「カイトメイコだ!」

「んんっ!」

後ろからかかったがくぽの声に、カイトはその場でぴたりと止まった。ぴたりと立ち止まってくるりと首を巡らせ、確かめる――

実はこれすべて、ひどく奇跡的なことなのだと他所様に言ったところで、どれほど通じるものか。

しみじみと感じ入りつつ、がくぽは立ち止まって待つカイトのもとへ鷹揚な足取りで歩いて行った。

休日恒例の、散歩中だ。ご近所さんを小一時間ほどで、一周してくるだけ――

のつもりで、そうできたことが一度もないというところまで含めて恒例の、散歩中だ。

今日も今日とてすでに二時間を歩きに費やし、がくぽは残り時間との兼ね合いから、そろそろ帰り道を探そうと考え始めていた。

念のためくり返すが、がくぽは『帰ろうと考えている』のではない。

考えているのは、まず現在地はいったいどこで、ここからどうやったら家に帰れるのかという、『帰り道』だ。

ロイドとはいえひとの歩く速度で歩いているというのに、カイトの好きにさせておくと、どうしてか毎回まいかい、気がついたときにはどこだか知れない道にいる――

これもまた含めて、恒例と言うのだが。

ちなみにそうやって迷いこませた張本人たるカイトに、では帰り道はどちらだと訊くと、ものすごい勢いで泣きべそを掻く。そしておろったおろったした挙句、さらに家から遠ざかるほうへと迷い行く。

本人は早く帰らなければと思っているからパニックに陥り、さらにさらに家から遠ざかっていく――

カイトさんの帰巣本能はシベリアンハスキー並みなんですよねと、マスターは言う。

問題はなにも解決していないものの喩えだが、それでなんだかがくぽは諦められた。そうかシベリアンハスキーなのか、それはもう、どうしようもないなあと。

それはともかくだ。

「んー、がくぽっ!」

「ああ」

急ぐでもなく歩いて来たがくぽの腕に、カイトが組みつく。やはり鷹揚に受け止めてやって、がくぽは空いているほうの手で、カイトの頭をさらりと撫でた。

「きちんと止まれたな」

褒めると、カイトは腕に組みついたままぷくぅと頬を膨らませ、がくぽを見上げた。

「だって『めーちゃん』だもん、怒るもん」

「そうだな」

拗ねているようだが、湖面の瞳の奥にはわずかながらも揺らぎがある。怯えだ。メイコは誰より慕って信頼する同志でもあるが、怒られることは相応にこわいカイトだ。

そう、『メイコに怒られることはこわい』と思ってくれる。たとえばシベリアンハスキーであっても、『ボス』に怒られるのはこわいと思うように。

つまり、カイトの帰巣本能の在り処については諦めがつけられたがくぽだが、どうしても諦められない問題があった。

どうしても諦められないのがどうしてかといえば、カイトの命にも直結する問題だからだ。

信号機である。

散歩中はほとんど常になにかに気を取られているカイトは、頻繁に信号を見落とす。

だけでなく、がくぽが『赤信号だ』と叫んでも、その意味を理解しない。『赤信号だから止まれ』とまで叫んでも、どうして『赤信号』だと『止まらないといけない』のかが、咄嗟にわからない。

いや、本来的にカイトだとて、信号機の意味と役割の基幹は理解している。きちんと説明もできる。

が、散歩中でなにかに気を取られていると、忘れる。きれいさっぱり、消えてなくなる。そして飛び出す――

いずれ大事故になりかねないと、頻繁に心胆寒からしめられるがくぽが知恵を絞ること、幾星霜。

とうとう、どんなに理性が飛んでいるカイトであっても信号を認識できる方法を発見した。

それが『メイコ』だ。

より正確にいえば、姉妹だ。

信号機の赤・黄・緑(青)を、姉妹各自のイメージカラーに当てはめ、置き換えたのだ。メイコは赤で、ミクが緑(青)、そしてリンが黄色というふうに。

それで、ひとつひとつ根気よく、カイトに説いていった。つまり、こんなふうにだ。

――良いか、カイト……メイコを無視して道路を渡ったら、メイコはどうすると思う?

――カイト、メイコミクなら、強いのはどちらだ?

――カイト、ミクよりリンのほうが幼いのだから、気をつけて見てやらねばならんよな?

等々、等々――…

さすがのカイトも、姉妹の名前であれば聞き分けられた。

だからどうしなければならないのかという行動の選択にも、すぐに結びつけられた。どんなにか気になるものがあって、理性がお留守なときでもだ。

初めは『カイト、メイコだ、止まれ!』まで言っていたがくぽだが、最近は姉妹の名を叫ぶだけで良くなった。姉妹の名というか、ピンポイントでメイコ(赤信号)だが。

それに、なにも叫ばなくていいことも増えてきた。カイトの思考に信号機=姉妹が刷りこまれ、学習が深まった結果だ。以前よりはずいぶん、信号機を自分で認識できるようになってきたのだ。

ために、がくぽが気がついて叫ぶより先に自分で信号機を認め、『あ、リンちゃんだ。止まっておこ…』とか、『ミク(※車道側信号機)とめーちゃん(※歩行者信号)なら、めーちゃんのがつよいから…』といったふうに、行動を選択するようにもなった。

他所様は知らない。他所様のことなど、知ったことではない。よそはよそ、うちはうちだ。

とにかくがくぽにとってこれはもう、奇跡だった。姉妹を愛おしむおにぃちゃんであるカイトに起こった、奇跡である。

ところでこれにはちょっとした、副産物とでも言うべきものもついてきたのだが。

「がーくーぽっ、がくぽっ……」

がくぽの腕に組みついたカイトは、まだ足らないとばかり、しがみつく腕にぎゅうぎゅうと力をこめる。肩口にすりすりと額や頬を擦りつけ、公道であることも構わない甘えぶりだ。

そう、公道でさえなければ思いきり堪能したいほどの、愛らしい媚態だ。

がくぽの腹がどうしようもなく疼くとともに、やましさに重くなる。

やましいのは、恋人の媚態に疼くことではない――

結局、姉妹に置き換えることで信号を守れるようになったカイトだが、赤信号=メイコだ。『赤信号を無視したら=メイコに怒られる』という図式で、がくぽは教えた。

よく呑みこんだカイトだが、少し呑みこみ過ぎた。それで毎回、めーちゃんにおこられたらどうしようと、少しばかり怯える。

がくぽに甘えるのは、怯えの裏返しだ。ちゃんと信号守ったでしょう、これでめーちゃんはおこらないよねと、保証を求めているのだ。

こんなことがばれたとき、メイコに怒られるのはむしろ、がくぽだ。あたしに無断であたしでナニしてんのあんたはと、干乾びるほど絞られることだろう。

あまりにもこわいので、がくぽはばれたときのことはいっさい考えない。今日も、今も、またカイトの命が守られたと、そのことだけに注目することにしている。

が、とにかくカイトだ。

しばらく、あまえんぼうになる。かわいい。探すものが家路ではなく、ラブホテルになる。しかしそうそう都合よく建っているラブホテルなどなく、それ以前にそんな時間はない――

そういうわけで。

「なあ、カイト………そろそろ、帰らんか」

「んーーーっ……」

促したがくぽに、カイトはむずかる声を返した。まだまだ散歩をしたいと、声だけでなく態度でも示す。

示されて、がくぽは軽く、天を仰いだ。

遠い。なにもかもがだ。そして唯一近いのが、カイトだ。恋人だ――

ぎゅうぎゅうしがみついたまま、カイトは落ち着かず、擦りつく。

きつく組みつかれたがくぽの腕はほとんど自由にならないが、なんというか、手先だ。

手先的な指先は若干、自由で、こう、動きによっては微妙にカイトの微妙なところに掠るというか掠らないというか、掠らせたいので掠らせるというか。

「ならばカイト、ホテルのほうを探すか」

欲望のままに振る舞いたい指先を抑えることに注力したなら、口のほうが滑った。

さすがにカイトが、きょとんとした顔を上げる

「ホテルおとまりなんでえ、ここってそんなに遠いの?!」

言いながら焦りが募ったらしい。あたふたと、周囲を見回す。

遠いといえば遠いし、近いといえば近い。どのみち徒歩圏内だ。たかが知れている。といいと思う――

カイトの返しのほとんどが勘違いだが、一部、勘違いだと言いきれないものも含む。

なにしろがくぽも未だ、現在地を掴みきれていない。出発地が家でホームで、そこからああ行ってこう行ってそう行ったわけだから………そのわりにどうしてあそこがああで、ここがこうでそうなるのか。

「がくぽ…っ」

「うむ」

少しばかり泣きが入り始めたカイトは、腕にしがみつくというより、縋りつくようだ。それもまた、かわいい。

そもそもカイトの振る舞いでかわいくないと思うことがあるのかと訊かれると、『格好いいときは格好いい』と答えるがくぽだが、とにかくだ。今はかわいい。

かわいいが、思う存分堪能するに、場所がまったく適していない。

しかしてでは、ホテルと家とどちらのほうが近いのかといえば、きっと家だろうとは思うが、確証もない――

「まあ、とにかくだな、カイト……信号も変わった。ので、歩こう。立ち止まっていてもどこにも辿りつかんが、歩けばいずれ、なにかには当たろうから」

「んっ……ぅんっ!」

こと帰り道に関して、がくぽに任せておけば間違いがないと信じきっているカイトだ。ぱっと表情を輝かせると、足を踏み出しかけ、止まった。

信号を見る。緑、もとい青、もとい『ミク』だ。

「ごーぅえすと!」

掛け声とともにカイトはがくぽから離れ、元気よく信号を渡った。ちなみに現在地は不明だが、諸々から判断するにそちらは南方だ。

走る背を鷹揚に歩いて追いつつ、がくぽは小さく、首を振った。

「当たるも八卦、当たらぬも八卦というしな……ナニに当たるかも定かでないが、とにかく進んでさえおれば、いずれ棒か玉か、なにかには当たろうさ…」