

「内臓もそうだけど、血液にも保存期間っていうのがあってね。新鮮なものを新鮮なうちに使うんでなけりゃ、意味がないんだよ。それって、宝の持ち腐れで、倉庫代がかかるだけ無駄なんだね。しかも、保存期間を過ぎたら、廃棄するしかない。宝の持ち腐れ以上に、性質が悪いよ」

ニオカが、目を眇めてダーを見た。

「お仲間に売れねえのかよ」

ニオカがダーのことを知っているのは明らかで、そうなると言っている意味も明らかだった。

同じ吸血鬼の仲間に、食事として売れないか、と誘っているのだ。

しかし、ダーはあっさり肩を竦めた。

「確かに珍味あるし、そういう珍味を好む輩もいるある。でも、人間が死なない程度に採った量の血で、それほどの高値を付けても買うほどの輩はいないある。人間そのものを買い取るならともかく…」

そこまで言って、ダーは口を噤んだ。ちょっと首を傾げ、院長を見る。

「そうある。コレ、肉袋のまま売ったらどうある?」

「ふうん?」

にくぶくろ、とカモを指差したダーの言葉は、まっとうな看護師が患者に向ける言葉ではあり得ない。

きょとん、とする客二人に対し、院長のほうは相変わらずの笑顔のまま、考えるように顎を撫でた。

「買う人間なんているかな?」

「いるあるよ。タイローンのとこのジェスが、ABのRhマイナスだったある。あれは警護が堅いあるから滅多なことではケガなんかしないあるが、用心深い男ある。いざというときの用心のために飼っておけと言えば、ほいほい買うあるよ」

「なるほど。ジェスならそうだろうねえ」

今までも十分にキナ臭かったが、本格的に潜りだした会話に、ソファに座ったカモの体がこれ以上なく強張った。

ニオカのほうも、眉をひそめて鼻を掻く。

「タイローンて、香港のか」

「そう。あすこの跡取り息子だよ」

あっさり言って、院長は机の上に重ねてあるファイルから何枚か書類を取り出した。

「その息子に、どうしろってんだ」

「ほんとに鈍いあるね、ニオカ。それだからいつまで経っても三下あるよ」

呆れたように言って、ダーは人差し指を振った。

「採りだした血液の保存期間中に顧客がつく可能性はほぼ皆無ある。けど、採りださずに生きた人間の中に保存しとけば、その血液はそいつが死ぬまでいくらでも新鮮に保っておけるある。その人間の権利を買っておけば、いざ使いたくなったときには二百だの四百だのけちけちしたことを言わずに使いたい放題。ついでに傍に飼っておけば、どこにいるか探したり移動させたりする手間もない。いざとなって逃げられる心配もなし」

懇切丁寧なダーの説明に、取り出した書類を確認していた院長も、顔を上げないまま頷く。

「ジェスは慎重で賢明な男だからね。必要な手駒だと判断したら、肌身離さず持ち歩くよ」

「あー」

ニオカは呆れたように吐息をもらし、ソファに背を預けた。そして、果てしなくいやな予感に、震えることもできずに強張るカモの張りつめた背中を見る。

「しかも、俺らはタイローンに貸しができる、と」

「あれでいて義理堅い輩ある。命の恩をそうそう粗末にはしないあるよ」

軽く保証されて、ニオカはカモの背をばん、と叩いた。

「よかったな。身請け先が決まったぞ。香港はいいとこだぜ。飯もうまいしねぇちゃんもきれいだ」

「人身売買じゃないか!!」

ソファから立ち上がり、カモの男は悲鳴を上げた。

「なんだ、聡いヤツだな。よく今の話で人身売買だなんてわかったな」

わからいでか。

のんびりとつぶやくニオカに、動転して恐怖を忘れたカモが組みつく。

「いやだ、俺は、そんな!」

言葉にならない。

ニオカはうるさそうに顔をしかめ、カモの手を振り払った。

「恨むんなら、借金なんかした自分を恨めよ」

「そんな!」

「いくら借りたある?」

こちらものん気にダーが口を挟む。

「三百万だよたかが三百万で!」

「ああ、よかったね」

絶叫する男に、書類にペンを走らせながら、院長が微笑んだ。

「三百万なら、借金を返してお釣りが来るよ。しばらくは遊ぶ金に困らないね。しかも、就職先まで決まったから、これからの仕事にも困らないし。万々歳だ」

「~~~っっっ」

もはや絶叫が言葉にならなくなったカモに構わず、院長は書類に判子を押すと、ダーを見た。

「ついでだから、いろいろ検査しといてくれるかい。臓器の状態やらなにやらわかってたほうが、値がつけやすい」

まるきり、商売人の言葉だ。

躊躇いもなく人間を商品にして、だが、院長はあくまでもものやわらかに微笑んでいる。

「了解ある」

こちらも平然と応じ、ダーは呆然と立ち尽くすカモに手を伸ばした。男は咄嗟に逃げを打つ。

それを軽々と捕まえると、ダーは華奢な体つきからは想像もできない力を発揮して暴れる男を抱え上げ、診療室から出て行った。

それを見送り、ニオカが小さく息をついてソファに沈みこむ。

「ったく、この病院の人間ときたら」

「人間じゃないのもいるがね」

「この病院の従業員ときたら」

素直に言い換えて、ニオカは渋面で身を乗り出す。

「あんたもちったあ、従業員の教育ってもんに力を入れろよ。なんだよ、クズのあの態度。今日も今日とて、絶好調じゃねえか。思わずその場で引きずり倒しそうになったぜ。あれじゃあ、流行る病院も流行んねえじゃねえか」

「クズはあれでいいんだよ」

言いながら、院長は二枚目の書類に取りかかる。

「私はもう年だからね。病院が流行ることなんて望んでないよ。日々細々と食っていけるだけの金が入れば、それでね」

「そういうなら診療費まけろよ」

即座に言い返したニオカに、院長は聞き分けのない孫でも相手にしているかのような、穏やかな困り顔で首を振った。

「うちの診療所はお国から開業許可を取ってないからね。保険が利かないんだよ。保険が利かないと、患者は医療費を十割、つまり全額負担しなけりゃいけない。そうなるとどうしても、普通のお医者より高くなってしまうねえ」

一聴、まともな理屈を言っているように聞こえる。

しかしよく考えるとツッコミどころが満載で、どこからツッコんだらいいのかに迷う。

ニオカは眉間を揉んで、ため息をついた。

「よく言うわ…。ほんと、この病院のに…従業員は、口が減らねえ。そんなだから、莫迦どものカチコミなんかの対象になるんじゃねえか。そのうち、ダーだけじゃ手に負えなくなるぜ」

「それなんだけどね」

二枚目の書類に判子を押し、院長が顔を上げる。

彼は確かに、仁を見た。小窓から覗く、仁を。

「人員の手当てが付きそうなんだよ。ダーが見つけてきてくれたんだけどね」

孫自慢をするおじーちゃんの口調で言って笑う院長から書類を受け取り、そこにサインを書き入れながら、ニオカは肩を竦めた。

「だれかは知らねえが、俺はそいつに同情するぜ」

一方、壁の向こう側の仁は、得体の知れない寒気に襲われていた。