仁は疲れていた。

人生ここまで生きてきて、これほど疲れたこともなかったほどに疲れていた。

その疲れは主に心労だ。

VARCORACI

2部-第1

というか仁はこれまで好き勝手やりたい放題に生きてきたので、心労を感じたことがなかった。後悔とか反省とか、そういった言葉と並び立ったことがない男なのだ。

その仁が、生まれて初めて心労に参っていた。

原因はもちろん、自称ばなんとかの吸血鬼もどき、ダーだ。

ダーが施した薬指への魔術は、効果的に仁を縛りつけた。

ダーから逃げようとすると、薬指から痛みが這い登り、心臓を締め上げられて気を失う。

相手をすることを拒むくらいならなんともないが、逃げ出そうとすると、必ず。

それだけでも仁にとっては果てしなく苦痛だというのに、ダーは仁を自分のアパートに連れ帰る。抵抗しても力でまったく敵わないので、引きずられるがままに。

現在、同棲状態だ。

朝起きてから、昼間働いているとき、夜眠るまで。

一日中、ダーといっしょ。

美人は三日見れば飽きるとはよく言われる言葉だが、ダーの美貌は三日以上経っても色褪せることはなく、それどころかますます輝くようだった。

見てもみても飽きる要素がまったくない。

が、それとこれとは別だ。

見ても飽きなくても、その人品骨柄が、受け付けないのだ。

言うことやることすべてが、気に障るのだ。

あの美貌がふっと笑うだけで一瞬、心を持って行かれたりするが、それとこれも別だ。

間近に寄った美貌が、うっとりと自分を眺める様を見ると天まで昇るような心地になるが、それとこれも別なのだ。

とにかく、性格が合わない。

というより、もう、自分の自由を奪われたという意識が強烈過ぎて、良好な感情を抱く気になれない。

だというのに、仁がこれまで気に入らない相手にしてきたように、叩きのめすこともできない。

叩きのめすどころではない。反対に、自分が転がされて屈服させられて終わりだ。

そこまで仁の矜持や人格を無視しておきながら、ダーの態度はどこまでも馴れ馴れしく、遠慮がない。

***

「昨日、あの化けもん、なに食ったと思う」

受付のカウンタにもたれて疲労困憊の風情で言った仁を、相変わらず死相の浮かんだ、景気の悪い顔のクズが、うっとうしそうに見やった。

滅多に客が来ないので出番もなく、暇な時間を持て余した仁は、とりあえず、その鬱憤を受付で晴らすことにしていた。

話しかけるともれなく殺したい気分に襲われるが、最近周囲にいる話し相手で、ほんのわずかでも常識があるのが彼だけであることが判明したのだから、仕方ない。

「まだ諦めてなかったあんたのその往生際の悪い根性がいつか世界平和に役立つ日はまったく来ないから安心してすべてを受け容れて堕ちるところまで堕ちろ。あとついでにニンニク臭いから永遠に呼吸止めて」

「そうなんだよ……焼肉食いに行ったんだ……。あの野郎、ニンニク漬けの肉をばかすか食いやがった」

焼肉屋の肉と言えば、ニンニクを利かせたタレで味付けされているものだ。

高い店に行けば肉そのままの味で食べさせもするが、安いところはだいたい、ニンニクだれで肉の臭みを誤魔化している。

料理が出来ない二人は、仕事が終わるといつも、なにかしらの店に食べに行って、それから帰る。

昨日の夕食は焼肉だった。

高給取りの二人だったが、入ったのはごく庶民向けの、もっと言うなら金のない学生向けの、質より量と値段の安さで売る店だ。

肉にはこれでもかとニンニクだれが利いていた。

それを、二人で十人前ほど、片づけてきた。

「それだけじゃねえんだよ……あの野郎、ニンニク焼きまで食いやがって」

「ダーだけじゃなくてあんたも食っただろ。本気で臭いから」

「俺が食ってなにが悪いあいつは吸血鬼だぞ吸血鬼がニンニク食うったあ、どういう了見だ!!」

叫んでカウンタを叩いた仁を、クズは陰険な目で見上げる。

だがクズが陰険でない目つきであった試しがない。デキているとか飼い主だとか言うニオカを見るときでさえ、その瞳はどこまでも陰険で陰惨だ。

「だからまだそんなこと言ってんのかって本気で諦め悪すぎて引くのも忘れて死に晒せとか願掛けし出すんだけど」

しけった声音でぶつぶつ言うクズの言葉は右から左に流し、以前にそもそも耳に入れず、仁は握った拳を見つめた。

「太陽を浴びてもぴんしゃんしてて、昼間っから動き回る。水を怖がることもない。それでニンニクも平気ったぁ……やつに弱点はねえのか!」

握った仁の左の拳、その薬指には、真っ赤な指輪が嵌まっている。

アクセサリをし慣れない仁でも、存在を忘れるほどにしっくりと馴染んだその指輪は、ついこの間、ダーに嵌められて縛りつけられたなによりの証拠だ。

どういう原理か、仁の血が凝ったそれは、抜き取ることもできず、ねじ切ることもできず、仁を縛りつける。

見るたびに、腹立たしさと堪えようのない憤りが沸き起こる『逸品』だ。

「…ああ、そういうこと」

ぼそりとつぶやくと、クズは身を屈めてカウンタの下に沈んだ。しばらくなにかを引っ掻き回していたが、ややして身を起こすと、カウンタの上に小さな紙袋を置いた。

「…なんだこれ」

どうして診療所にこんなものがあるのかが理解不能で訊いた仁に、クズはあからさまに莫迦にしたため息をついた。

「見てわかんないとかもうその目は必要ないから抉り出してダーに捧げるともれなく悦んで踊り食うからそうすることを心から薦めるけど、ニンジンの種」

「これ以上ヤツを悦ばせる義理はねえ。そうじゃねえよ、なんだよ、ニンジンの種って。これがなんだってんだって訊いてんだよ」

クズがカウンタの上に置いたのは、まさしくオレンジ色のニンジンの写真も鮮やかな、種の袋だった。花屋や種苗屋で売っている、よくあるあの種袋だ。

封を切られていないそれがどうして診療所の受付から出てくるのかが、わからない。

それも、どの話を受けてのどういった流れなのかも、さっぱりわからない。

そうでなくても歪んでいる顔をさらに悲劇的なまでに歪めた仁を、クズは怯えることもなく、いつも通りに陰険に見返した。

「ダーの弱点だろ弱点と言えるかどうかは微妙だけど…まあ、ないよりましって少なくともなんにもないより悪いことが多いけど。特に借金なんか多いと、百円合ってもないよりましとは思わないよね」

「てめえの事情はどうでもいい。生きているうちにせめて一割くらいは返しておけよ」

ほんとうか嘘か、一兆を超える借金を持つというクズの根暗なつぶやきを流し、仁はニンジンの種袋を手に取った。

「ニンジンが嫌いなのかどんなお子ちゃまだ。って待て、あいつこの間、普通にニンジン食ってたじゃねえか」

「あんたそれ、ニンジンに見えるの?」

どこまでも莫迦にした口調で言われ、仁は歯を剥きだす。

「ああ?」

「馬だってそれをニンジンだとは認めないと思うけどね。そんなもの鼻先にぶら下げてやっても、走りやしないよ」

袋は封が切られていない。だから、中身を入れ替えることは無理だろう。

ゆえにこれには、間違いなくニンジンの種が入っている。

そこまで考えて、仁は眉をひそめた。

忘れていたが、ここは人身売買が日常化しているもぐりの診療所だ。

市販されているニンジンの種の袋に見せかけて、怪しげな薬を売っていたとしても、まったくおかしくないのだ。いや、そちらのほうがむしろ、常識的な考え方というものだ。

途端に胡乱な顔になって袋を遠ざけた仁に、クズは鼻を鳴らす。

「それ種だろ。どっからどう見ても」

「…ほんとかよ」

「開けてみればいいじゃない。別にいいよ、ストックはいっぱいあるし」

言いながらクズはカウンタに沈み、今度はティッシュ箱を取り出した。空になった箱を再利用したらしいそこに、ぎっしりと野菜の種の袋が入っている。

怪しさ激増だ。

どうして大都会の診療所の受付に、野菜の種がぎっしりストックされているのだ。

ますます胡乱な顔になりながらも、仁は一応人間だった。

好奇心がある。

そのせいで今、こうやって追い込まれているわけだが、反省も内省もしない仁に、そういったことでの学習能力は皆無だった。

しばし躊躇ったものの、結局、好奇心に勝てずに袋の口を破る。

中から出てきたのは、確かに、種と思しきものだった。

だが、断言はできない。

何故と言って、仁はこれまで野菜の種など見たことがないからだ。

薬にも頼ったことがないから、これが薬でないとも言いきれないし、野菜の種であるとも言いきれないのだ。

「で、これがなんだよ」

自分で考えることは衒いもなく放棄して訊いた仁に、クズが嘲笑う。

「種だよ『撒く』に決まってる」

「…」

どうもからかわれている気がしてきた。

そうでなければ、弱っているのをいいことに弄ばれているか、そのどっちかか、もしくは両方だ。

険しい顔になった仁に怯える様子もなく、クズはわずかに身を乗り出す。ダーのいる診察室と、仁がいる待合室とを結ぶ廊下の境界を指差すと、そこを軽く払った。

「そこ一線に撒くんだよ。あんまり大きな隙間が空かないように」

「…ああ?」

「すぐわかる」

陰険で陰惨で陰鬱なクズだが、罵倒と罵詈雑言と悪言しか言わない口でも、そうそうひとを弄ぶようなことはしない。

仁は首を傾げながらも表袋の中から引っ張り出した内袋の口を引きちぎり、吹けば飛ぶような種を境界に一線に並ぶように撒いた。

撒いて、さあこれがなんだ、と顔を向けた仁に、クズは下がるように促す。

クズは仁が待合室の中ほどまで下がるのを確認すると、主にダーを呼び出すために使用する銀鈴を振った。

「はいはいあるー」

大して待つこともなく、反射的に腹が立つようになってきた、脳天気さで台無しにする妙なる美声が廊下の向こうから響いてくる。

「何用あるか…」

今日のダーは、内臓を売りに来た客の摘出手術の立ち会いをするとかで、いつもの白い看護師服ではなく、緑色の手術着に身を包んでいる。

どちらにしても、その豪奢な美貌にはあまりに貧相な衣装過ぎて、見ていると自然と涙が溢れて来そうになるのだが。

着替えている途中だったと思しき中途半端な恰好のダーは、まったく急ぐ様子もなくのさのさと歩いて来て。

「…ちょ……なにやってるあるか、もう……!!」

「は?」

種の線の前で、まるでそこに壁がありでもするかのように立ち止まった。

出会ってからこの方、仁が決して聞いたことのなかった弱った声が上がり、ほとほと困り果てた顔で足元を見下ろす。

しゃがみ込むと、廊下を撫でて種を一粒つまんだ。

「ううう……ぐぬぅうううう……」

「……は?」

歪むことのない美貌が葛藤に歪みながら、足元の種を見つめる。呆然と見つめる仁のことも構わず、白く輝くおぞましい牙を剥きだして唸り、ひたすらに種を。

「おい…」

説明を求めてクズを見る。クズが答えるより先に、ダーが小さな雄叫びを上げた。

「ああもうなんでこういうイタズラをするあるかクズ、吾が帰るまでにきちんとこれを片づけておくあるよそのまんまにしといたら、ひどいあるからね!」

「思いつく限り生涯でそう経験したこともないくらいにひどいことになることは想像がつくね」

悲鳴じみたダーの言葉にそう応え、クズは不可解な顔を晒す仁を見上げた。

「ダーの一族はね、道に種が撒かれてると、それを全部拾うまでは先に進めなくなるんだよ」

「はぁあ?」

「しかも、拾える種は、一年に一粒」

「はぁああああ?!」

なんだろう、その滑稽を通り越した設定。どんな病気持ちでも、そんな阿呆な設定は持ってこないはずだ。劇的要素を通り越して、笑劇にもならない。

またもや莫迦にされているのかと思うが、ダーの様子が様子だ。

これで二人掛かりで仁を担いでいるのだとしたら、それはそれで職場環境にさらにストレスが溜まる。

「種は出来るだけ小さいほうが効果的だから、芥子粒なんかいいけど、まあ、ニンジンでもイケる」

「ぁあん……?」

ダーは未練たらしい顔で種を見つめている。しかし、それ以上踏み越えて来るでもなく、掃除するでもない。

手のひらにつまんだ一粒の種を切ない顔で見下ろすと、深いため息をついて踵を返した。

あまりに切ない仕種で、その美貌だけを取り出して状況を詳しく分析することを放り出せば、世界三大悲劇くらいは謳える。

呆然と見送る仁の耳に、奥の扉が蹴破られる、けたたましい音が鳴り響いた。

「ダーや捕まえとくれ!」

滅多に声を荒げない院長の叫び声がした。

なにもかもが間が悪かった。

ダーは種に夢中で、いつもの俊敏さを失っていた。

そこまで種に夢中になるってどんな病気だ、と呆れ果てるようだが、とにかくダーは気もそぞろだった。

手術着を乱して走り出てきた客、こと患者が脇をすり抜けていくのを、普段なら決して許しはしなかったろうが、手の中に持った種に気を取られて、咄嗟に応じきれなかった。

ダーの脇をわけのわからない叫び声を上げながら患者の男が駆け抜けて行く。

「ちっ!」

舌打ちは、ダーと仁、双方から。

しかし、ここでもまた、間の悪さが出た。

仁はそう俊敏なほうではない。放られた拳を避けるのは慣れているが、闇雲に逃げ出そうとする人間を捕まえるのは得手ではないのだ。

伸ばした手は空を掴み、男が出入り口である玄関へと突進する。

とはいえ、いつもならこの程度の距離、ダーが一瞬で詰めている。

「…やっちゃった」

受付の奥で、クズがぼそっとつぶやいた。

その通り、まさにやっちゃった、だった。

ダーは、撒いてある種から先へ進めなかったのだ。

男が駆け抜けたことで、確かに種はある程度掻き散らされていたが、まだそこに厳然と存在を主張していた。

そして、その手前で、ダーは足踏みしているしかなかったのだ。

「クズ覚えていろある!!ニオカに言って、お仕置きしてもらうある!!」

叫ぶ声は、まったくもって珍しくも、悲壮なほどの怒りに塗れていた。

そこまで怒り心頭に発していながら、だが、喜劇以外のなにものでもなく、ダーは足踏みしているばかりで前へ進めない。

男が玄関から飛び出して行き、仁が追いかけようとして、いつまで経ってもやって来ないダーをようやく振り返る。

そこでようやく、足踏みするダーに気づき、顔を歪めた。

「こんなときになに遊んでやがる?!」

仁は理解していなかった。

ダーは遊んでいるのではない。本気で、進めないのだ。その目の前から、種が取り払われるまで。

「はやくこれを片づけるある!!吾の目の前から消し去るあるよ!!」

「なにふざけたことぬかしてやがる!」

怒鳴る仁が、ダーへと駆け寄る。

その首根っこを掴んで引きずろうとして、反対に転がされた。それも、どこまでも容赦なく、下手をすれば骨を折られた勢いで。

「おい!」

「ほうきと塵取り!」

痺れる体を跳ね起こした仁に、受付の奥からほうきと塵取りが投げられた。

「種片づけてはやく!!冗談じゃないんだったら!!」

「……おい……」

珍しく、クズの声も悲鳴のようだ。

戸惑ってほうきと塵取りを眺める仁に、のんびり歩いてきて事態を見てとった院長が、やれやれとため息をついた。

「クズは今月、三十パーの減俸だよ」

「――!!」

声にならない悲鳴が上がり、クズがカウンタの奥に沈みこんだ。

院長は憤激顔で足踏みするダーと、ほうきと塵取りを戸惑い顔で見つめる仁とを見やり、こっくり頷いた。

「彼を連れ戻せなかったら、五十パーの減俸。連れ戻せたら、不問にしてあげよう。二人とも、嵌められただけだからね」

同情しているようでさっぱり容赦のない内容に、仁は仕方なく、ほうきと塵取りを手に取った。