リビングに入ったカイトは、目的の相手を見つけて満面の笑みとなった。

「めーちゃんっ!」

差し込む陽の光にも負けないその明るい笑みまま、定位置の一人掛けソファに座り、雑誌を眺めていた姉に駆け寄る。

「あのねっ、えっちな本買いに行きたいから、付き合って!」

どぐまぐ

「………っっ」

――非常に珍しくも、がくぽの顔が『ハニワ』になっていた。切れ長の瞳も薄い肉づきのくちびるも、これ以上なく真ん丸になっている。

写真に撮っておくべき珍事だったが、ここに他の家族はいなかった。いるのは、がくぽとカイトの二人だけだ。

そしてカイトはというと気まずく俯いていて、がくぽのせっかくの珍顔を見ていなかった。

たとえ見ていたとしても、写真だ動画だと、思いつける雰囲気でも、実行に移せる空気でもなかったが。

「………で、でねんと、すっごい、怒られました………」

「だろうな……………」

がくぽとしては、そう言うしかない。むしろ自分がそう言えただけでも、ハナマルをやりたい気分だ。

よりにもよって、メイコ。

そしてさらに、カイトがえっちな本。

なにをどこからどうツッコんでいいか、さっぱりわからない。

「まあ、なんだ。理由はわかった――なにゆえ俺が、帰って来るやいきなり、監督責任を問われてメイコ殿に叱られたのかの」

もごもごと口ごもりつつもそう続けたがくぽに、カイトはさらに小さく体を竦ませた。

「ご、……ごめんなさい………」

「いや………」

がくぽとカイトが現在いるのは、リビングの外、扉脇の廊下だ。そこに二人並んで、正座の子と化している。

自主的にそうしたわけではなく、お怒りのメイコによって命じられたのだ。反省しなさいと。

扉の中のリビングは南向きだ。まだ陽が差し込んで明るいが、北向きの廊下は微妙に暗い。

さらに言うならそこにいる二人の空気も相まって、今日の暗さはかなりのものがあった。照明を点ければどうにかなるという話ではない。

しかもがくぽには、こんなことを命じられる理由がまったくわかっていなかった。

仕事から帰って来て玄関を開けた瞬間に、飛び出してきたメイコに怒られたのだ。曰く、監督責任だと。

普段、甘やかしてばかりでちゃんと躾をしないから、がくぽもカイトも、ひいては家族まで迷惑を被るような事態になるのだと――

反論も赦さない怒涛の勢いで説教されたが、具体的なことをなにも教えてもらえなかった。つまりいったいなにがあって、どんな迷惑を被って、こうまで怒っているのかという。

わからないまま訊くこともできず、問答無用で廊下に正座で反省の刑だ。

そこにはすでにカイトがしょぼんとして座っていて、並んだがくぽを非常に情けない顔で見た。

「二人とも、ちゃんと反省するまでそのままよ!」

言い置いたメイコが肩を怒らせて憤然とリビングに入って行くのを見送り、ようやく訊いた理由が――

「………よりにもよって、なにゆえ、メイコ殿だ。他のきょうだいなら、こうまでは………」

メイコはジョークがわからないと言う気はないが、彼女はこのすっ飛んだ家族の中で、いちばんの常識派だ。それゆえに、家長などもやっている。

男きょうだい――いや、カイトから、えっちな本をいっしょに買いに行ってと言われた場合、他のきょうだいならば笑って同行するだろうが、メイコは違う。

現状はむしろ、予測できてしかるべき事態だ。

なにを早まったのかと慨嘆するがくぽに、相変わらず俯いたまま、カイトは膝の上に置いた手をもじもじとこすり合わせた。

「だって、ほかの子はみんな、未成年だもん………」

「ああ………」

――さすがに、同意する以外にない。

カイトが買いに行きたいのは『えっちな本』だ。

男性向けの『えっちな本』といえば、成年指定マーク――未成年者購入禁止だ。店によっては、エリアに未成年が立ち入ることから制限している。

消去法で行き、残る家族はマスターにメイコ、そしてがくぽだ。

残る三択から、カイトはメイコを選んだ。

よりにもよってとしか、言いようがない。

マスターもメイコと同じく女性だが、こういった部分での柔軟さは比べようもない。なにより、安心感がある。

詳しいからだ。

女性だが、芸能プロデューサという仕事柄、避けては通れない情報がある。

その関連で、マスターは男性向けアダルト事情にも精通している。自分の趣味を『仕事』という言葉で、多少誤魔化している節はあるが――

「マスターは」

「言ったけど、………今回はさすがに、マスターお呼びじゃないですねえって。そういうのは、がくぽさんと行くべきですよって……」

「…………」

すでに断られた後だったらしい。

いきなりいちばんからメイコに行ったわけではないとわかり、がくぽは微妙な安心を抱いた。同時に、複雑に過ぎる心境に陥る。

先にも言ったが、残るのは三択。マスター、メイコ、がくぽだ。

そのうちの二人が女性で、男性はがくぽのみ。普通なら、がくぽを最後にする理由はない。

普通ならば。

「………そもそもカイト。お主、えっちな本を買って、どうするつもりだったのだ」

「………それ、は………」

問いながら、がくぽはさすがに愚に過ぎると思っていた。

えっちな本を買ってどうするつもりかと言って、ナニをする以外に用途があるのか。まさか押し花を作るための重石にするわけもない。紙飛行機の材料にすると、よく飛ぶという話も聞かない。

がくぽはカイトの恋人だ。カイトはがくぽの恋人だ。

いくらカイトが無邪気で幼気な性格とはいえ、恋人とともにえっちな本を買いに行くのは抵抗が大きいだろう。それこそ、家族の中の女性と並べても、比重があからさまに傾くほどに。

理解しないではないが、そこには大きな問題が隠されている。

がくぽは溺愛するあまりに、カイトとほとんど連日で『いたして』いる仲だ。今さら媒体品に頼る必要もないほどに、搾り取っているはず。

だというのに、カイトはわざわざ媒体品を買いに行くという。

それはつまり、夜の生活にご不満があるということではないのか。

マンネリ化した気はさっぱりないが、がくぽがそう思っていても意味はない。がくぽのマンネリと、カイトのマンネリは当然のことながら、違う。

もうひとつ、懸念がある。カイトはがくぽとそういう仲になるまで、マスターによってわざと、『アダルト』から隔離されていたようなところがある。

それががくぽによって、一気に目覚めさせられた。

――興味が出てきたのかもしれない。『女性』というものに。

危惧されることは、含む意味が大きく重過ぎて、気が狂いそうだ。

俯くカイトとは別に項垂れるがくぽは、こうとはっきり問い質すことも出来ない。廊下の板の節を、無為に数えてしまう。

気まずさからずっと俯いたままのカイトは、がくぽの懸念に気がついた様子もない。もじもじいじいじと、膝の上に置いた両手を擦り合わせ、さらに小さく体を丸めた。

「………がくぽのこと、きもちよく、してあげようと思って………」

「………ん?」

がくぽは慌ててカイトのほうに顔を向けたが、カイトは相変わらずだ。俯いて、膝に弄ぶ手を見ている。しかし短い髪の隙間から覗く耳は、赤く染まっていた。

「だ、だって俺………俺って、いっつも……がくぽに、して、もらうだけ、……でしょ俺、俺ばっかり、気持ちよくしてもらって……でも俺、がくぽになんにも、してあげてない、し………」

どもりどもり小声で吐き出しながら、カイトの耳はどんどん赤く染まっていく。同時に、俯いていた体はさらに小さく硬く、縮こまっていく。

膝に置いて弄んでいた手をぎゅっと握り、カイトは掠れる声を振り絞った。

「……そんなふうに、してもらうばっかりじゃ………がくぽ、疲れちゃうかもだし………あ、飽きられちゃうかもって………おもって」

「カイト」

「だ、だけど、俺っほんとに、ぜんぜんなんにも知らないからっ!」

責めるような響きになったがくぽに、ようやくカイトは顔を上げた。目元から頬からもれなく、顔じゅう真っ赤に染まっている。

ただ、常に揺らぐ青い瞳はかすかに潤んで、本物の湖のようになっていた。

羞恥と不安に揺らぎ、縋るようにも見つめてくるカイトに、がくぽは言葉を忘れて見惚れた。

「そ、それが、ふつーのやり方なのか………ヘンな、やり方なのか、それも、ぜんぜん、わかんないから………えっちな本見て、まずはべんきょーしようと、思って」

「………」

「でもでも、やっぱり俺、えっちな本のことも、よくわからないから………だれかといっしょに行かないと、ちゃんとしたの、買えそうにないし………っ」

ために、家族に同行をお願いした、と。

浮かしかけていた腰を戻し、がくぽは軽く頭を掻いた。

無邪気で幼気なのが、カイトだ。起動年数や、設定年齢に因らない。

そういうところももちろん、なによりも愛おしく、かわいらしい。

だがそれだけではないのも、カイトだ。

「カイト。来い」

「………ん」

強権的絶対の家長に命じられた正座の刑を勝手に放棄して胡坐を掻くと、がくぽはぽんぽんと膝を叩き、カイトを呼んだ。

わずかに首を傾げたカイトだが、結局おとなしく、がくぽの膝に乗る。

いつもとは違って遠慮しいしい寄り添う体を抱きしめ、がくぽは笑った。

バニラが香る。甘くやわらかで、カイトそのものの、人柄をよく表した香りだ。

甘いものは苦手なのに、カイトのこの香りだけは好きだ。ひどく空腹感を覚える。

「カイト」

「ん………」

募る『食欲』の促すまま、がくぽはカイトのくちびるにくちびるを落とした。

咬んでも舐めても至極の味わいなのは、舌もくちびるもだ。いつまでも味わっていたいと思うし、思うだけでなく、つい溺れこむ。

「ぁ………ん、んん………」

「………カイト」

遠慮していた体がほどけて、がくぽの首に腕が回り、しがみついてくる。

愛おしさが募るだけの相手を抱きしめて、つぶやく名は幸福に満ちた。

がくぽは短い髪を梳いてやりながら、滑らせたくちびるでカイトの耳朶を食む。

「ぁ、ん………っ」

「………本当ならな。勉強などせずとも良いと、言いたい。お主はそのままで良いと」

「ん、んん………っ」

耳朶を含まれ、くすぐられながら言葉が吹き込まれている。

弱点を攻められるカイトに届いているかいないかは置いて、がくぽは笑った。

「しかしまあ、………お主が望むなら、やってみよう」

「っぁ、がくぽ?」

ぶるりと一際大きく震えると、カイトは慌てて首を振り、がくぽのくちびるから耳朶を解放させた。

顔を上げると、熱に潤む瞳で懸命にがくぽを見つめる。

微笑んでやって、がくぽはカイトを真摯に見つめ返した。

「『勉強』だ。ほかの誰とやるでなく、俺とやれ。………俺と、やってくれ」

「………がくぽ」

「ことに、こういうこととなれば――俺を選んでくれ。我が儘でも勝手でも、お主に俺以外の『癖』をつけたくない」

「………」

カイトは瞳を瞬かせ、やさしい中に苦みの交じっていくがくぽの笑みを見つめた。

しばし見つめ合ってから、カイトはぽふんとがくぽの肩に凭れる。

「ごまかさないで……………ちゃんと、おしえて、くれる?」

カイトがなにを心配しているかは、わかる。

がくぽは溺愛気味の恋人だ。カイトを傷つけないために、逆に嘘や誑かし、誤魔化しをやることがある。

自分のことを二の次にして、カイトばかりを優先しようともする。

だからこそカイトも今回、マスターに先に『がくぽと』と言われたにも関わらず、選択肢から外したのだ。真剣に、がくぽのためになることを学びたいと願えばこそ。

がくぽはカイトを抱く腕に力をこめ、頷いた。

「ああ。………きちんとわかったうえで、お主がしたいことと、したくないこと、………俺のしたいことと、したくないことを、すり合わせよう。勢いに流されるでなく、互いに互いのために――」

最後は小さく消えたが、カイトの体からは力が抜けて、がくぽに全身を預けてきた。こくりと、頷く。

「じゃ、いい。――えっちな本買いに行くの、がくぽに手伝ってもらう」

「………」

言葉の意味と吐き出される声の幼さのギャップに、がくぽは笑った。あやすように、抱くカイトの体をやわらかく叩く。

「決着したみたいね」

ふいに降って来た声に、がくぽは顔を上げた。カイトもがくぽの肩口に甘えたまま、視線だけ投げる。

「………ああ。迷惑をかけた」

代表して答えたがくぽに、リビングの扉口に立ったメイコは肩を竦めた。鼻を鳴らすと、追い払うように手を振る。

「きちんと反省したんだから、もういいわ。さっさとどっかにしけこみなさい。そこでこれ以上いちゃいちゃするんなら、今度こそ、石抱きの刑にしてやるわよ」

言い置くと、二人からの応えも待たずにリビングに引っ込む。

「………ぷっ」

「………っふ」

閉じた扉をしばし眺めてから顔を見合わせて、がくぽとカイトは揃って吹き出した。

「だ、そうだが………どうするすぐに買いに行きたいか?」

悪戯っぽく落とされたがくぽの問いに、満面の笑みとなったカイトはきゅうっと抱きつく。

「ぅうん、今度のお休みでいい。いいから、………ね?」

「ああ」

ちゅっと音を立てて顎を食まれて、がくぽはカイトの後頭部を掴み、やわらかに引き離した。

明るく笑うくちびるに、くちびるを寄せる。

「それでは今日は、……『しけこむ』ことに、するか」