送り迎えがつくものもあるが、大抵の場合、がくぽは電車やバスを利用して、自分の足で仕事の現場に向かっていた。

頻繁に使うので、そのたびに切符を買っていては面倒だからと、電子乗車券もきちんと持っている。

「……………ん」

今日も今日とて、現場へと電車で向かったがくぽは、当然、帰りも電車だった。

家の最寄り駅で降りて、特に物思うこともなく乗車券を改札に通して数歩行ったところで、ふと首の後ろに手をやる。

押さえたところで、その手にどんっと組みつかれた。

「がぁくぽーっ!!だーれだっ!!」

「カイト、……っと」

後ろから走って来て組みついたカイトは、明るい声で笑って伸び上がり、がくぽの頬にちゅっとキスをする。

改札は通ったが、まだ駅だ。帰宅ラッシュよりは少し早い時間なので驚くほど混んでいるわけではないが、それなりに他人がいる。

それでも、カイトが――KAITOが頬にキスをするなら、それはある意味、当たり前のことだ。KAITOシリーズには、デフォルトで挨拶のキスの習慣がある。

ロイドに詳しい者ばかりではないから、それなりに奇異の視線は貰うが、言い訳は立つ。狼狽えて、慌てて物陰に隠れなければならないことはない。

「………『誰だ』と問うなら、目を塞ぐのではないか?」

キスして離れたカイトに苦笑しつつ、がくぽは解放された手でわしわしと頭を撫でてやる。

まるきり子供の扱いだったが、カイトはうれしそうに笑った。

「むつかしいってだって、だーーーー→って走って来て、飛びつくんだよイキオイあるもん、どうやるのケガするよ?」

「いや、年的にな……だーっと走って来るのがそもそも、どうだ。忍び足で近づけば、いいのではないのか………?」

無邪気に放たれる言葉に、がくぽは軽く天を仰ぎながらつぶやいたが、カイトにはあっさりと笑い飛ばされた。

しばらくして突然の再会のじゃれ合いもひと段落つき、がくぽは並んで家路へと歩き出したカイトに、首を傾げてみせた。

「今日はもう少しう、遅いはずではなかったか?」

二人で落ち合うことを、約束していたわけではない。偶然だ。

今日のカイトは夕飯ぎりぎりか、もう少し遅い時間に帰って来る予定だった。

問われたカイトは、ぴょんこと跳ねるように先に行き、華麗なターンを決めてがくぽを振り返る。

びしっと親指を立てて、かわいいウインクを飛ばしてきた。

「もー、ぜっこーちょーっ!!なんかね、今日はなにやってもばしっばしっと決まってね機材とか、そういうのの搬入待ち時間とかも込みで、遅くなる予定だったんだけど、なんか都合がついたから、さっさといくよーって。すっごい早く終わっちゃった!」

「なるほど」

普段から明るいカイトだが、今日はずいぶんとはしゃいでいる。

マスターによってプロフェッショナルを叩きこまれているカイトだから、基本的にはどんな仕事であっても文句を言わずにこなす。

だからといって、まったく不満を抱かないわけではない。

うまくいかない仕事があれば、やはり微妙な気持ちになるし、テンションも落ちる。

いや、プロフェッショナルとして、どんな仕事でもこなすからこそ、こうやって上手くいった日には、喜びもひとしおとなるのだろう。

「がくぽ、がくぽは?!」

「あー、俺か?」

当然の問いに、がくぽはくちびるを歪め、思い返すようにわずかに上目遣いとなった。

「……………可もなく、不可もなく、だな。大きなトラブルもなかったが、だからといって、特に浮き立つようなこともなかった。淡々だな」

「たーんたーんっ!」

がくぽの言葉をくり返し、カイトはリズムに乗ってぴょんこぴょんこと先に行く。

車通りや自転車の様子を気にしつつ、とりあえず自由にさせているがくぽを振り返ると、進んだ分を無駄にして、駆け戻った。

目の前に立つと、歩みを止めてくれたがくぽを真面目な顔で覗きこむ。

「不満そう」

「………………んー。………不満、ではない。たぶん」

「がぁくぽ」

まっすぐに覗きこんでくる目を見られないまま、首の後ろを掻いて答えたがくぽに、カイトはきゅっとくちびるを尖らせた。

ぴっと人差し指を立てると、軽く振る。

「『おもしろき、事も無き世を、おもしろく』」

「………」

「おもしろくないなら、自分で動く。おもしろくなるように」

珍しくも真面目に忠告して、すぐにカイトは笑み崩れた。

「がくぽは、だいじょーぶだよ。だって、ちゃんと考えるし、だめなこともわかってるし。そのうえで、おもしろくなるってアイディアがあるなら、それは動くべき。じゃないと、現場にマイナスなんじゃなくて、がくぽにマイナスだもん!」

「………ああ」

笑って言って、カイトはくるりと振り返り、再び歩き出す。

跳ねるように軽い足取りだ。仕事がうまくいったせいだけでもなく、カイトの足取りは常に軽い。

弾んで、愉しんで、おもしろがって。

「そうだな」

後ろからついて行きつつ、がくぽも微笑んで頷く。

ちなみに、もしこれが散歩であれば、がくぽがカイトから距離を開けて歩くことはない。

散歩中のカイトは、猪だ。さもなくば、猛牛。

唐突に物凄い勢いで走り出し、さもなくば方向転換し、どこに向かうかさっぱりわからない。

そのうえ、猪も牛も一向に交通法規を理解しないように、カイトもいくら教えても、車が走っていようが平気で飛び出す。

目が離せないどころか、手が離せない。比喩ではなく、現実として。

しかし、なにかしら自分の中で区分けがあるのか、帰宅途中のカイトにその心配はない。

足取りが軽くても家以外の方向には進まないし、唐突に走り出すこともない。がくぽを置いていくこともなく、周囲をちょろちょろとしている。

車に対する警戒だけは、相変わらず微妙にお留守だが。

「っこらっ」

「っわ」

信号が変わった途端、車の様子も確認せずに飛び出そうとしたカイトを、がくぽは寸でのところで抱えこんだ。

ぎりぎりの赤信号を押し切る車が、その目の前を猛スピードで駆け抜けていく。

「………カイト。いくら信号が変わっても、まずは右見て左見て右見て左見て右見て」

「どうしても終わんないんだ?!!」

「お主は付き添いなしで、横断歩道を渡るな」

「………」

「ん?」

抱えこんだまま仏頂面で説教を落とすがくぽを、カイトはきゅるんとした無邪気な瞳で見上げる。

胸に回された腕にそっと手を添えると、軽く首を傾げた。

「もう、渡っていい?」

「………ん、あ………ああ」

つい見入ってしまったがくぽだったが、問いに慌てて道の左右を見渡し、頷いた。

緩めた腕の中から、カイトが軽やかに飛び出して行く。

「………」

首の後ろに手をやって掻きつつ、がくぽは天を仰いだ。

「まずかった」

つぶやいたところで、対岸のカイトが手を振って、がくぽを呼ぶ。

「いーそげーあかー!!」

「っ!」

ぼんやりしている間に、歩行者信号が点滅を始めていた。

がくぽは慌てて右左と見てから、横断歩道を駆け渡る。

「ごーーーーるっいっとーしょー!」

「っととっ」

走って来たがくぽの胸に、カイトが無邪気に飛び込む。ちょっとした激突だ。

思わず揺らいだがくぽに高らかに笑い、カイトはすぐさま離れて、また先に歩き出した。

「………やれやれ」

何度も何度も確認していることだが、敵わない。

敵う日が来るようにも思えない。負け負けだ。

その負け負けが、愉しい――

そんなふうに、行っては戻り、行っては戻りをくり返すカイトと共に歩いて、がくぽは家の傍にまで来た。

カイトはぱっと走ると、がくぽが門扉を潜るより先に玄関に立ち、両手を広げる。

「おかえり、がくぽ!!」

「………ただいま、カイト」

がくぽはふっと吹き出しつつ、両手を広げて『迎えて』くれたカイトに応える。

「ところで、俺、カギどこしまったかな!」

がくぽが玄関前に立ったところで、カイトは非常に明るい顔で訊いた。

そんなことを訊かれても、がくぽには答えようがない以上に、場合によっては笑い話ではない。

「一寸待て。失くしてはおらんだろうな?」

渋面で訊きながら、がくぽは腰紐とチェーンで繋いである自分の鍵を取り出す。

カイトはぱたぱたと自分の体を叩いた。

「失くしてないと思うけど、右か左か後ろのポケットか、さもなければ鞄のポケットかお財布の小銭入れの中か、どこにしまったのかが賭けなんだよね、わりと………」

「探しておけ。開けてやるから」

「んーっ」

自分の体を探り終わったカイトは、斜め掛けしていた小さなバッグの中身を漁り出す。

横目に見つつ、がくぽはかちりと鍵を開いた。ドアノブに手を掛け、扉を開く。

その瞬間に、カイトの指がちゃりんと軽やかな音を立てた。

「あったー!」

「…………今度、リン殿とレン殿に、バッグとシリーズのキーチェーンかなにかがないか、訊いておくか……」

「んぇ?」

うれしそうなカイトとは対照的な懊悩を浮かべるがくぽに、肝心のご本人はきょとんとするばかりだ。

カイトが鍵を取り出したのは、空のアイスの袋の中からだった。

バッグの中に空のアイスの袋が入っているのはいいが、さらにそこに鍵が入っている状況というのは、微妙だ。

「べたついておらんのか?」

「え、やだなー、がくぽ。ちゃんと洗って消毒済み!」

「………」

当然と言い返された言葉は、さらに微妙だった。

これに関しては議論するより、新しいキーチェーンを贈って使わせるほうが早い。

諸々の学習からさっさと割り切り、がくぽは開けた扉の中に入る。その脇をすり抜け、カイトがぴょんと家の中に飛び込んだ。

かちりと、扉の閉まる音――

あえかに、聞いたことは聞いた。

「ん………っ」

「ふ………」

飛びこんだカイトは即座に身を翻し、がくぽに飛びついた。のみならず、しがみつきながら伸び上がると、くちびるに貪りつく。

貪りつく、というのが、まさに正しい表現のキスだった。

「ん、ぁ………ぁ、くぽ………ふ、んん………っ」

「ん………」

しがみつく体をきつく抱きしめ返し、がくぽもカイトのキスに応える。押しこまれる舌を甘く噛み、誘われてカイトの口の中へと辿り、戦慄くくちびるに牙を立てた。

「ぁ、は……………っ」

「ふ………」

ややしてくちびるが離れると、カイトはがくぽに支えられてようやく立ちながら、胸に顔を埋めてきた。

背中に回された腕にきゅっと力が込もって、凭れる頭が胸に擦りつく。

「やっと、キスできた……………っ」

「……………」

万感の思いを吐き出す声音に、がくぽもまた、カイトを抱きしめる腕に力を込める。

駅で出会ってから、ずっと――抱きしめたかった。くちびるを交わしたかった。思う存分に、恋人と触れ合いたかった。

軽い接触のたびに、意識が飛びそうだった。

がくぽもだが、カイトも、また――

「………カイト」

「ん……」

擦りつく顔を持ち上げられて、カイトは陶然としてがくぽを見る。

視線の無邪気さは相変わらずでも、甘い熱が宿って、艶めかしい。

「もっと………」

笑みの形のくちびるを寄せて強請ったがくぽに、カイトは伸び上がり、首を突き出して応えた。