バスタイム・クラッシャー

からりと、脱衣所の扉が開く音。

それ自体は珍しくない。洗面室も兼ねているここは、浴室にだれが入っていようが、家族全員お構いなしに出入りするからだ。

――いや、一部訂正。

浴室に男きょうだいが入っているときは、だ。

姉妹が入っているときに男きょうだいが入ると、他愛ない用事でも死に掛ける。「あれ、ごめんね?」で済むのはカイトだけだ。

おにぃちゃんは姉妹に溺愛されている。

浴槽に浸かっていたがくぽは、一瞬身構えたものの、すぐにまた体を伸ばした。

「あれ、だれか入ってる」

浴室の扉を隔てて聞こえたのは、おっとりしたカイトの声だ。

がくぽは再びどきりとして身構えて、――それもおかしい話だと、無理やりに体を伸ばした。

別にカイトが浴室に入って来るでなし、よしんば入って来たとしても、男同士。なにを気兼ねすることがあろう。

「あのねー、めーちゃーん!」

カイトはなにごとか大声で問いかけながら、脱衣所から出て行った。

「…」

がくぽは妙に気が抜けて、浴槽に沈みこむ。

なんなのだ、自分のこの緊張。

顔の半ばまで湯に埋めて、不可解な自分の態度に自分で首を傾げる。

姉妹たちが入って来たならともかく、カイトがなにをするというのか。

「……」

要するに、最近の自分は少し、考え過ぎだ。

考え過ぎといって、なにを考え過ぎているのかが判然としないのだが、とにかく妙にカイトに対して緊張する。

だからといって傍にいるのがいやだとかそういう類の感情ではなく、むしろ、

「………」

だから、考え過ぎだ。

がくぽは首を振ると、立ち上がった。

さっさと体を洗って出る。それに越したことはない。

そう決めたところで、再び脱衣所の扉が開かれる音がして、続いてなにやら、ドタバタと暴れ回る音。

がくぽはいやな予感に、立ち上がりかけの姿勢のまま固まった。

最近、この手のいやな予感を外したことがない。

案の定。

「がくぽー。いっしょに入るよー」

「なにゆえーーーー?!!」

明るい声で躊躇いもなく入って来たカイトに、がくぽは浴槽に沈みこんだ。

「ちょ、うわ?がくぽが溺れてる?!!」

「溺れとらんわっ!!」

浴槽で溺れるほど、器用さは極めていない。

勢いよく立ちあがったがくぽに、カイトはほっとした顔になった。

「というか、なにゆえ…」

「あ、うん。あのね、めーちゃんが、光熱費がもったいないから、いっしょに入っちゃいなさいって」

「…」

しまり屋の家長らしい言いようだ。逆らえるものがいるなら会ってみたい。

肩を落として諦めたがくぽに、カイトはにこにこと邪気なく笑って付け足した。

「あと、マスターがね。男同士、親睦を深めるならハダカの付き合いがいちばんですよって」

「っ」

足が滑ってこけそうになった。

すんでのところで、罵倒の言葉を飲みこむ。

つくづくと。

つくづくと!

「がくぽ、体洗うの?」

「……………ああ」

無邪気に首を傾げているカイトに罪はない。

――だがほんとうに、罪がないのかどうか、最近たまに疑わしい。

『あの』姉妹たちに、『あの』マスターに、囲まれて育まれて、まったく無邪気だとか、有り得るだろうか。

「背中流しっこする?」

「要らん!」

どこまでも無邪気で、疑いようもなく純粋だというところがもう、救いようがない。

だからこそ、彼は姉妹たちに溺愛されるのだろう。

脱力しながら浴槽から出たがくぽに代わり、カイトが浴槽に入る。

「レンくんもねー、背中流しっこしないって言うんだよ。でもいっしょにお風呂に入ったら、背中流しっこするものじゃないの?」

「貴殿の知識は偏っているぞ」

永遠の反抗期のおとうとが、おにぃちゃんと背中の流しっこをして喜んでいたら、それはもう、反抗期と言わない。

とはいえ、おとうとは甘えたでもある。

いいからいいからとカイトが押し切れば、ごくうれしそうに背中を流されるだろうし、「しょ、しょうがねえから、お返しににぃちゃんの背中流してやるよ!」とか言いそうだ。ものすごく言いそうだ。口調から表情まで想像がついた。賭けても勝てる自信がある。

想像上の賭けで大勝したところで、がくぽはふと気がついた。

ひとがいれば際限なくしゃべっているカイトが、妙に静かだ。

「カイト殿、」

まさか溺れたか、と顔を向けると、浴槽の縁に顔を乗せて、ほわほわ笑いながらがくぽを眺めている。

ごくしあわせそうで、愉しそうだ。

「…なにを見て」

「がくぽ、かっこいーね」

眉をひそめたがくぽに、カイトはいたってのんびりとつぶやいた。

「体、絞まっててすごくきれい。厚みもあるし」

「…」

どうしてうっとりした声音で、そんなことを言うのだろう、このおとぼけさんは!

素直に称賛されているのはわかるのだが、がくぽはなにか気恥ずかしくて後ろを向いた。

「男のロイドの体など、こんなものだろう」

素っ気なく言うと、カイトが不服そうに湯を跳ね上げた。

「それ、俺の体見てから言って。ほら、がくぽの体と比べるとさ、なんかうっすくて貧弱!」

言いながら、不満そうに湯を跳ね散らかす。

好奇心に駆られて、がくぽは逸らしていた視線をカイトへやった。

浴槽で半立ちになったカイトは、上半身をあらわにして、しきりと肉づきの薄い胸板を撫でている。

「むっきむきにしてくれとは言わないけどさー。もうちょっとなんか、こう、やりようってもんが……」

「…」

水滴の伝う、ぬめるように白い肌から目が離せなくなって、がくぽは言葉を飲みこんだ。

確かに、がくぽの体と比べると、貧弱と言ってもいいような体格だ。

あばらが浮くほどの不健康さではないが、全体に細身で、いかにも力仕事には向いていない感がある。

なにより、ロイド特有の抜けるような白い肌は、がくぽのそれすら上回るほどで、それが脆弱さをさらに加速させる。

カイトが肌を撫でるたびに、皮膚がやわらかに動くのがわかる。

熱に弱いロイド用に湯温を低めにしてあるせいで、湯気の邪魔がほとんど入らないから、細部まで見ることが可能だ。

その白い肌に、ぽつりぽつりと浮かんだ、ピンク色の…――

「?!」

「ねえねえ、がくぽ。あのさ、ちょっと……がくぽ?」

自分の思考の落ち着き先が信じられず、がくぽはカイトに背を向けた。

いくらなんでも、どうにかし過ぎている。

どうしてカイトで。

というか、どうしてカイトなのだ。

「がくぽー。がーくーぽがーくぽさーん」

カイトが懸命に呼んでいるが、応えるどころではない。

このままではいろいろ窮地だ。なにが窮地といって、なにが…

「がくぽ、ってばさ!」

「のわっ!」

焦れて湯から上がったカイトが、衒いもなくがくぽの背中に張り付いて、がくぽは情けない悲鳴を上げた。

カイトからしてみれば、がくぽは男きょうだいのひとりで、ついでに言うとがくぽにはとても不本意なことながら、おとうと扱いだ。

感性がどこかぶち切れているこのおにぃちゃんは、レンにしてもがくぽにしても、年以上に相当幼く見えているとしか思えない。

年頃の男子からすると勘弁してほしいほどの過剰なスキンシップを、平気でやる。

「あのさー」

「待て、離れろ、まず!」

「えー」

「えー、じゃない!!」

今、素肌の感触を感じていたら、なにかがいろいろととてもまずい方向へ転がり出す予感がある。

どういうわけか、理性が崩壊寸前だ。

振り向いて引き剥がすことすら出来ないがくぽに、カイトは小さく肩を落とす。

おとなしく離れると、タイルの上にちょこなんと正座した。

「あのさー、がくぽ」

「なんだ」

暴れ回って落ち着かない駆動系と闘いながら、がくぽはどうにか声を返す。

悄然としていたカイトは、珍しくも甘えるようなオクターブ高い声を出した。

「さわりたい」

「っごふっ!」

「あれ?!」

むせ返ったがくぽに、カイトが首を傾げる。

がくぽはなにか言いたいが、もはや言葉が出てこない状態だ。

なにからなにまで、どうしたらいいかわからない。どうしてこれで、邪気がないとか、純粋そのままだとか、もはやそちらのほうが罪だ。

「ちょっとだけだから!」

「一寸もなにもな!」

「がくぽも触っていいよ!」

「っ!」

なぜか理性が揺らいで傾いだ。

がくぽの頭の中から、男同士だとかきょうだいだとかいう単語が抜け落ちている。

これくらいのこと、さほど意識するようなことでもないのだという、その厳然たる事実が思い浮かばない。

「ね、がくぽ!」

再度強請られて、がくぽは回る視界をカイトに向けた。

タイルにちょこなんと正座したカイトは、タオルひとつ巻いていない。

濡れた肌が、惜しげもなく晒されて。

「武家諸法度武家諸法度」

「がくぽ?」

高速でつぶやく呪文は、最近見つけた、落ち着くのに最適な言葉の連なりだ。

「…一寸だけだぞ」

つぶやいたがくぽに、カイトの顔が輝く。

「うん!」

無邪気に頷いたカイトに、がくぽは体を向ける。

カイトは子供のようにわくわくした顔で、がくぽの胸板へと手を伸ばした。

「っ」

やわらかく、撫でられる。

わずかに身を固くしたがくぽに気づかず、カイトは手を止めた。

「ふわわ」

小さく声をこぼす。

肌に触れたままの指が、少しずつすこしずつ丸まっていき。

「……あれ?」

「…!」

カイトの耳が、赤い。

その赤みは、全身へと広がっていく。白い肌が、咲き綻ぶような色に染まり。

「えとえとえと?」

自分で自分がわからないとでもいうように、カイトは戸惑う声を上げながら俯いて、身を小さくしていく。

「っ!!」

がくぽは手を伸ばすと、カイトの体を抱え上げた。

決して軽くはないのだが、そんなことは感じさせない軽々とした動きで、乱暴にカイトの体を浴槽に落とす。

「っわぷっ!!」

カイトが悲鳴を上げ、暴れた。

「ちょ、がくぽ?!」

非難の声は、もういつものトーンだ。

なんとか浴槽で態勢を整え直したころには、肌の色も落ち着いていた。

「なんで?!」

「いいから、少しおとなしうしておけ!」

叱咤して、がくぽはカイトに背を向けると、中断していた体を洗う作業に戻った。

しばらく湯を跳ね散らかしていたカイトだが、言いつけどおりにおとなしくなり。

「……がくぽ」

「なんだ」

突き放す声に、しかしカイトはめげない。

「なんだったんだろう」

なに、とは特定しない問いかけに、がくぽはしばらく黙り。

「のぼせたのだ。それだけだ」

きっぱりとした答えに、カイトは小さく首を傾げ、それからおとなしく頷いた。

浴槽に体を伸ばして、ぼんやりと天井を眺める。

のぼせただけならいい。

心底からそう願いながら、がくぽは蟠る体の熱をどうしたものか、途方に暮れていた。