転がる、詞。

転がって、転がって、行きつく、果ては――

却の対価

「メイコさん、今のフレーズ弱いです。もう一回!」

「っ」

ブースの外から飛んできた鞭打つ声に、メイコはくちびるを噛む。

七回目のリテイクだ。

ブースの外に立つマスターの表情は、厳しい。

「マスター」としては甘く緩い彼女だが、「プロデューサ」としての彼女は、徹底した完璧主義だ。

手を抜かない。

抜くことも赦さない。

いつもは蕩けたような瞳も、今は炯々と光ってメイコを見据える。

「大分よくなってきましたよ」とか、「あと一押しです」といったことを、言われなかった。

つまり彼女が目指す着地点に、メイコはまだまだ遠く、及んでいない。

このままだと、リテイクは二桁に上る。

「………っ」

ひと口に「弱い」と言われたところで、「なにが」弱いのか、わからない。

くちびるを噛んで俯き、メイコは震えて崩れ落ちそうな体を懸命に堪える。

わからない――けれど、その一言は、決して言うことが出来ない。

それが、メイコの「選択」の、結果。

「マスター……」

ブースの外で、マスターの傍らに立つカイトが気忙しげな声を上げる。

マスターが目を向けることはない。

「メイコさん、今のままだと、完璧にカイトさんに負けてます。それでは困ります。勝て、とは言いませんが、せめて張り合ってください」

マスターの指示は曖昧だ。ロイドに対するものではない。

そんな指示はロイドには――特に旧型と言われ、物堅いプログラムの傾向が強いメイコには、混乱の元となるだけだ。

――でも、メイコさん。

はっきり言えと、明確な指示を出せと、噛みついた。

メイコに、マスターは静かな表情で、言った。

――『音』っていうのは、すごく曖昧で、抽象的なものよ。確かに、コード表なんていうのはあって、Cはこれ、Gはこれっていう基準はあるけど……………私が届けたいのは、教科書音楽じゃないの。生きて、形成す音なのよ。

声はやわらかく、けれど、言葉には迷いがなかった。

背後に流れる音を聴きながら、マスターの手が虚空を撫で、掴む。

差し出された、空虚。

――こうして、手に掴むことが出来る。そんな音が欲しいの。

差し出された手のひらにあるのは、空白だ。

そうとわかっていてもなお、メイコには見えた――音の色。形。

マスターが見つめ、掴み、求めるそれが。

――あなたには出来るわ。だって、『音』っていう抽象的なもののために生み出されたのが、あなたたち『ボーカロイド』なんだもの。それが出来る素地があるのよ。

無茶を言う、と思った。

プログラムはプログラムだ。

入れられたコードの通りにうたう。コードをなぞる。それがボーカロイド。

マスターの理想はあまりに現実離れしていて、ロイドに夢を見過ぎだ。

そう思って――でも、言葉に出来なかった。

マスターの瞳が宿す光はあまりに強く、確信に満ちていた。

彼女は夢見ているのではない。知っているのだ。メイコには出来ると。

おそらくはメイコが忘れた、過去の「メイコ」が――彼女に、見せた。その境地を。

だからメイコには出来るのだと、――知っている。

メイコが忘れ去った「メイコ」でも、間違いなく「メイコ」自身が成したことだから。

「っっ」

瞳を涙に潤ませながらも、きっと顔を上げたメイコに、マスターの瞳は厳しいままだ。

「一度、カイトさんのパートを流します。聴いて、考えてください」

「はい、マスター」

頷くメイコに、マスターはスタッフに指示を出す。

抽象的で、曖昧。

聴いて、感じて、考えろ、と言う。

ロイドに。プログラムでしかない、ロイドに!

メイコはヘッドフォンを耳に押しつけ、瞳を閉じる。

流れてくる、カイトの声。

のびやかで、力強い。きれいに旋律を辿る。発音に覚束ないところもない。マスターの調声の賜物――それだけなら、メイコとて条件は同じ。

違いはなんだ

探る。

瞳を閉じ、ヘッドフォンを押さえ、潜りこむ。

自分の記憶。

蘇らせる、うたうカイト。

うたう――伸びる声。

見つめる瞳は前を向いて、けれどその先にいる、スタッフもマスターも、メイコも映してはいなかった。

うたう、捧げる、ここにいない、だれか。

――ちがう。

カイトのうたが、伸ばす手。

そこにいないひとを、抱く。そこにいないけれど、確かに傍にいるひと。

メイコは見る――カイトが見ていた。うたいかけていた姿。そのひと。

声は、そのひとのために。

想いは、そのひとへ。

詞は転がり、辿りつく。

抱きとめられ、受け止められる。高貴に輝く、紫色の光――

そうだ。

詞は、無為に垂れ流されるものではない――辿りつく、だれかが、いる。

届けたい、手を伸ばす。

受け止めて欲しい、だれか。そのためにうたわれる、こぼれだす声――

「っっ」

「メイコさん、行きますよ!」

「っあ………っ」

メイコはくちびるを開く。

求められるまま、うたう、うた――

悲鳴が轟いた。

それは恐怖かもしれず、悲哀かもしれず、混乱し惑乱する思考そのままに。

メイコのくちびるは、詞を紡ぐ。メロディをなぞり、コードに従い、うたわれる詞。

けれどメイコの耳に聞こえていたのは、自分が上げる悲鳴だった。

その声は旋律そのままに伸び、乗せられた詞をうたう。

それでも。

メイコには、自分が轟かせる悲鳴しか聞こえていなかった。

うたう、詞。

転がり、広がり、辿るその先――先へ、先へ、さきへ。

転がって転がって、カイトは見つけた。

その詞を届ける、想いを渡す相手を。

同じ相手をメイコが思うことに、意味はない。メイコが届けたいのは彼ではなく、辿りつく先も、伸ばす手も。

――では、だれ?

泣き叫ぶ声が、問う。

――では、私は、だれに声を、詞を、届けたいの?

転がる詞の、行きつく先は、だれなの?

問いに、広がる空漠。

落ちる、暗闇。

いやだ――泣き叫ぶ。悲鳴を上げて、手を伸ばす。

だれか、私の声を、受け取って――私の詞を聴いて、わたしのことばを、わたしの…………

忠実にコードをなぞり、きれいな発音で、メイコのくちびるはうたを紡ぐ。

耳に聞こえるものが悲鳴だけでも、声が音程を外すことはない。

うたうたうもの、それがボーカロイド。

うたうたう、それゆえに、ボーカロイド。

「………」

紡ぐ、詞。

メイコの瞳は、救いを求めて彷徨う。

辿りつく先。

見えるのは、空虚。果てない空漠。

その瞳が、はたと一点で止まった。

ガラス越しに、厳しく自分を見据える瞳。

いつもは甘く緩んでいるのに、仕事となると、きりりと引き締まる。

遠く離れて今はよく見えないけれど、その瞳は古木の樹皮のような色をしている。光を映してときどき、金色に輝くけれど――やさしくやわらかく、あたたかい、古木の樹皮の色。

その瞳がこぼした、ひとしずく。

――あなたが、わたしのことをすきになってくれたなら………そのときには、おもいだして

一度だけ、求められた。

ただ一度、彼女が「マスター」となったその日に、たった一度きり。

「……………」

詞が尽きて、旋律が閉じる。

立ち尽くすメイコに、ブースの向こうで、マスターは表情を和らげた。

いい意味ではない。

「メイコさん。一度、休憩を入れましょう」

やわらかく、しかし厳然と告げられる。

貰えない、合格の言葉。

けれどそれ以上に。

メイコは呆然とマスターを見つめ、戦慄くくちびるを開いた。

「マスター。あたしは、なにを忘れたの…………?!」