キッチンに足を踏み入れる。自然な流れで、家族全員が座れる大きなダイニングテーブルが目に入り、がくぽはぎょっと立ち竦んだ。

melt kiss

「あ。がくぽ~♪」

呑気な笑顔で、定位置に座った「長男」が手を振る。口には行儀悪くスプーンを咥えていて、そのために言葉が若干不明瞭だ。

「…っ」

ツッコミどころが多過ぎて、なにから口を出せばいいかわからない。

くら、と視界が眩み、がくぽは顔を覆って目を閉じた。

「おなか空いたの?」

おっとりぽややんと訊くカイトは、おそらく真剣なのだろう。

マスターに引き取られてこの家に来て数日、観察した結果、彼は常になんでも真剣に取り組むことがわかった。ボーカロイドたちの中で、もっともまじめなのがカイトだ。

どこまでもそこまでも基準点がずれているのだが。

「…カイト殿」

「ん?」

はむはむとアイスを食べながら、カイトは小動物よろしく無邪気に首を傾げた。いつもぽやぽやんと緩んだ顔をしているが、今は特にゆるゆるだ。

「ふあ。終わっちゃったー。もういっこ♪」

「…っ」

それは正気か?!

空のアイスカップを放り出して立ち上がったカイトに、がくぽは激しく眩暈を感じた。

大家族用の、大きなダイニングテーブル。

を。

埋め尽くす、空のアイスカップ。

今日、ミクやリン、レンといった年少組は朝から仕事に出かけて留守だ。メイコは家にいるが、彼女はアイスを食べない。

そして自分も食べないから。

この山と積まれたアイスは、すべてこのぽややんさんがひとりで食べたもの。

しかも、お昼ご飯を食べる前にはアイスカップはひとつも出ていなかったから、昼食後から今まで、わずか数時間のうちに空けられたと。

「…ん。そろそろ在庫きびしーなあ」

「…」

冷蔵庫とは別に、独立してひとつある冷凍庫を開けたカイトの後ろから中を覗きこんで、がくぽは目を疑った。

数日前、この家に来た当初、どこになにがあるのか確認するために覗いたこの冷凍庫の中は、ぎっしりとアイス塗れだった。一般家庭の一年分ほどもあったのではないだろうか。

こんなにもいっぱいのアイスをどうするのか、マスターは変わり者だと首を傾げたそれが。

ほぼ、空になっている。

「カイト殿」

呼びかける声が、咽喉に絡んだ。ごほ、と咳払いし、激しく動揺する心を誤魔化す。

「んにゅ…あ、がくぽ?もしかして、食べたい?!」

なぜに悲壮な顔!

「要らぬわ!」

これだけ食べておいて、なんでそんな悲壮な顔をするか。

反射で怒鳴り返し、がくぽは冷凍庫とカイトの間に割って入った。扉をばたんと閉め、カイトの手から新しいアイスカップを取り上げる。

「え、ちょ、がくぽ」

「カイト殿。貴殿、今日、氷菓をもう幾つ食した」

「え、いくつって…」

カイトの目が泳ぎ、テーブルの上に山と置かれた空のアイスカップを見た。

確かに、事前に入れられたデータによれば、KAITOシリーズは三度の飯よりアイスが好き、となっているが、限度というものがある。

欲望をコントロール出来ないらしい先輩に、がくぽは厳然と立ちはだかった。彼は己を律せない者が赦せない性質なのだ。

「いち、にい、さん…」

ばか正直にちまちま数えるなログを漁ればすぐに答えが出るだろうが!

苛ついたがくぽだが、しかし、カイトの口は、三から先へ進まない。湖面のような青い瞳がゆらゆら揺らぎ、それからぽややんとした顔がぱっと輝いた。

「えっと、いっぱい!!」

「…っ」

なぜそんなに得意そうに。

「三から上は、いっぱいだから、いっぱい!」

どこまでも得意そうに、カイトは主張した。がくぽは今日何度目になるかわからない激しい眩暈に、へたりこみそうになる。

それはあれだ。

最初期、まだロイドの演算処理がそれほど軽くなかった時代の産物、簡略機能ではないか。

すべての数を処理すると容量を食うから、三つ数えたらあとは…―。

その名も、「みっつよりうえはいっぱい」。

だが、簡略機能はどう使ってもあほの子以外のなにものでもないので、使うものは稀なはずだ。

それを、よくもこう、堂々と。

きらきら輝く顔で自信満々に胸を張るカイトに、がくぽは引きつり笑いを浮かべた。

「それで、カイト殿カイト殿は、『いっぱい』食べたのに、まだ食すと?」

本来礼儀正しいがくぽにしては珍しく、言葉は皮肉に歪んでいた。

しかし、目の前できらきらスパークしているおにぃちゃんには、そんなものは通じない。

「うんっ。まだ食べられるよ!」

「…っ」

力いっぱい宣言された。悪びれることがない。

悪びれなければいけないようなことをしているとも思っていないのだろう。

「…え、がくぽ。もしかしてほんとに」

眩暈を堪えて鬼面になったがくぽに、カイトが悲壮な顔になる。しかし、怯えたわけではない。ある意味怯えてはいるのだが、怯える方向が違う。

「食べたいの、アイス…!」

「違うわ!」

これだけ食べておいて、なんたる反応だ。

がくぽは冷凍庫の前で大きく体を張ると、厳然とした声音で告げた。

「今日はもう終いだこれ以上食すこと、罷りならぬ!」

「えええええっ?!」

「あれだけ食しておいて、その反応があるかいくら我らが頑丈に出来ているとはいえ、これだけ氷菓だけを腹に入れれば、何ぞ不具合の起こらぬとも限らん。そもそも栄養が偏る。百害あって一利なしとはこのことぞ」

「…えええええ~…っ」

優に頭ひとつ分上からのお説教に、カイトの青い瞳が本物の湖面のように揺らいだ。駄々っ子一歩手前の顔だ。

ここ数日暮らしてみて、どちらかといえば物分りが良過ぎるほうだと思っていただけに、その執着の強さが窺えて頭が痛くなった。

何設定なのだ。

「…カイト殿のためであるのだぞ。否、貴殿だけのためではない。貴殿を大切にする家族のためでもあるのだ。氷菓の食い過ぎで、貴殿が体調を崩せば、皆、心配するであろうましてや、そのようなことになれば、マスターにも迷惑が掛かるのだぞ。カイト殿はそれで良いのか?」

幼い子供に言い聞かせるように諄々と説いたがくぽに、カイトがくちびるを噛みしめて俯く。聞き分けなければいけないことはわかっていても、感情を納得させられない子供の顔で、体を震わせた。

そうやってしばしの逡巡の間を挟み。

「…ん。わかった…。がくぽ、の、いう、とおり、だもん。きょぉ、は、も、やめる…」

泣くことを懸命に堪える鼻声で、カイトはしかし、言い切った。瞳がうるうるに潤んで今にも零れ落ちそうになっている。

…これでいて、彼はすでに二十代を超えた年齢設定のはずなのだが。

間違ったことはしていないはずだが、盛大に罪悪感を刺激されて、がくぽはひとつ咳払いをした。

「うむ」

「ん…」

言いはしたものの、動くと泣きそうらしい。カイトは俯いてじっと立ち尽くす。

一回り小さな体がぷるぷる震えて、必死で悲しみに耐えている。

だから、これでいて彼は二十代を超えた青年である…。

こんな姿が、こんな姿が…――。

「カイト殿」

自分の脳裏に浮かびかけた思考を振り切ろうと、がくぽは意識して重々しい声をつくった。さっき取り上げたアイスカップを、打ちひしがれるカイトの目の前に翳す。

「これは、食べてしまえ。もう出してしまったものゆえ、溶けだしておろう。戻すわけにもゆかぬから、致し方ない」

「…」

ゆらゆら揺れるカイトの瞳が、ゆっくりと見張られていく。見ていることが出来ずにそっぽを向き、がくぽはアイスカップを押しつけるように差し出した。

「…がくぽ」

名前をつぶやく声が、熱い。

がくぽの差し出した手をアイスカップごと包んで、カイトは自分のほうへと引っ張った。反射的に屈んだがくぽの頬に、アイスで冷え切った冷たいくちびるが当たる。

「ありがとう!」

「…っ!」

打って変わってご機嫌となり、カイトは許された最後のひとつを抱えてテーブルへ戻る。その足取りが羽でも生えているかのように軽い。

カイトにとって、親愛のキスは当たりまえの習慣だ。

がくぽは違う。

ちゅ、と音を立てて離れて行ったくちびるの痕を押さえ、その顔がみるみる赤くなっていく。カイトは気づかず、はなうたまじりにアイスにかぶりついた。

「…それで終いだぞ!」

「うん!」

ひとり動揺しているのを悟られたくなくて、殊更にきつく言ったがくぽに、カイトはこれ以上ないくらいのいい笑顔を閃かせた。