「で、この三下決定のちんぴらヤクザの成り損ないはいつまでここにいるわけ」
「よし殴る」
「あまりいちゃつくなある。いくら吾でも妬くあるよ」
どこまでもツッコミどころ満載に、ダーは受付へと拳を飛ばした仁を止める。
VARCORACI
第1部-第7話
結局、午前中に来た患者、もとい客はあの一組だけで、しかも帰って行ったのはや印の男、ニオカだけだった。
カモの男がどういう道筋を辿ったのかはわからない。少なくとも、表玄関からは帰らなかった。
さすがにヤバ過ぎる物件だと出て行こうとした仁は、仕出し弁当を餌にほいほいと呼び止められた。
考えてみれば、朝飯を食べていない。昼ともなれば眩暈がするほどに空腹だった。
そうやって待合室で出された弁当を、三つ、遠慮なく掻きこみ。
おそらく「検査」が終わって暇になったダーが顔を出したところに、青年の罵倒もどきだ。
重い拳を片手で軽く押さえたままダーは、陰鬱な顔で受付の中に座る青年を、嗜めるように見た。
「クズもクズある。そうやってだれにでも彼にでも喧嘩を売るから、吾に余計な仕事が増えるあるよ。いいあるか、吾はあくまで看護師あるよ」
「ならば看護師らしい仕事の仕方をしろ」
思わずツッコみながら、仁は受付の中をちらりと見た。
とんでもない額の借金を抱えているからには仕方がないような気もするが、会うもの会うものすべてに「クズ」呼ばわりされる青年が、ちょっといい気味だ。
仁の視線の意味を正確に読み取り、青年はメモを千切ると、そこに漢字を二つ書いた。
「俺の名前」
「…ちっ」
痛烈な舌打ちが漏れる。
メモには堂々たる字で、「九頭」と書かれていた。
「それで、そのちんぴらもどきのミジンコ擬態筋肉ダルマはいつまでここにいるわけ」
どこまでも反省する気はないらしいクズの言葉に、再び仁は拳を飛ばし、ダーが受け止める。
「永久就職したらどうかと思っているある」
「ああ、墓穴要らずの」
「永眠ではないある」
クズの不穏な発言を遮り、ダーは拳を引かない仁の腕を捻って背中に回した。
「いぃいいいいっっっ!!」
「実際のところ、恋は突然ある。昨日まで吾は、だれかと身を固めるなんてことは想像もしていなかったあるが…」
「ああ、とうとう脳が」
「腐り落ちたかという話なら、そもそも吾には生きた細胞がないある。ついでに脳みそも存在してないあるよ」
クズの発言は最後まで聞かずにさらなるボケを上塗りし、ダーはうっとりした顔で、痛みに震える仁の背に寄り添った。
「ここまで理想を体現した男と出会った以上、吾はなんとしても手放さないあるよ。永久に吾のもとで飼い殺すある」
仄暗い悦びに輝く美貌は地下の暗さと相まって、恐怖すら覚えるような色香を醸し出した。
しかしクズはまったく動じることはなく、腕を押さえられたまま、身もがくに身もがけない仁と、うっとり蕩ける笑顔のサイコストーカを見比べた。
「精を吸い取られ過ぎて衰弱死か、血を吸われ過ぎて枯死か…」
「それがそうでもないある」
どちらもどちらで嬉しくない未来を予想してくれたクズに、ダーが真顔で身を乗り出す。捻られた腕に力が込められ、関節が盛大に軋んだ。
「ぃぎいぃいいいいっ!!!」
「今この状態あるが、昨日の夜、吾はきちんと精を貰ったある」
「…加減したの?」
今までほとんど陰険なまま変わることのなかったクズの顔が、ようやく恐怖めいた色を浮かべた。
わずかに身を引きすらした彼に、ダーは真顔のまま首を横に振った。
「それはもう、絞り尽くしたあるよ。久々に飽食だったある」
「……うそ」
「吾のお肌の状態を見るある。ぴっちぴちのつっやつやあるよ」
この美貌が翳ることがそもそもあるのかが疑問だったが、ダーにはダーなりに状態の変化があるらしい。院長も第一声にそれらしいことを言っていた。
さらに身を乗り出すと、ダーはうんうんと頷いた。
「持続力も精力も半端ないある。おまえも一度やってみるといいあるよ。ニオカなんて目じゃないあるね」
「……っいやっ、ヘンタイ………っっ!!」
小さい悲鳴を上げると、クズは受付の奥の扉の中に走りこんで行ってしまった。
あまりにも恐怖に歪んだ顔は、余程のトラウマが想像できたが問題はそこではなく。
「てめえは力加減てもんを覚えろ!!」
ようやく放された手はびりびりと電流が流されているかのように痺れていた。
さすがに殴りかかることはできずに吼えただけの仁に、ダーはかわいらしく首を傾げる。
「もちろん、加減しているある。そうでなければ、もげているあるよ」
折れている、のではないらしい。
改めてぞっとしつつ、仁は慎重にダーとの間に距離を取った。
受付の奥がどうなっているのかはわからないが、ことりとも音がしない。
「ニオカってな、さっきのやの字だろ」
「そうある。あの男も精力旺盛ある。血の気があり余っているあるね」
「…喰い済みか」
自分のことを棚上げにしてひとを見る目を変えようとした仁に、ダーは首を横に振った。
「さすがにひとのものに手は出さないあるよ。あれでもクズは同僚あるし…」
「待て」
聞き捨てたいがとても聞き捨てならない発言が上塗りされて、仁は眉間に皺を刻んだ。
ひとを見る目を変えるどころの話ではない。
ひっくり返しそうだ。
「あの野郎とニオカってやつはデキてんのか」
「そうある」
あっさり答えたダーの言葉に、受付の奥から怒声が轟いた。
「できてないーーーーーっっっっ!!!」
あの陰険にして陰鬱な青年にも、怒声を轟かせられる声帯があったのか。
妙なところに感心した仁だ。
ダーが肩を竦める。
「いっしょに住んでて、飯を食わせてもらって、精根尽き果てるまでヤる。それでデキてないあるか」
「…すげえ趣味だな」
あれといっしょに住んで、飯を食わせてやって、精根尽き果てるまでヤる。
別の意味で人生観が変わりそうな話だ。
馴れや情で片付く問題ではない。
奥から顔を真っ赤にしたクズが走り出てくると、カウンターをばん、と叩いた。
「あれは飼い主!!」
「…まだデキてるってほうが外聞よくねえか……」
ここまで堂々と、飼い主がいると主張する人間もどうなのだ。
小さくツッコんだ仁を睨み、クズはまた奥へと駆けこんで行ってしまった。
見送って、ダーが頷く。
「照れ屋あるよ」
「…てめえはいちいちツッコミどころが多過ぎてもう、ツッコまなくていいような気がしてきた」
「そんなことないある。おまえは吾に、ツッコみたいだけツッコんでいいある」
「だから、そういうとこが」
艶やかな笑いを閃かせたダーに、疲れ果ててつぶやき、仁は軽く首を回した。
「じゃあ、俺は」
「逃がさないと言ったある」
皆まで言わせず、ダーは仁の首根っこを掴んだ。
受付の中に掛かっている時計を見る。午後の診療開始まで十五分ほどだ。
「暇な今のうちに済ませるあるよ」
「待て、なにをだ!」
果てしなくいやな予感しかしない。
抵抗虚しく引きずられ、仁は「診療室」に連れ込まれた。
「おや、ダーや」
「いんちょー、書類出来たあるか」
書き物机の付属品のように朝から同じ姿勢の院長に、ダーはにこやかに訊く。
院長は孫かわいいじーさんの顔で穏やかに頷いた。ひらひらと一枚の紙を振る。
「ちょうど出来たよ。これでいいんだろう?」
「ん」
暴れる仁をソファに転がして馬乗りになり、ダーは書類を受け取って眺めた。
それから、もがく仁の眼前に書類を突きつける。
「のわっ?!」
「というわけある。よかったあるね」
「見えねえよ!」
実際、あまりに間近に突きつけられたせいで、書類は一文字も解読できなかった。
暴れないと約したうえで、ダーが体の上から降りる。
起き上がるとその手から書類をひったくり、こまごまと綴られた文字を見た。
「……」
仁は頭の働きが鈍いが、文盲ではない。字は読める。
暇なときには週刊誌を読み耽っていたりもするから、文章が読めないと言う気もない。
しかし、あまりにこまごました字で、そのうえ週刊誌では決してお目に掛からないような文体は、ひらがなと漢字だという判別はできても、まったく解読できなかった。
とはいえ、幸いなことに仁にも判読可能なものがあった。
いちばん上、表題だ。
「雇用契約書…こようけいやくしょ?!」
「うちは厚待遇あるよ。おまえのような飽きっぽくて血の気が多いトラブルメーカのダメ人間でも、なんとかなるある」
「知ったふうな口きくな!」
とりあえず拳を飛ばしたが、ダーの言う通りではあった。
仁が仕事もなくふらふらしているのは、その外貌だけが原因ではない。
飽きっぽくてすぐにいやになって放り出すうえ、すぐにカッカして職場の人間と揉めるせいだ。
そしてそれを反省もしない。
改善されることがないその習性のせいで、仁は常に職にあぶれていた。
「あのな、俺に看護師が」
「笑わせるなある!」
皆まで言わせずに、ダーは身を折って爆笑した。書き物机の奥で、院長も穏やかながら遠慮なく笑っている。
確かに爆笑ものの発言ではあるが、だいたいにして診療所がそれ以外のなにで人を雇用するというのか。
顔を真っ赤にして拳を振り回した仁を、ダーが難なく抑えこんでソファに転がした。
「君には、警備員として就職してほしいんだよ」
抑えこまれてもなお、もがく仁に、笑いを収めた院長がやさしく言う。
「うちはどうも、客層が荒っぽくてね。しょっちゅう、荒事が起きるから、君みたいに荒事に馴れたひとにいてほしいんだよ」
それは客層だけの問題だろうか。
どう考えても内部的な問題が助長していると思うのだが。
そこに仁が加わったりしたら、自分で言うのもなんだが、それこそ取り返しがつかないような従業員層ということにならないだろうか。
ますます、怪しさ倍増の――
まじめに考えたが、そこのところは大丈夫な気がした。
さっき見た光景もある。
今さら仁ひとりが加わったところで、大した変化もないほどにここの実態は壊れている。
ただのもぐりの医者が、あっさり人身売買まで手を染めているとか、さすがにそこまで行っているのは珍しい。
とはいえそれはそれ、これはこれ。
「断る!」
「月収100万じゃ足らないかね」
「…」
「荒事が起きたときには別途危険手当も付けるから、それっくらいでいいかと思ったんだけどねえ」
淡々と言われる金額が、この規模の診療所の、それも警備員の給料ではない。
瞬間息を呑んだ仁は、しかし、眉間にぎりりと皺を刻んだ。
「だが断る」
「おや」
意外そうに細い目を見張る院長を睨み、体の上で楽しそうに見下ろしてくるダーへと視線を投げる。
「化けもんなんかといっしょに働けるか」
「おやおや」
ごく心外なことを聞いた風情で、院長は穏やかに首を傾げた。
「そんなに怖がらなくても…。これでいて、おとなしくて聞き分けのいい子だよ。やさしくてよく気がつくし」
「やさしいやつがメスを振り回すか」
頭痛を覚えながらツッコむ。
院長にとっては、ダーはあくまでもかわいい孫のような存在らしい。
血を寄越せ吸わせろ呑ませろと喚きたてるようなものを相手に、そこまで鷹揚なのはもう頭の回路がイカれている。
化けもんといっしょに働くのもいやだが、そんな頭の回路がイカれた人間ばかりの場所で働くのもいやだ。
「そうそう、メスといえば…」
院長がなにかに気づいた顔でダーを見、ダーも莞爾と微笑んで頷いた。
「常に携帯してるある。看護師の必需品あるね」
「んなわけあるか!」
メスを振るうのは医者の仕事であって、看護師の仕事ではない。看護師の必需品は、いいとこ行って、せめても注射器くらいだ。
そんなツッコミに構わず、ダーは腰からメスを取り出すと、鮮やかな手つきで閃かせた。
「いっ」
左手の薬指が切り裂かれる。浅いが、痛いものは痛い。
引きつる仁の手を掴み、ダーは雇用契約書にその薬指を押しつけた。
「よし」
「よしなわけがあるかああああああっっっ!!!」
血判を押された形になった仁が、怒号とも悲鳴ともつかない絶叫を上げる。
構うこともなく、ダーは暴れる仁の左手を掴んだまま、ぷっくりと膨れ上がった血を軽く撫で擦った。
薬指の根本にぐるりと、朱い線が描かれる。
「……っいっ?!」
きりり、と薬指に痛みが走った。鋭い棘だらけの紐で縛り上げられたかのような、締めつけと突き刺しの両方を同時に感じる、なんともひどい痛みだ。
しかも、その痛みは薬指から腕を伝い上って、心臓まで届いた。
息を呑んで硬直した仁を、ダーはこれ以上なく満足そうに眺めた。
「契約完了ある」
地獄の悪魔ももっとスマートなはずだ。
これはあくどいというより、力づく。強引かつやりたい放題ではないか。
気が遠くなりながら、仁は信じたこともない神を呪った。