VARCORACI

2部-第10

「………痛いあるね、おまえ。いくら吾がVarcoraciとはいえ、首の骨を折られれば、それなりに痛いあるよ」

不自然な角度に首を曲げたまま、ダーは淡々とつぶやいた。淡々としていたが、その声音にはあのいつもの、残念さを盛り上げる要素でしかない妙な能天気さが戻り始めていた。

「まったく……おまえ、『約束』はどうしたある。吾に血を飲ませると言ったあるな四の五のと屁理屈をこねて反故にすることはないとまで、約束したはずあるよ」

未だ顔を鷲掴みされたまま、ダーは炯々とした瞳で、自分の首を折った男を見ていた。瞳に宿る光はだから、そういった感じで厳しかった。

が、声だ。言い方ともあれ、話し方であり、声だ。明らかにやわらぎ、言うなら、血が通い始めていた。生きておらず、やたらひとに血を寄越せと強請るダーに、もしも血が通うことがあるとするならばだが。

対する、仁だ。

責めるというよりは確かめるという色合いの詰問に、未だ激しく震える足を踏ん張った。濁って焦点のぶれる瞳がなにかを探してぎょろりぎょろりとうろつき、わなつくくちびるが、痙攣と判別がつかないまま開いて、首の筋がさらに立つ。

「ぅるぅっせぇあってぁ、いぃってん、ぅあぁ、よぅおぉあああああああああっ!!」

震える声帯を押して叫び、仁のぎょろつく瞳はとうとう、ダーを見た。ダーを見たがまた浮き、彷徨い、ダーに戻り、睨んで、浮く。

見ているだけで目が回りそうな視点移動をくり返す仁の体から、どっと汗が噴き出した。噴き出した汗は黒いほど赤く染まる肌からほとんど瞬時に蒸発し、白い靄となって散っていく。

しゅわしゅわと、湯が沸き立って蒸発するときの音が聞こえそうなほど白く煙り、仁はダーの顔面を掴む手にさらなる力をこめた。

「っの、詐欺……やぁろぉう、がっ………ひとぅ、がっ……正気、……なぃしぃてるふ、ふ゛、間に………っ、あぁにぃ、勝手………ヤてっぁあ、くれてん、ぅあぉあっ?」

――相変わらずひどい滑舌で、発音だった。なにしろまったく、震えが治まっていない。上辺のみならず、声帯も舌も好き勝手のやりたい放題で波打ち、痙攣している。

とはいえ、ずいぶんまともに話すようになったとは言えた。少なくとも雄叫びではなくなったし、それに、罵倒されているのだということもわかる。

そう、罵倒だ。

焦点がぶれ、眼球が回っているが、仁の瞳には明らかに怒りがあり、あからさまに敵意があった。

そして罵倒だ。誰へと言って、ダーへだ。鷲掴みにして台無しにしても台無しにしきれない、有り余っていっそないに等しい感覚に襲われるほどの美貌の主へ、その美貌を無碍に鷲掴みにしての、罵倒だ。

『仁』ではあり得ない――このあと何週間、何か月間とかかったところで、記憶を失った『仁』ではきっと、こうはならない。

見て取ったダーの、炯々としていた瞳が緩む。緩んで――これほど歪められながら、どうしてそうとわかるのかがわからないが、笑った。

笑いながらダーは、再びくちびるをめくり上げ、白い牙を剥き出した。

「うるさいのはおまえある。たとえ正気を失くしていようが、約束は約束あるよ。潔く吾に血を寄越すある」

剥き出した牙が、顔を鷲掴みする仁の手のひらへ迫る。首の骨も折れて明後日のほうを向き、それですら仁の膂力をないものとして、牙が。

「っっっるぅあぁああああっっ」

再び、仁の全身が膨らんだ。少なくともそう錯覚するほど仁は筋肉を漲らせ、そしてまた、爆ぜた。

「せぇええええああああああああああっっ!!」

叫び、仁は掴んだままだったダーの顔を基点に、その体ごと放り投げた。

――放り投げられたのはダーの意思であると、ここまでを傍観していたクズは判断した。

なぜなら仁が全力を尽くしたにしても、ダーの体はまるで毬玉のような見事な放物線を描いて飛んだからだ。

生きている人間を投げたときに、こういう飛び方をすることはない。生きて、意識もあるなら、生存本能に従ってなんらかの抵抗や反応が起こり、必ず姿勢が崩れる。

もちろんダーは生きてもいないし人間でもないから、彼の一族的に投げられたならこういった飛び方をするという可能性もないことはないが。

それ以前に、生きた人間、あるいは成人している体を、人間の膂力だけでボールのように投げ飛ばせるかという問題もあったりするのだが、とにかく動きの不自然さは、ダーが自らの意思を加味し、移動の助力として仁の投擲を利用したからだった。

素直に投げられた体がクズのいる受付めがけて飛んできて、下ろされている防弾ガラスにぶち当たる。

受け身を取ったかどうかも怪しい態でガラスへ全身を打ちつけたダーは、ひらひらと力なく、床に落ちた。カウンタの下までひらひら落ちて、束の間、クズの目から見えなくなる。

次の瞬間に響いたのは、外した関節を戻すような音だった。

カウンタの下であり、ガラス向こうのクズにとっては死角となるところだったが、なにが起こっているのか、クズにはわかっていた。

ダーが折れた首を戻したのだ。まるで関節が外れただけだとでもいうように。

音はすぐ収まり、ダーがゆらりと立ち上がった。案の定で、首の歪みはまるでなかったことのように、きれいに治っている。

カウンタへ背を預けるようにだらりと立ったダーは、クズへ横目を流した。色香は凄絶だ。クズですら、下半身が疼く心地がした。

クズがこれまで被ってきた害の概ねほとんどに加担し、どころか事態をさらに悪化させている相手であると、身に沁みて理解しているにも関わらずだ。

クズは反射的な動きで、自らの左の薬指に嵌まる指輪を撫でた。感触はなめらかであるのに、なぜか撫でた指先がわずかにちりつく痛みを覚える。

クズのくちびるが歪んだ。この地球上でわかるものはごく少数だが、笑ったのだ。

嗤って、クズは凄艶な横目を寄越すダーを見返した。

「どうなっているある」

――それをなんで自分に訊くんだと。

知ったことかと、よほどクズは言ってやりたかった。が、やらなかった。無駄だからだ。

代わりに、投げた。いつものように。なぜなら今ここに、確かに、『いつも』が戻ってきていたからだ。ごく最近に日常となったばかりの『いつも』ではあったが。

「見たまんまだろ。まったくもって反吐が出るどころでなく内臓が全部裏返しになって全身が爛れたくらいめでたい話だけど、どうやら今度こそ間違いなく、『迷子』だったあんたの情人がご帰還だ」

「………ふん?」

顎をしゃくって示された相手を、ダーは改めてといった様子で眺めた。

そのダーを見上げ、クズはかすかに眉をひそめる。

「というか本気で心底から疑問だけど、あれはほんとうのほんとうに人間なのよほどうまく擬態してるか、さもなけりゃ遠い先祖に、どこかでなんかの血が混ざったりしたとか、そういう」

「人間あるね。間違いなく。先祖返りですらなく、あれはただひたすら、人間ある」

人間とは違う目を持ち、耳を持ち、鼻を持ち、感覚を持つダーは迷いもなく言いきり、クズを胡乱に見返した。

今度はダーが、顎をしゃくる。つまり、黒ずむほどに肌を赤く染め、噴き出した汗が瞬時に蒸発して起こる白煙をまとい、膨張させた筋肉のせいで安物のスーツのあちこちがほつれ破けている、――

しかしなによりとにかく、地獄の悪鬼も絶世の美女に見えるほど険しい顔でこちらを睨む仁へ。

「たとえ『そう』だったとして――あれ、擬態として成功していると言えるあるか?」

――くり返し、くり返そう。なぜなら大事なことだからだ。なににとってどう大事かは置くが、とにかく大事なことだからだ。

つまり、仁の現在だ。現状だ。隣に立ったが最後、地獄の悪鬼も絶世の美女と化す顔相で、様相で、様態だ。誰が見ても震え上がり、腰を抜かし、泣き叫んで無闇と命乞いを始めるだろう。

あえて強調しておくが、誰が見ても、だ。たとえばグリーンベレーといった、人造であるがゆえにさらに劣悪を極める地獄を生き抜いてきた相手であろうともだ。

もしも老人や幼子であれば意識を失うか、心臓が止まるか――

言っておくが、仁はなにもしていない。なにをする前から、ただ立っているだけで、しかしきっと、そうなる。

だから、そういう様態なのだ。

「……」

ちらりと見て、クズは間近のダーへ視線を戻した。

天使だ。

究極の美がそこにあり、溢れる涙と感動は表層意識に因らず深層意識に響いてのもので、止め処を知らない。実際は天使の対極にあるものだというのに、ひとは彼に聖性を見出さずにはおれないだろう。

クズは至極つまらぬげにため息をこぼし、仁へ目を戻した。投げてはいるものの、きっぱりと迷いなく答える。

「あんたよりは、まし」

「やれやれある!」

軽く眉を跳ね上げて『心外』を表明し、ダーはそうとだけ、こぼした。なぜなら今、彼はとても機嫌が良かったからだ。

凭れていたカウンタから身を起こし、――

仁と改めて向かい合おうとして、ふいにクズを振り返る。

「そうある。言っておくあるが、クズ。たとえ内臓が全部裏返しになって全身が爛れたところで、おまえは死なないあるよ。吾の呪いこそ、まさに完璧ある」

どこから続いたなんの話だと眉をひそめてから、クズは小さくため息をこぼした。

先の、自分の発言だ。どれほどこれが『めでたい』ことかという、比喩に使った――

そう、比喩であり、当然だが、嫌みで、皮肉だ。腐したのだ。

「………知ってるよ」

「もうひとつ保証してやるなら」

いやいやながらに吐いたクズの応えに被せるように、ダーは断言した。

「その状態になってすら、ニオカはおまえを離さないある」

断言して端然と、確信に満ちて疑いもなく続ける。

「吾の呪いは完璧あるからおまえは死なないあるが、死なない『だけ』あるからね。『そう』なった場合、おそらくまったく動けなくなるある。けれど、むしろ動けなくなったのをこれ幸いと、監禁して愛で尽くすあるね、ニオカだと」

――続けたが、その内容だ。内臓がすべて裏返しとなり、全身が爛れたところで、ニオカのクズへ懸ける執着はいや増すことはあれ、小ゆるぎもしないという。

クズの顔から表情が消え、感情がなくなった。虚ろに落ちたのではない。なにもなくなった。虚ろですらも。

ほんの一瞬だけ空漠をさらして、クズはダーから顔を逸らした。受付に置いてあるパソコンに向かう。キィボードに手を乗せ、つぶやいた。

「知ってる」

つぶやいたくちびるは、笑っていた。よく見知らぬものであっても、そうと判別できるほど。

ただし判別できることと、その笑いになにを感じるかはまた別だ。ひとによっては初めてクズに幸福を見出すだろうし、ひとによっては絶望を過ぎ越した狂気を垣間見るだろう。

ダーといえば、特になにも拾い上げなかった。彼の本題はそこにないからだ。

仁へと向き直りつつ、ダーは軽く片手を上げ、ひらりと振った。

「ニオカではなく、おまえがそうと望んだときには、叶えてやるあるよ。それで今回の借りはチャラある」

つまり――

つまり、要するにだが、これにはいくつか問題があった。あるいは、問題しかなかった。詳細に列挙すれば少なくとも、一日分の新聞記事が埋められる。夕刊ではない。朝刊だ。スポーツ紙でもない――

しかし最大の問題をひとつだけ上げるなら、クズにはダーに対して貸しをつくった記憶がなかったということだ。

その反対であれば、心当たりは山ほどある。だがダーは、クズがダーに貸したという。

たとえクズが世のすべてを儚み、なにもかもについて投げやりになっていたとしても、そんなおそろしいことをしようと企むことだけは決してないと、言いきれた。

天井知らずに上乗せされる借金こそ救いであり、慈悲だ。そういう相手なのだ、ダーというのは。

――これは新手の嫌がらせか、今回のことの報復か。

検討しつつも本人へ確かめることはせず――

そう、相手も見ず、常に無闇やたらと毒を吐き散らかしているようにしか見えないクズだが、これは理解していた。

『反応してはいけない』。

こういった手合いとの付き合いにおける、鉄則だ。ごく頻繁に、そういう瞬間がある。

受け入れてもいけないが、拒絶してもいけないという。

さもないと、自らの自由には死ねない身の呪わしさが、さすがに致死レベルにまで達する。

致死レベルにまで達するが、しかしそれでもクズは己の自由には死を得られないのだ――

クズはただいつもの通り、興味を失った顔でパソコンへ目を戻した。

手を置いただけだったキィボードから片手だけ上げ、マウスに持ち替える。指先が震えていたが、これも『いつものこと』だ。クズは傍目には、末期的な薬物中毒患者も同じなのだ。

状況も味方した。ダーは今、クズよりずっと気になる相手がいたから、詳しく反応を見たり、求めようとしなかったのだ。

ほとんど勝手に言い置いてクズを忘れ、ダーは仁と向き直った。

仁だ。

『仁』だ――

「とはいえ、約束は約束ある。なにがどうあれ、おまえは約束通り、吾に血を寄越すある!」

勝ち誇って光輝溢れる笑みとともにしつこく強請るダーへ、ようやく震えが治まり始めた仁は胸を逸らして立った。

目を逸らすこともなくダーを、闇の眷属を見据え、きっぱり、言う。

「無効だ、んなもなぁ『俺』は、んな約束した覚えぁ、ねえ!」

「どちらであっても、やはりおまえはばかあるそんな言い分が通るとでも…」

「応!」

ダーが腐すのを皆まで聞かず、仁は威勢よく吼えた。いや、声こそ吼えて大きかったが、そこにはいつもの不機嫌はなかった。だからといって愉しげであったわけでもないが、強いて言うなら仁はただ、自信に満ち溢れていた。

自分が『自分』であるという自信に満ちて溢れ、吼えた。

「だったらてめえ、あれが『俺』だっていう、証拠を出してみろや!」

――自信に満ちて溢れ、吼えたのが、これだ。これだ。これだ!

虚勢ではない。売り言葉に買い言葉の啖呵でもなく、無闇な威迫でもなく、ただ心の底からそうだから、そうだという。

まさに『自信』だ。根柢の揺るがなさが尋常ではない。揺るがないその根底の根拠が、まったく不明なのだが。

そして、ダーだ。

「仕方ないあるねえ、まったく、おまえというやつは!」

笑って、言った。言って笑って――笑って、言ったことだ。それは仁の言い分を容れたということだった。

仁の言い分を容れた以上、血を与えるという契約もなかったこととすると。

「ならば代わりに、精を寄越すあるよ今日は無駄に動いたあるし、そもそも昨日はまともに喰らってもいないある。吾は腹ぺこあるよ!」

「うるせえ昼間っからがっつくんじゃねえよ大体、いくら喰らったとこでどうせ無駄じゃねえか、てめえ!」

ご機嫌に抱きついてきたダーに、こんな残念な誘い方であっても突き抜けた美貌で押しきれる相手に、仁は無碍にがなり返した。まったくもって、いつもの――

いつもと変わり映えのない。

「………ばかも極めれば闇の眷属と対等、同等ってことなのか…………さもなければ闇の眷属ってのが、ばかの集合体なのか………」

そうでなくとも死に態を晒す顔にさらに色濃く疲労を上塗りし、クズはどす紫色の瘴気が見えそうな、重くしけったため息を吐きこぼした。