おつかれーたー・れーだー

ぱたた、とリビングに駆けこんで来たカイトは、そのままの勢いで庭へと通じる掃き出し窓を開け、外に出て行った。

続いてがしゃがしゃがっしゃんと、金属がぶつかり合う騒々しい音が響き――

「おにぃちゃん?」

「にぃちゃん?」

両手いっぱいに洗濯物を抱えたカイトが窓辺に戻って来たところで、ゲーム中のテレビ画面から目を離さないまま、リンとレンが戸惑う声を上げる。

対して、『春の陽だまりのようにおっとりほわわんとした』と、普段評される彼らの兄からのお答えは、

「あとでたたむから、放っておいて!」

――ぼいっと、床に洗濯物を投げるついでの気忙しい早口。

そして声だけがリビングに残って、双子が顔を向けるより先に、カイトは庭へと取って返している。

再び響く、いつになく乱暴ながしゃがしゃがしゃと、金属がぶつかり合う騒々しい音。

「………」

「………」

リンとレンは戸惑う顔を見合わせると、まったく同じタイミングで眉をひそめ、同時に庭へと視線を回した。

庭いっぱいに干した洗濯物を、カイトが忙しない動きで取りこんでいる。

金属音は、物干し竿と物干し台がぶつかる音だ。いつものカイトなら、ゆったりとした動きで一枚いちまい丁寧に取るため、こんな雑な音は立たない。

補記しておくと、天気が急変したわけではない。お天気雨すらもなく、空はすっきり明朗、快晴だ。午後も過ぎたが、未だ空気が湿気るほどの時間帯でもなく、つまりはそこまで慌てて洗濯物を取りこむ理由などない。

ましてや、おっとりほややんとしたカイトがいつになく気忙しく、乱雑に――

だからといって、なにかで腹を立てたとかで、むしゃくしゃした気分から乱雑な動きになっているというふうでもない。

ただ、忙しそうだ。ひどく気忙しい。

うちのおにぃちゃんは今日、なにをそんなにもたくさん、抱えているんだっけ?――

リンは戸惑うまま、隣に座る相方をちらりと見る。同じ顔とタイミングでちらりと視線を寄越した相手と目が合って、リンは大袈裟なしぐさで肩を落とした。

「レンって使えない……」

「ひとのこと言えた義理かよ、今?!」

割に合わない評価だと、レンが中腰の戦闘態勢を取ったところで、洗濯物をすべて取りこみ終えたカイトがリビングに飛びこんで来た。そしてやはり飛ぶように、衝突寸前の双子のそばに来る。

だからといって、ケンカ(予定)の仲裁に来たわけではなかった。

カイトは一触即発の空気もまったく読まず、双子の弟妹の頭を軽くぽんぽんと、叩くように撫でる。

「おやつあるよリンちゃんもレンくんもゲームにケリつけて、台所においで早くしないと、溶けるからね!」

「えっ、アイスなの?!」

ぱっと、リンが驚愕の表情を向けたときにはもう、なんだかとても忙しいおにぃちゃんは背中だ。双子の答えも待たず、すでにリビングから飛び出しかけている。

それでもどうにかリンの問いは聞き取ったらしく、カイトは急ブレーキ的に立ち止まった。至極不可解そうな表情で末の妹を振り返ると、首を傾げて戸惑う声を上げる。

「ううんマドレーヌだよ?」

「えええ?!」

「ちょ、にぃちゃんっ?!」

マドレーヌは焼き菓子だ。生菓子ではない。焼き菓子だ。

常温下の保存で、生地が乾いてぱさつくことはあっても、溶けることはない。氷温下であれ高温下であれ、同じだ。それなのにどうして、『早く来ないと溶ける』というひと言が加わるのだろう。

これはもはや、自分たちが思う以上におにぃちゃんは『忙しい』のかもしれない。

となると、おやつに用意したというマドレーヌも、マドレーヌではない、なにか奇態なものである可能性が――

慄然とする双子に構わず、なんだかとても忙しいおにぃちゃんは、今度こそリビングから飛び出――そうとして、入って来た相手とぶつかりかけ、再び急ブレーキ的に止まった。

が、今度は相手がある。カイトは衝突を避けようとしてバランスを崩し、足を滑らせた。

「ふぁっ……っ!」

「ああ、カイト」

転がりかけたカイトの腰に、さっと手を回して支えたのは『衝突』寸前の相手、がくぽだ。いつもながら反射神経に優れ、さらに言うなら膂力とバランス感覚も備えた、頼りがいのある相手だ。

「あ、がくぽっごめんねっありがとうっ!」

「いや、」

支えられたカイトはあわあわと己の不注意を詫び、礼を言い――

「あっ、そうだがくぽ、がくぽの分も、おやつ用意してあるよって言っても、おせんべ、袋から出しただけなんだけど……あっ、あっ、でも、あの、お茶はちゃんと、俺が淹れたからっティーバッグじゃなくて…」

――責められてもいないのに、手抜きおやつではないとの言い訳をまくし立て始めた。

目を丸くしてそんなカイトを見たがくぽだが、その目はすぐに、訝しく眇められた。さっと素早く、カイトの全体を眺める。眇められた瞳が一瞬、きゅっと険しさを宿した。

ほんの一瞬だ。気がつくこともなく、カイトはがくぽから離れるべく、わたわたと胸を押した。

「と、とりあえず、台所ね早くしないと、ミクと取り合いに……」

「ミク殿は仕事で不在だ」

「え?」

ぼそりと落とされた言葉に、カイトは動きを止め、きょとりとした顔を上げた。

そもそもミクとても年頃少女で、おやつと言うなら渋ったい煎餅より、弟妹と同じく焼き立てさくさく中しっとりなマドレーヌをこそ好む。

ゆえにがくぽとは、おやつの取り合いになるはずがないという問題もあるのだが、さておき。

きょとりと顔を上げたカイトの腰を抱いたまま、がくぽはとても真面目な顔で頷き返した。

ひと言、きっぱり、告げる。

「疲れた」

「え」

「疲れた」

「え……っ」

――素晴らしく明瞭な発音であり、テンポも申し分なく、聞き間違えようもないひと言だった。

しかも一度ならず、二度くり返された。大事なことなので、二度もくり返すのだ。つまりこれは、そう、いわば――

『お疲れがくぽ様』、ご降臨だ。

が。

なぜこのタイミングで、今、と、カイトは咄嗟に応じきれず、石と化して固まっていた。

滅多なことでは弱音を吐かないがくぽだ。『疲れた』というひと言も、倒れる寸前の危機的状況にまで陥って、ようやく吐き出す。

すべての機能を最低限にまで落としこまなければ動けない状態で、やっと出る警告――

が。

だから、なぜ今の、このタイミングなのか――前触れもなく、脈絡がないにもほどがある。

と、カイトは常になくわりと、まともなことを考えていた。『お疲れがくぽ様』を前にして、悠長なことである。

「カイト。疲れた」

「ぁ、はい……」

二度ならず、念押しにして正当を確する三度目を通告され、カイトにはもはや、疑問の余地もなかった。抵抗も、反抗もだ。

こうなったがくぽに、ひとの都合などない。理屈も無駄だ。そもそも、正論が無為と化すのだから。

経験から来る諦めに、くたっと力を抜いて寄り添ったカイトの腰を抱き、がくぽは三人掛けソファに向かった。

「えがっくがく、」

「リン、レンっ!」

「ぅえっ?!おれもっ?!」

鞭が撓るような声で呼ばれ、きょとんとしていたレンがびしりと背筋を伸ばした。リンは変わらない。胡散臭そうに眉をひそめ、『鬼軍曹』化している下の兄を見返す。

構わず、がくぽは軽く手を振った。しぐさを言葉に直すなら、『あっち行け』だ。

しぐさだけでなく、がくぽは口に出しても傲然と命じた。

「とっとと台所に行け。溶けるぞ」

「いやだからマドレーヌま、マドレーヌ?!」

だよな――と、レンは救いを求めて双子の姉妹を振り仰いだ。

リンといえば、レンに視線をやることはない。胡乱さを隠しもせずに下の兄を観察し、ややしてふんと鼻を鳴らすと、立ち上がった。

「そーね、とけちゃうものね、マドレーヌいこっ、レン!」

「とけ……っ、まど……………」

世間は広い。恐らく、常温下で放置すると溶けてしまうマドレーヌも存在するのだろう。

リンに引きずられてリビングの扉を潜るころには、レンの顔にはそういった諦念がありありと読み取れた。

憐れな末弟であるが、彼の憐れさの由縁については、実のところ多少の議論の余地がある。

とはいえそこについて語る気は、この家のだれにもなかった。とりあえず、今のところ。

リビングから出たものの、リンは一度、ひょこんと首だけ戻した。

「おやすみなさい、おにぃちゃん」

「あ、えっと……」

先とは違って、やわらかな笑みと声音だ。ひどく大人びても見える。

なんとも答え難いと、曖昧な笑みを浮かべるおにぃちゃんに愛らしく手を振り、末の妹は今度こそ出て行った。

「がくぽ……あの」

「座れ。抱け」

「ぁうぅ………」

『邪魔者』を追いだしたがくぽは、カイトにも非常に端的に命じた。カイトを膝に抱えてソファに座り、がっちりと囲いこむさまは、決して逃がさじという気迫に満ち満ちているのだが、言葉はあまりにも素っ気ない。

いつものことだ。

『お疲れモード』のがくぽは、感情の表出すら動力を食い過ぎるとして、停止してしまう。結果として、命も同じく愛するひとを決して離さないという、生存本能にわりと直結した独占行動は懸命にやるのだが、肝心の相手への言葉遣いがいただけない。

が、馴れたもので、カイトはがくぽのつれない言葉を勝手に深読みし、傷つくことはなかった。

傷つくことはないが、あまりに力加減なく抱かれるし、動きが乱雑なので、少しばかり――

「……?」

ふと違和感を覚え、カイトは戸惑いながらがくぽを見下ろした。

カイトを膝に抱えたがくぽは、カイトの胸のあたりに頭を凭せ掛け、くつろごうとしている。

カイトの戸惑いを言葉に直すなら、『そこか?』だ。

いつもなら、疲れたがくぽはカイトの首か、首がだめなら耳か。いや、それ以上に、もっと乱暴で――

「カイト。手」

「はぁい……」

疑問を薙ぐように、がくぽの命令が飛ぶ。はやく抱きしめてと言っているのだ。こう訳すと、かわいらしい気もしないでもない。おそらくこの態度を正確に訳すなら、ぼやぼやせずにとっとと抱けと。しかしてカイトからすれば実際、がくぽは愛らしいの極みであり――

「んー……」

思考を遊ばせながら、カイトはとりあえずがくぽの体に腕を回した。ふわりと立ち上った恋人の香りを嗅ぎながら、ぎゅっと抱きしめる。

いっぱい甘えてあまえて甘ったれて、疲れが癒されるようにと、祈りをこめながら。

縋る体に、必ず受け止めて受け入れてもらえるのだという、絶対の安心とともに――

「ん、あれ?」

唐突に瞼が重くなり、体が怠くなって、カイトは力を失い、ずるりと沈みこんだ。体のすべてがぎしぎしと軋み、思考すらも鈍く、回らなくなっている気がする。

「あれ……」

どういうことだという戸惑いも、ひどく遠い。ただひたすらに、瞼が重く、体が怠く、思考が鈍く――

ネジの切れた人形のごとくに沈んでいく体を、がくぽが丁寧に抱き直し、支えてくれるのを感じた。

それはひどく遠く、とおく、あまりにも遠く実感がなく、けれど確かな、絶対の安心とともに。

「あ……」

「寝ろ。抱いていてやるゆえに。お主が起きるまで、ずっと」

「ぁ………」

溺れもがくようなカイトの耳朶に、がくぽがそっと、最後のひと押しを吹きこむ。その声もまた、ひどく遠く、現実感を失って響いたが、同時に、笑みを含んでいるようにカイトには聞こえた。

ああ、そうか、と。

カイトはようやく、気がついた。

――疲れてたのは、おれだ。

そう。疲れていたのは、がくぽではない。カイトだ。

少々立て続いた忙しさに、つい感覚が突き抜け、逆に『疲れた』と感じられなくなってしまっていた。感じないから休むこともなく動き続け、けれど積み重なる『疲れ』に、少しずつ『カイト』が軋み、歪み――

――うん。そうだった。おれ、つかれてた……

うすらぼんやりと蕩けていく思考の中、ぽこりと生まれて水面に向かう泡のように考え、カイトは沈む体を懸命に引きずり起こした。

「カイト」

「がくぽ……」

もがくカイトを、いいから大人に寝ろと、がくぽは咎めるように呼ぶ。

無愛想さも怒りも焦りも、心配だからだ。カイトのことを案じるあまりに。

言いたいことがあった。伝えたいことが。

そうまで想ってくれるひとに、大切にしてくれるひとに。

問題は、あまりにも疲れて鈍くなったカイトの思考では、きちんとした文章どころか、言葉ひとつにすら直せないということだ。

言いたいことと伝えたいことだけがもやもやとわだかまり募り、疲労とともにさらに思考の靄を濃くしていく――

手を伸ばしてがくぽの頬に添え、軽く己に寄せると、カイトはくちびるを重ね合わせた。ちゅくりと吸いつき、とろりとひと舐めして、離れる。

「だいすき」

つぶやく言葉は、言いたいこととも伝えたいこととも、なんだか微妙に違う。気がする。

けれど、力を失って崩れていく体をしっかりと抱いてくれるひとが、この世界の絶対の安心をカイトにくれる恋人が、笑う気配がするから。やさしくやさしく、さらに強く、抱きしめて――

「ああ。俺もだ――愛している、カイト」

返されたささやきと、額に落とされた熱の感触に、カイトは全身をがくぽに預け、寝に入った。