目を開くと、絶世の美貌が顔を覗きこんでいた。

絶世の美貌というのも、チープな言葉だ。

そう思うほどの、思考を掻き消されるような美貌だった。

VARCORACI

2部-第4

「おお、起きたあるね。さあ、いくらおまえでも今度ばかりは、吾になにか言うことがあるあるね。たまには素直に言ってみるあるよ!」

絶世の美貌は妙なる美声で、絶望的にがっかりなしゃべり方だった。

だが、そのがっかりなしゃべり方でも、まあいいやと思うくらいには、美貌は並外れていて、人間を超越していた。

しばし見惚れてから、口を開く。

「…ここは、どこだ?」

「やれやれ!」

美貌が天を仰ぐ。大仰な仕種で肩を竦めてから、腰に手を当てた。

「手術室ある。ここ以外にベッドなんてないあるからね。待合室のソファに放り出しておこうにも――」

「手術室?」

不穏な発言に、眉をひそめる。

確かに見回してみれば、ここはテレビなどで見たことのある手術室そのものだ。

どうやら手術台の上に寝かされていたようだが、自分の服装を見てみればごくふつうの服だ。手術のために寝かされていたというわけでもないらしい。

ゆっくりと起き上がると、小柄な美貌の主を戸惑いながら見下ろした。

「俺はどこか悪いのか?」

訊いてから、さらに渋面になった。

悪い悪くない以前に。

「…俺は、だれだ?」

「やれやれ!」

美貌が再び天を仰ぐ。

「吾は博識ある。知っているあるよ、それ。記憶喪失ネタというやつあるね。『吾はどこここはだれあなたはなに?』――まさに吾は博識ある!」

いや、違うだろう。

――少なくとも、彼が『彼』であったなら、ツッコむことに躊躇いはなかったはずだ。張り手を飛ばして、てめえは日本語がなってねえのかボケ倒してえだけなのかはっきりしろと叫んでいただろう。

だが、彼は『彼』ではなかった。

おずおずと、それもごくばか丁寧に言った。

「あんた、見るからに外国人だからな……日本語に不自由でも、仕方ないな。正しくは、『私はだれここはどこあなたはだれ?』――だ」

「………………………」

瑕疵のない美貌が、空白を浮かべて黙りこむ。

凝然と『彼』を見つめると、ばたんと後ろに倒れた。

そのまま、慌てる『彼』を置いて、美声も台無しの絶叫が迸った。

「いんちょぉおっっ!!いんちょぉおおおっっ!!!緊急事態発生あるよぉおおおおお!!!」

もちろん、『彼』とは仁だ。

なにがあってどうなったのかさっぱりわからないまま、仁は記憶を失っていた。

ダーの、世界が滅ぶ前兆のごとき絶叫を受けてやって来た院長は、手術台に座った仁に軽く問診を行った。

いくつかの訳の分からない質問と、いくつかの意図の読めない質問、さらにいくつかの理解不能な質問。

おとなしくすべてに受け答えした仁は、どこまでも鷹揚で穏やかで、慎ましやかだった。

すっかり毒気が抜けて、ただのいかつい兄ちゃんとなった仁を診察した院長は、穏やかに頷いた。

「まあ、頭をぶつけたからね。そういうこともあるんじゃないかな」

「頭をぶつけたって…」

「不幸な事故ある。不慮の事故ある。むしろおまえが招いた不運ある」

なにがあったのか訊こうとした仁に、ダーは口早に言い募った。

実際のところ、ダーは一ミリも悪くない。少なくとも、ダーの主観においては。

「それにしても、なんたる不幸あるかそうでなくても莫迦なおまえがこれ以上莫迦になるなんて、吾に手の施しようがあるとでも思っているあるかいくらVarcoraciといえど、出来ることには限界があるあるよ」

「わ…?」

嘆きながら罵倒するダーに、仁は首を傾げる。

頭をぶつけたと言われれば、なんだか側頭部が痛むような気がする。手を当ててみれば、包帯が巻かれているから、確かに怪我はしているらしい。

とはいえ言われて気がつく程度なのだから、それほどの怪我ではないのだろう。そんなもので記憶を失ったと言われれば、それは罵りたくもなる。

どこまでも鷹揚で心の広い仁はそう考えた。

それよりも今、危急的に問題なのは――

「それで、その、…」

「どうやったら治るあるか、院長?」

遠慮がちに口を開く仁を見もせず、ダーは厳しい瞳で院長を見つめる。

見つめられた院長は、いつものとおり、孫かわいいじーさんの顔でほえほえと笑い返した。

「さて。こういうのは、それぞれだからねえ。これっていう治療法もない」

「どうにもできないってことあるかこれは一生このままあるかネジが無くなったまま悲劇的展開あるよ!」

叫んだダーを、院長は孫かわいいじーさんらしく、どこまでも微笑ましげに、皺に埋もれる瞳をさらに細くして眺める。

「まあ、焦っても仕方ないよ。案外、寝て起きたら元通りってこともあるし」

その院長に答えるダーのほうは、まったく身も蓋もなかった。

「出来ることはないということあるね人間の医学などお粗末なものある。まあいいあるよ。どうせ莫迦が記憶を失ったところで、大したことを忘れるでなし」

仁に記憶があったなら間違いなく乱闘に発展している言葉を吐いて、ダーはにこやかに仁を見た。

「よかったあるね、おまえ吾は気長なVarcoraciある。おまえが記憶を取り戻すまで、焦らず付き合ってやるから感謝していいあるよ」

「ああ、それは、どうも……」

もし『仁』であったなら決して礼など言わなかっただろうが、記憶を失った彼はどこまでも腰が低かった。

大きな体を精いっぱい縮めて恐縮の姿勢を示し、ぺこりと頭を下げる。それから、おずおずと顔を上げた。

「それで、その……」

「今日はもう上がっていいよ、二人とも。この状態じゃ仕事にならないだろうし。なんかおいしいものでも食べて、ゆっくり休みなさい」

院長がそういう言葉を吐くと、どこからどう見ても好々爺にしか見えなかった。どこにでもいる、平凡で善良な老人だ。

だがこの笑顔のまま、人身売買もすれば臓器売買もする。要するに壊れた笑顔なのだが、今の仁にはわからなかった。

「ありがとうございます。ご迷惑をおかけします…」

神妙な面持ちでそう言うと、礼儀正しく頭を下げた。

院長が笑顔のまま、後ろへと倒れかける。

「いんちょー、気を確かに持つある」

すんでのところでダーに受け止められ、院長は好々爺然とした笑顔は変わらないまま、愉しそうに息を吐いた。

「ふう……気持ち悪かった」

「?」

仁にはなんのことかわからない。

「それで、そのう……」

「じゃあ、吾はちょっと着替えてくるある。おとなしく待っているあるよ」

「私は玄関の修理具合を見に行こうかね。やれやれだれに修理費を請求すればいいもんだか、頭が痛いねえ……」

ぼやく院長とダーが手術室から出て行く。

その背を見送って、未だに手術台の上の仁は、心許ない声を上げた。

「俺の名前は、――なんていうんだ……?」

空漠につぶやいても答える声などあるわけがない。あったら怪談だ。

化け物が実在している時点で怪談な日常は成立していたが、今の仁にはそこまでわからなかった。

ため息をつくと、手術台の上から下りる。

「…意外に、痛いな」

頭をぶつけただけかと思えば、微妙に体のあちこちが痛む。打ち身のような。

「……ほんとに生きてる」

「っ?!」

ぼそっと根暗につぶやく声がして、仁はびくりと身を竦ませた。慌てて声のほうを見る。

手術室の出入り口の戸に、幽鬼が張り付いていた。

「あれで死なないって、あんたどうなってんのその頑丈さとか頑健さとか通り越した強靭さと言うのも憚られる体の構造」

「…?」

よく見れば幽鬼は人間、らしい。

クズだ。

「ええと…」

とはいえもちろん、今の仁にはクズとの面識がない。見も知らぬ人間にいきなり、罵倒されてるのだか褒め称えられているのだか不明な言葉を投げられて、戸惑いに首を傾げた。

仁の戸惑いなど構うこともなく、クズは扉に張り付いたまま、陰々とした目を向ける。

「記憶を失ったからって、それが人間の証明になると思ってるなら思い違いもいいとこだからね。あれで死んでないところですでにあんた人間失格なんだよ」

「あー…」

仁にはわけがわからない。おそらく、記憶を失うきっかけになった事故のことを指しているとは思うのだが、なにがあったか覚えていないのだ。

「すまない。あんたはもしかして、俺を心配してくれているんだろうか」

低姿勢に訊いた仁に、扉に張り付いたクズは土気色の顔からさらに色を失くして後ろに倒れかけた。

すんでのところで堪えると、生まれたての仔鹿のように震えながら手術室へと入って来る。

だれが見ても二度三度と振り返るほど、クズはやせ細って不健康だ。歩いているのを見ると、今にも倒れそうに見えて携帯電話を握りしめるものもいる。いつでも119番が押せるようにだ。

たまに、110番に掛けようと思うものもいる。クスリで末期症状に陥った人間にも見えるからだ。

とにかく不安定な歩行を見るに見かね、仁は親切心からクズへと手を伸べた。

「…?」

その手に、小さな袋が置かれる。

「あげる」

密やかな声で、クズは口早に言った。

「別に、あんたのこと心配してるとかじゃないからな……ただ、記憶を失ったあんたは途轍もなく危険なとこにいるから、対処法を身に着けるまではちょっとだけアドヴァイスしてやる」

「あー、ええと」

仁の手に握らされたものは、ピーマンの種袋だった。緑色のピーマンの写真も鮮やかだ。

ピーマンはたっぷりのきのこといっしょにバターソテーにすると美味い。

記憶を失ったはずなのに、なぜかそんな情報だけが頭の中に浮かぶ。

戸惑う仁を見上げ、クズは落ちくぼんだ瞳を虚ろに輝かせて言い募った。

「困ったことがあったら、『撒く』んだぞ。とりあえずそれで乗り切れ」

「あー…『蒔く』?」

『まく』違いだが、クズは仁にそれ以上の説明をしなかった。言うだけ言って、よたよたと手術室から出て行く。

なにもかもを拒絶する背中に助力を言い出すこともできず、仁は手の中の種袋を困ったように見下ろした。

「……なんだ俺にはつまり、家庭菜園の趣味でもあったのか?」

ダーがここにいたなら、「かていさいえん!!」と叫んで身も世もなく爆笑していただろう。

仁と家庭菜園、いや、仁と植物という取り合わせがもう、異次元過ぎて結びつけられない。よしんば結びつけても、結び目のほうが拒絶して解ける。

だが何度もくり返せば、今の仁にそんなことはわからない。

首を捻りひねり、種袋を矯めつ眇めつして、ため息をついた。

「…また、名前を聞けなかった……」

現況、仁は『天下無敵の名無しさん』だった。