「おやすみ、がくぽ。いい夢が見られますように」

「…~っ」

穏やかな親愛のキスと、切なく吐かれる言葉。

I pray...02

こればかりは何度やっても慣れず、がくぽは今日もキスされた頬を押さえてリビングの床に座りこんだ。

挨拶のキスという習慣がインプットされていないがくぽは、こんな些細なキスでも、直截な行為へと繋げる第一歩として捉えてしまう。

カイトに他意はないのだと十分に理解していても、体が疼くのは抑えようがない。衝動は堪えがたく、日々強くなっていく。

「…だいじょうぶ、がくぽ?」

元凶のくせに、毎回まいかい慣れもせずにこうなるとわかっているのに、一向に習慣を改めてくれないカイトが、きょとりとかわいらしく首を傾げてがくぽを覗きこむ。

「っ大丈夫だっ」

ほとんど矜持だけで言い返し、がくぽはカイトから目を逸らす。

他意もなく、無垢なばかりの瞳に見つめられると、心がぐずぐずに折れて、身も世もなく縋りつきそうだ。

自分ばかり煽られているとか、悔しすぎる。

「そもそも、貴殿な。毎回まいかい、いい夢をと言うが、我らが夢を見ると思うのか。電気羊の夢でも見ろと言うのか」

「電気毛布だって、マスターは言ってたよ」

「は?」

ロイドに夢を見る機能はない。少なくとも、そこに旧型と最新型の違いはない。

カイトも見ないが、がくぽだとて夢など見たことがないのだ。

だが、がくぽにおやすみのキスをするとき、カイトは毎回まいかい、決まって「いい夢が見られますように」と囁く。

悔し紛れにそのことを腐したがくぽに、カイトは至極まじめに答えた。

とはいえ、飛び過ぎてなにを言っているか理解出来ない。

「なんだと?」

「めーちゃんもね、おんなじこと言って。それで、マスターは、電気毛布のほうがいいって答えてた」

訊き返したがくぽに、カイトは茫洋と宙を見つめてつぶやく。

話が飛んでいて理解に苦しむのだが、補填に補填を重ねて話を構成すると。

「…マスターが、始めた習慣なのか?」

優秀な情報処理能力を最大限まで行使して、がくぽは憶測を述べた。

とはいえ、半信半疑だ。

マスターは日本生まれ日本育ちの純正日本人で、海外留学の経験があるわけでもない。

そのマスターが、いくら家族として迎えたロイドとはいえ、挨拶のキスを習慣にしたりするのは無理がある。

そもそもこれまで、マスターが自分からしているのを見たことなどない。

カイトがするのを拒絶はしないが、それだけだ。

胡乱な眼差しを投げるがくぽに、カイトはログを漁っているとき特有の虚ろな表情で、あらぬ方を茫洋と眺めた。

「まだ、ラボにいるころね。マスター、帰るとき、いっつも。めーちゃんのこと、ぎゅって抱きしめて、そう言うの」

「…ラボにいるころ?」

に、なぜ、「いっつも」マスターが帰ったり、来たりするのか?

自分たちは基本、ラボから買い取り制で、マスターと初めて会ったらそのままおうちに持ち帰られるのが普通だ。

メーカが違おうとそこは変わらない。ラボの研究員でもないマスターが通うという話は、おかしい。

疑問符が増えるばかりのがくぽに、カイトははんなりと微笑んだ。

「めーちゃんは、『あたしたちがなんの夢を見るっていうの』って、いっつも言ってたけど。マスターは、懲りずに毎回まいかい。めーちゃんも、なんか、ちょっとうれしそうで…。俺は、それ見てて…」

「…」

いつものおっとりぽややんとは違う笑みを浮かべたカイトは、ひどく儚く、消えそうだった。

声も無く見つめるがくぽに、夢のようにつぶやく。

「俺も、大事なひとが出来たら、ああしてあげようって、思ったんだ。夢が見られるとか、見られないとかじゃなくて…。大事なひとに」

つぶやかれた言葉に、がくぽの心が跳ねた。

大事なひとに。

思えば、カイトは家族ならだれにでもキスをする。

他意のない行為だから、それこそ手で触れるように、くちびるで触れるのだ。

だが、がくぽ以外の家族にキスをしても、その言葉をつぶやいたりはしない。

がくぽに触れたときにだけ、小さく囁くのだ。

いい夢を見てね、と。

――大事な、ひと。

駆動系が暴れ出す。期待が膨れ上がる。もしかして、

「おや、よく覚えてましたね、カイトさん」

マスターがひょいと割りこんできて、暴走しかけたがくぽは我に返った。

うっすら笑ったマスターは、小さい子でも相手にしているかのように、カイトの青い髪を掻き混ぜる。

「覚えてるよー。大事なことだもん」

「ははは、そうですか」

ぷう、と頬を膨らませるカイトは、いつものようにおっとりぽややんに戻っている。

マスターは声ばかり楽しそうに、カイトを撫でた。

「大事なことは、ちゃんと覚えてるんだよ」

「そうですね」

子供のように主張するカイトに、マスターは笑っている。

そのマスターを、カイトは痛々しそうに見つめた。どこか必死に。

「めーちゃんが忘れても、俺は覚えてるんだよ」

「はい。ありがとうございます、カイトさん」

必死に言い募るカイトを、しかしマスターは軽くいなす。

自分のロイドが懸命に訴えているというのに、マスターらしくもない態度だ。カイトとの間に、いつもはない緊張感が見え隠れしている。

がくぽはわずかに戸惑って、んん、と咽喉を鳴らした。

「それで、マスターなぜ電気毛布なのだ?」

話題はなんでもよかった。カイトとマスターの間の空気を壊せるなら。

適当な話を振ったがくぽに、マスターがきょとりと首を傾げる。

「でんきもうふ?」

腹が立つくらいに不思議そうな声音だ。

がくぽはちょっと恥ずかしくなりながら、それでも振ってしまった話題を取り消せずに、肩を竦めた。

「言ったのだろう。電気羊の夢を見るより、電気毛布の夢のほうがいいと」

説明を足したがくぽに、マスターは至極まじめに頷いた。

「だって、電気羊ってシュール過ぎませんか電気羊が柵越えしている夢とか、見て愉しいですかそれなら、電気毛布にくるまって、あったまってる夢のほうがずっといいじゃないですか」

「…電気毛布も十分シュールだぞ、マスター…」

なぜふつうの羊でなく毛布でなく、電気毛布。羊超加工済み。

「電気羊、かわいいと思うけどなあ」

「わかりませんよ実際につくられた電気羊が、ナマモノの羊みたく、ふわもことは限りませんからね!」

ずれたカイトの感想に、マスターもずれずれな反応を返す。

なんであれ、このふたりは妙に話の方向性が合うのだ。

なにやら妙に気が抜けて、がくぽは肩を落として立ち上がった。

そのがくぽの肩を、意地悪小姑の顔をしたミクが叩く。

「ちなみにおにぃちゃんは、ボクが来たばっかりのころも、『いい夢見てね』って言ってくれましたー」

「リンも言われたー」

「俺も言われたからなー」

ミクの背後に控えたリンとレンも重ねて言う。

電気羊についてカイトと討論していたマスターが、無邪気に割りこんだ。

「ああ、カイトさんはね。新しい家族が来ると、『早く仲良くなろうね』という意味も込めて言うんですよね。私もメイコさんも、いっしょに暮らし始めた当初、言われました。ね?」

「うん。だって、来たばっかりって不安でしょうちょっとでもいっぱい、歓迎してるよ、大好きだよって伝えなきゃ!」

「…」

へたりこまないためには、大変な胆力が必要だった。

心の中で、まあそんなことだろうとは思っていたさ、と呪文のようにくり返し唱え、悄然とした様子を見せないよう堪える。

それでも渋面は隠しきれない。

突然不機嫌オーラを纏ったがくぽに、カイトはきょとんとして首を傾げた。

***

そのふたりからわずかに離れ、マスターは意地悪な顔でにやにや笑うミクの髪を軽く引っ張った。

「悪い子ですねえ、ミクさん…」

「えー。マスターだって同罪ですぅ」

「まあ、それはそうなんですが」

頬をぽりぽり掻くマスターの腕にリンがぴょんと飛びつき、傾いた耳に口を近づけた。

「言っちゃだめよ、マスター」

「ん?」

くちびるに耳をくすぐられて、マスターが微妙な表情をする。

リンは意識してかしないでか、さらに口を近づけた。

「おにぃちゃん、みんながおうちに馴染んだら、言わなくなっちゃうのがふつうだって」

「そうそう。がっくんなんか、来てからもうずいぶん経って、うちに完全に馴染んだよねえ。それでも『まだ』言われてるなんて、まさに『特別』なんだって」

「…」

渋面のまま、覗きこむカイトを避けるがくぽ。

そのがくぽを、どこまでも心配そうに見つめるカイト。

ふたりを見やり、マスターは腕にしがみつくリンを撫でた。ついでに、どす黒い顔で「納得いかねえ」とつぶやいているレンの頭も撫でる。

「まあ、私からどうこうとは積極的には言いませんが、」

「なにがなんですって?」

ひょいとリビングに顔を出したメイコが、マスターの言葉を耳ざとく拾う。

マスターは微笑むと、リンを腕から離してメイコの元へ行った。

「もう寝るの、メイコさん?」

「寝るわよ。みんなだって寝るでしょ何時だと思ってんのよ」

きつさの中に甘さを隠したメイコの眼差しに、マスターは笑って手を伸ばした。逆らわない頭を胸に抱く。

「おやすみなさい、メイコさん。いい夢が見られますように」

つぶやきに、おとなしく抱かれたメイコが小さく笑う。

「なに、それカイトの真似あたしたちがなんの夢を見るっていうのよ。電気羊の夢でも見ろっていうの?」

楽しげに腐す。

決して悪い気分ではないのだろう、声は明るく弾んでいる。

「見るなら電気毛布のほうがいいわ」

メイコの言葉を明後日な方向に訂正して、マスターは赤毛を撫でた。

「深い意味はないのよ。大事なひとが健やかたれと願う、小さな祈りの言葉よ」