シンクにうず高く積まれた洗いもの。

本日の洗いもの当番はカイト。

――ぜひにも手伝いたい、そういう日に限って、これだ。

め・・へぷ・

「すまん、カイト…」

「いいから、だいじょーぶ、がくぽっお仕事、がんばってっ」

家族それぞれの仕事が立てこみ、昨夜から溜めこんだ結果の洗いものの山だ。

『家族』の数が多いこの家では、一回分の溜めこみでもう、洒落にならない。

当番制で家事を回している以上、それは全員が理解しているから普段は死ぬ気で片づけるし、当番が仕事でできないなら、誰かが代わって片づける。

が、いわゆる『繁忙期』にはどうしても、週に一度くらいはこういった、どうにも手のつかないことが起こる。

そういう、弟妹であればまずぶうぶうとブーイングに労力を費やす状態のシンクを前に、カイトが時を無駄にすることはなかった。迷うことなくエプロンを掛けるときゅきゅっと背中で紐を結び、ぐいぐいと腕まくりをしてスポンジを手に取る。

洗いもの用のスポンジに洗剤を垂らしたカイトは、もぎゅもぎゅと揉んで泡を出しつつ、晴れない顔つきのがくぽをにっこりと振り返った。

「ほらがくぽっ時間じかんっ!」

そしてそう、がくぽの現状である。『そういう日に限って』な、『これ』だ。

今日は朝から仕事が詰まっており、実のところほんとうに時間が差し迫っていた。すぐにも用意して家を出なければいけないし、こんなところでおろおろしている場合ではまったくない。

が、こんな状態のシンクをカイトひとりに投げていくというのがあまりにこころ苦しく、『それでも』なにかできることがあるのではないかとおろおろ探してしまい、踏ん切りがつかない。

くり返して言うが、しかしだ。

時間がない。

差し迫る時間は無為とおろおろしている間にも刻々と過ぎていき、さらに差し迫る。もはや皿の一枚を洗う程度が、手伝えるせいぜいだろう。

そしてここでカイトからスポンジを奪って皿の一枚を洗ったところで、それはほんとうに『手伝い』と言えるのかという。

むしろカイトの作業の流れを分断する行いであり、それくらいならさっさと踏ん切りをつけてこの場を立ち去ったほうがよほどに『手伝い』となるだろう。

わかっているが、わかっていて動けないから、がくぽは自分にうんざりする。

ほかのきょうだいのように割りきりがいいのも過ぎてどうかと思うが、ならば自分はどうかという話だ。結局のところ煮えきらず、ここに残った自分がもっともカイトの邪魔となっている――

『カイトの邪魔』だ。

「…っ」

浮かぶ言葉に、がくぽは咄嗟に腹を押さえた。じくりと、疼くものがある。いい意味ではない。冷たく凍えて、凝るような――

「………がくぽ、あのさ?」

ふと、カイトがスポンジと食器を持ったまま動きを止め、がくぽを振り返った。

その顔に浮かぶ感情を確かめることができず、がくぽは咄嗟に目を逸らす。

――なんて子供っぽい、稚気じみた。

自分が取った振る舞いに、瞬間的に沸騰したような腹をさらに強く押さえ、がくぽはくちびるを引き結んだ。

これをいい機会だと考える。

気になって目を離せなかったカイトから、ようやく目を離せたのだ。あとは足を踏み出し、扉に手をかけ――

と考えたところで、扉が自動で開いた。

違う。末の弟妹がひと足早く開けたのだ。

「おにぃちゃあんっ、おやつに持ってけるマシマロどこだっけ?!」

「あとあとにぃちゃんチョコチョコもっ!」

「ぅんん~~~っ?!」

半ば扉を破るように開いて飛びこんで来た双子、リンとレンはまくし立てるように喚きながらダイニングの棚に取りつく。

あまり早口だと、処理が追いつかないのがカイト――KAITOシリーズだ。案の定で困ったような声を上げたカイトは、スポンジと食器をシンクに置いた。つまり作業を完全に止めてしまったわけだ。

山のようにある洗いものにようやく手をつけ始めたばかりであり、終わる目途すら立っていないというのに、だ。

そもそも自分が先に作業を中断させたのだが、重なる負い目というのは逆上を呼ぶものだ。

それはロイドとて同様で、がくぽは八つ当たりとわかっていて煮えたぎる腹を抑えられなかった。

出て行こうと外に、室外へ返しかけた踵を再び返す。うちに、室内に――

紅を塗らずとも朱いくちびるが、戦慄き引きつりながら開く。

――が、その口から怒声が迸るより先に、カイトが動いた。

「リンちゃん、レンくんも、ちょっと」

濡れた手をタオルで拭きながらのんびりとした声を上げたカイトは、ほてほてと、いつもと変わらない歩調でシンクから離れた。

「おにぃちゃん、マシマローーーっ!」

「にぃちゃん、俺のチョコーーーっ!」

カイトは急ぐ様子もなくほてほてと歩き、聞く耳を持たずに喚く双子の傍らに行く。タオルを適当なところへ投げると、気配に応じて反射のように見上げたリンとレンの頭を、ぽふぽふとあやし叩いた。

小さく、首を傾げる。

「おにぃちゃん、必要?」

――言ったのは、訊いたのはそれだけで、意想外に思考の間隙を突かれたリンとレンは長兄の揺らぐ湖面の瞳を唖然と見返した。

きょとんぽかんとして見返し、ゆっくりと首が転じて、互いの顔を見合う。

そうやってふたりがきょとんぽかんとして応えないうちに、しかしカイトはこくんと頷いた。

「よし、落ち着いた。じゃ、できるね、ふたりとも。でもおにぃちゃん、すぐそこにいるから。なにかあったら呼んでね」

いつもの、春の陽だまりのような口調で言い含めると、もう一度ぽふぽふとふたりの頭をあやし叩く。それでやはり応えを待たず、カイトは投げたタオルを拾って踵を返した。

ほてほてと歩いてシンクに戻り――いや、戻ろうとして、途中でわずかに方向を変えた。

やはり、思考の間隙を突かれてきょとんと眺めていたがくぽの前に来る。花色の瞳をじっと覗きこんだカイトは、小さく首を傾げた。

「おにぃちゃん、必要?」

それで訊いたのが、末の弟妹に訊いたのと同じことだった。それも、まったく同じふうに。末の弟妹を相手にするのと、次兄であるがくぽとを、まるで同列に。

それもそのはずで、カイトは長兄だ。『長』なのだ。

――そうだった、カイトは『おにぃちゃん』であったなと。

慌ただしさに紛れ、うっかり迂闊にも失念したことに思い至り、がくぽは花色の瞳を驚愕に見張った。

そう、カイトは『おにぃちゃん』だった。がくぽが逐一に助け手を伸ばしてやらなければいけない弟妹ではなく、そうしてやらなかったことを恨みに覚えてあとを引く年若のきょうだいではなく、がくぽのことすら慈しみ愛おしむ、根っからの。

「おにぃちゃん、マシマロあったーっこれでお仕事がんばれるよっ、ありがとーっ!」

「チョコもあったぜにぃちゃんっあ、あと、テーブルの上のはにぃちゃん分だからっ終わったら食べてっ!」

衝撃に固まってつい、見合ってしまったがくぽとカイトの傍らを、相変わらず慌ただしい双子が器用にすり抜けて行く。

相変わらず慌ただしいが、飛びこんできたときの妙な殺気は消えた。『いそがしい』を楽しめる余裕が戻ってきたと言おうか、『自分たちはできる』という自信を取り戻したと言おうか。

すり抜けざまの言い置きも、早口ではあってもKAITOにも――カイトにもきちんとわかる程度の『早口』だった。

「はいはーいっありがとっ、おいしくいただくねーっしっかり楽しんでおいでーーっ」

固まってしまったがくぽのことは一度置き、双子を追って扉から首だけ出したカイトが、手を振りながら叫ぶ。

――自分があそこで先にリンとレンとを怒鳴りつけていたなら、どうなっていただろうかと。

その背を眺めつつ、がくぽは思い巡らせた。いや、巡らせるまでもない。慌ただしさに波立ち、余裕を失っていた末っ子はさらに逆上し、言うことを聞くどころか反発して、次兄とひどくろくでもない喧嘩を起こしていたことだろう。

だからがくぽもリンもレンも、ともに時間がないというのにだ。

そうなればどのみち『すぐそこ』にいるカイトが仲裁に手を止めることとなるし、それでやらなければならないのは『喧嘩』の仲裁だ。

なにあれ、ろくでもないのが喧嘩と相場は決まっているが、それにしてもろくでもないにもほどがある理由の。

今よりよほどに手を焼いただろうし、もしくはカイトもまた、仕事前に余計な悶着を起こす弟妹三人を叱りつけなければならない羽目に陥っていたかもしれない。

誰の胸にもわだかまりが残り、あるいは今日の、これからの仕事にすら支障を来す――

咄嗟に選んだ行動の差だ。その行動の差で生じる、結果の差だ。その、進行するごとに乖離していく幅だ。距離だ。

「で、がくぽおにぃちゃん、必要?」

簡易的な見送りが済んで扉から顔を戻したカイトの言いは、だから、先と同じだった。末の弟妹に接するのと、なんら変わらない調子で、様子の。

それも致し方ない――なぜなら自分は『子供』で、あまりに稚気じみているのだからと。

先と同じかより以上に深刻化した感想が過りながら、どうしてか、がくぽの表情は緩んだ。堪えようとしても堪えきれず、笑みに崩れて戻らない。

緩んでいっさいの締まりをなくしたくちびるが、抑えきれない幸福を吐きこぼした。

「やはり俺は、カイトが好きだなあ」

「ほ、ぇ?」

今度、意想外に当たったのはカイトだったらしい。咄嗟に理解が及ばないという、きょとんとした顔でがくぽを見返す。

不思議そうに瞬く湖面の瞳へ、がくぽは小首を傾げてみせた。

「『おにぃちゃん』には、特に用はない。カイトには、ある。ひとつだけ」

「ん?」

その言い換えの意味にカイトが気づくと同時か、もしくは少し早く。

がくぽはカイトの顎に軽く手を掛け、くちびるを寄せた。

「キスをひとつ」

くれまいかと、強請りながら答えを待たず、カイトのくちびるを掠めて離れる。

「愛している、カイト」

離れきる間際にささやき、がくぽはカイトの顎をさらりと撫で、離れた。踵を返すと、手を振る。

「ではな、行って来る、カイト――後は頼んだ」

この埋め合わせはするとか、手を止めさせて悪かったとか――

言いたいこと、言うべきことはいくつもあって、けれどがくぽはそれだけを告げた。

それだけを告げるに止め、今度こそ廊下に出て、迷いなく足を進める。

その背を、おそらく先と同じに顔だけ出したのだろうカイトの声が追ってきた。

「うんっ、がくぽっどーーーんと、頼まれますっから、まーーーかせてっお仕事、しっかりねーーーっ!」

明るく弾む声と、その言葉と。

がくぽは軽く振り返ると、やはり首だけ出していたカイトへ片手を上げた。

「応、任せろ。そちらも任せた」

「ふっひゃっ!」

カイトもまた片手を上げると、こちらはむんっと、力こぶでもつくるように肘を折り曲げて力んでみせる。そう、『任せろ』だ。頼もしい『おにぃちゃん』に、頼りがいのある――

首を戻しながらも目の端に『応え』を捉え、がくぽは緩みきって締まりを思い出せない顔を片手で覆った。

「ああ、まったく――俺はやはり、カイトが好きだぞ。うむ、好きだ。好きだな。好きにしかならん。どうしたものだ。どうしてくれようか」

苦しいほどに募るものを溢れこぼしながら、がくぽは覆っていた手を離し、ぱんと、気合いを入れるように頬を張った。

さてもさて、幸福であるとはいえ、これはこれで困ったものだった。

仕事が始まる前にはこのやに崩れたのをどうにかしなければ――さすがに周囲が引くこと請け合いだ。