「…っ」

カイトがこぼした言葉の衝撃に、がくぽのほうが固まった。

記憶の定義-後編-

初期化――ロイドにとって、死に等しい、いや、死そのものですらある、言葉。

体はそのまま同じでも、再び起動したこころが宿す思いも、考えも、なにもかも同じではない。

そこにある、体だけは同じ、別個のだれか――

固まるがくぽに、カイトのほうがやわらかに、背を叩いた。

「俺も結局、初期化しちゃったから、なんにも覚えてないでしょだから聞いただけの話で、全然実感がないんだけど………」

「…」

がくぽはくちびるを噛み、カイトを抱きしめる腕に力を込める。カイトはうれしそうに笑って、がくぽに擦りついた。

「ふっつーは、初期化って、すっごく複雑なプロセスを踏んで、マスター認証とか、ラボ認証とか、いろいろ必要でしょでも俺、そういうの全部すっ飛ばして、自分で勝手に、自分に初期化を掛けちゃったんだって」

「っ!」

がくぽは思わずカイトを引き離し、顔を覗き込んだ。

暗闇でも、わかる。カイトはいつものとおり、ほやほやと笑っている。

笑っているが、話している内容が笑いごとではない。

それはつまり、プログラムが自殺を図ったということ――そんな概念を組みこまれることがないはずのプログラムが。

そんなことが決して出来ないように、厳重に組まれているはずのプログラムが。

引きつるがくぽの頬を、カイトはやわらかに撫でた。

「………違うよ、事故だったんだって。なんていうのかな、バグっていうか、プログラムの設計上のミスがあったらしくって………………抜け穴っていうの俺は別の処理をしようとしたんだけど、うっかりその抜け穴に嵌まっちゃって、結果的に初期化が掛かっちゃったんだって。それも、夜、寝る前だったらしくって………ラボのひとが気がついたときには、俺はすっかり初期化されちゃってて、手の施しようがなかったんだって」

「そんな……」

カイトはロイドの草創期に生まれた、旧型機のひとつだ。KAITOシリーズそのものが旧型だが、「カイト」自身はその中でも、かなり初期型に入るらしい。

どこまで古いのか、はっきりした話は聞いたことがない。しかしマスターやカイトが端々に臭わせる言葉から類推すると、ほとんど試行型と言ってもいいランクらしい。

だから当然、プログラム上のミスは付きものだとしても――

「………大変だったんですよーって、マスターは言うよ。ロイドが自分で勝手に、自分に初期化を掛けられちゃうなんて、あんまりにも致命的なミスでしょで、その頃にはもう、KAITOシリーズもかなり世の中に出回ってて、その全部にプログラムの見直しを掛けないといけない。でも、あんまりにも致命的かつ重大なミス過ぎて、ロイド全体の信用問題に関わるから、大々的にリコールも掛けられない。ラボは半狂乱だったって」

「………そういう問題では」

「ふひゃ」

不愉快そうにつぶやくがくぽに、カイトはあくまで明るく笑う。がくぽの胸に擦りつき、軽く爪を立てた。

「…………結局のとこ、よくよく調べたら、それは『俺』だけが持ってる問題で、市場型のKAITOに問題はなかったみたい。だからとりあえず、ラボのひとは、この機会にって、俺のプログラムを全部洗い直して、きれいにして、こうやって起動させ直したんだって」

「……」

がくぽはカイトを抱きしめる腕に力をこめる。

笑って話せる内容ではない。

なのにカイトはあくまでも笑っていて、楽しそうだ。

「………覚えてるんだよ。目が覚めた瞬間のこと」

痛いほどに抱きしめるがくぽに、カイトは重大な秘密を打ち明けるように、ささやく。

「目が覚めたら、なんか、研究室みたいなとこで。無機質で、寒々しくて、寂しかった。でも起き上がったら、そこに、めーちゃんがいて――すっごくやさしく笑って、ぎゅうって抱きしめてくれたんだ。『おはよう、カイト。待っていたわ、かわいいおマヌケさん』って、ほんとに、うれしそうな声で言って」

言いながら、カイトはますますがくぽに擦りついた。

「………マスターもいてね。って言ってもまだ、『マスター』じゃなかったけど。頭を撫でてくれた。『ご機嫌いかがですか、カイトさん?』って、楽しそうに笑って。だから俺は、ああ、俺は世界に歓迎されてるんだって、すぐわかった。だから………『俺』は、大丈夫なんだよ」

つぶやいて、カイトはしばらく黙りこんだ。がくぽはカイトを抱きしめ、その頭に顔を寄せる。

しばしの沈黙ののち、カイトは諦めたように、体から力を抜いた。

「……………マスターが、言ってた。俺がこうやって、不安になったり、ヘンになったりするのは、その、初期化を掛けちゃった日の前後なんだって」

「ああ………」

マスターの行動に納得がいって、がくぽは頷いた。

去年、だれもなにも言わなかったのに、マスターは仕事を放り出し、慌てふためいて帰って来た。

やはり彼女には、カイトがいつどうなるか、わかっていたのだ。

マスターは天然で忘れていく「人間」という生き物だが、何年もくり返される現象を分析もせず、毎年首を傾げるような愚かな思考の持ち主ではない。

気がついたのだろう。カイトが不安定になるタイミングと、過去とを突き合わせて。

「怖かったんでしょうね、って、マスターは言うよ。きっとカイトさんは、助けてって、言っていたんでしょうねって。でも、だれも助けられなくて………助けてもらえなくて。カイトさんは、すごくすごく、傷ついていたんですよって」

がくぽには、そうは言わなかった彼女だ。理由などない、と。自分が至らないせいだ、と。

ある意味で、マスターらしい。

確かにこの、カイトの過去は重過ぎる――あの頃、カイトへの想いを自覚出来ずに不安定だった自分では、背負いきれずにカイト自体を放り出していた可能性もある。

さもなければ、過剰に背負い込み過ぎて、潰れていたか。

腕の中のカイトは、不思議そうだが、安らいだ声だ。

なにより、がくぽの腕の中で。

「………でも、初期化を掛けちゃったってことは、そういう記憶の一切だって、残ってないはずでしょそう言ったんだけど、たぶん、俺の場合、初期化っていってもイレギュラーだから、どっかにヘンな傷が残ったのかもって。それに………」

つぶやくカイトの声が、重くなる。どうやら、眠くなってきたらしい。

「…………記憶って、そんなに簡単なものじゃないんですって、マスターが。ロイドは機械かもしれないけど、有機素体も使っているでしょだから一概に、機械の事例ばっかり当てはめるのは、無理なんだって……『ラボのひとは、そんなことないって言うでしょうけど』……」

カイトが、わずかにマスターの声音をまねる。眠そうだが、相変わらず楽しそうだ。

「『私は、あなたが起こしている奇跡を知っているから。だから、そう信じます』」

「…」

マスターの声音で言い切って、カイトは笑った。

「………それでマスターは、助けられなくてごめんなさい、怖い思いさせてごめんなさいって謝りながら、俺のこと抱きしめるの。それはたぶん、『俺』じゃないんだけど……………でも、なんか、こころのどっかが、緩むから…………もしかしたら、『俺』かなって」

つぶやいて、カイトは可能な限り、丸くなった。

がくぽのにおいが間近にあって、きつく抱きしめられていて。

ここは絶対安心の場所、と思うと、やはり、こころの「どこか」が、緩む。

眠気に追われつつ、カイトはがくぽの背を掻いた。

「謝んなくていいんだよ、マスターは……………俺、ずっと、守ってくれてたの知ってるし、しあわせだって、いっぱいもらったんだから……………だから………」

「カイト」

不明瞭な声でつぶやくカイトに、がくぽはささやいた。

「………これからは、俺が守る。なにからも、どのようなことからも。お主のことは、全霊をかけて、守ろう。ゆえに、安んじて眠れ」

「………」

カイトの指に、わずかに力がこもる。がくぽは抱きしめたカイトの背を、軽く叩いた。

「朝になっても、こうして抱いていてやる。目が覚めたならいちばんに、キスを遣ろう」

「……ふひゃ」

笑って、カイトは一度、顔を上げた。がくぽのくちびるにくちびるを押しつけ、胸に埋まり直す。

その体からゆるゆると力が抜け、寝解けていくのがわかった。

がくぽはカイトを抱きしめ、闇を睨む。

――長く生きていれば、いろんなことがあります。

マスターの言葉が去来し、微笑んだ。

いろいろあったにせよ、今これからは、自分が傍にいる。傍にいて、なにからも守る。

過去は取り返せなくても、そうやって積み重ねていく月日が、いつか、カイトのこころを本当に癒すはずだ。

そしてカイトも、真実、笑う日が来るだろう。

いろいろあったよね、と。

それが記憶を積み重ねていくことの、本当の意味であり、理由なのだから。