正月用だと渡された着物に着替えようとしたところで、襖がノックされた。

「がくぽー。お着替え終わった?」

「いや、まだだ」

襖の向こうにいるのは、カイトだ。珍しいこともあるものだと思う。

いつもなら、ノックと同時に押し入って来るのに。

明け染めにしの名は

「これから着替えようと思っていたところだ」

「服着てる?」

妙な質問だ。

もしかしてカイトとしたことが、がくぽが裸ではないかどうかを気にしてくれたのだろうか。

カイトに対して十分に失礼なことを考えながら、がくぽは脱ごうと手を掛けて乱れていた襟を整え直した。

「まだ脱いでおらん」

「そか!」

ようやく襖が開いた。

「…?」

そこには、普段着のままのカイトがいる。

確か、ロイド全員に着物が渡されたはずで、リビングでは着付けの大騒動だった。

自分で着付けが出来るがくぽは、早々に自室へと引き上げたのだが。

思って見てみれば、カイトは腕に着物と思しき布の塊を抱いている。

「カイト殿、着替えぬのか?」

不思議に思って訊くと、部屋に入って来たカイトは、襖をぱたんと閉め、笑顔で着物を差し出した。

「着せて!」

「…」

瞬間的に眩暈がして、がくぽは眉間を押さえた。

着せてって、着せてって、着せてって!!

「あれ言ったよね俺、着方知らないの。前、浴衣のときも着せてもらったでしょう?」

「着せたな、着せた。確かに着せたとも………」

あれは夏のことだ。

夏祭りに着ていく浴衣を、カイトに強請られて着せた。

今までどうしていたのかと訊いたら、マスターに着せてもらっていたと答えた。

けれど、甘えたいロイド全員が着付けを覚えないから、マスターはてんてこまいで大変で、それが心苦しいと。

せめても自分ひとりくらい――

それくらい、お安い御用だ、と請け負った。

そもそもカイトだとて成人した男だし、女性に一から着せ替えてもらうのは恥ずかしいだろうとも思って。

だがいいだろうか。

一言、言いたい。

あのときと今では、状況が違う!

おそらく、カイトの中ではなにも違わないのだろうが、がくぽのほうで大きく事情が変わっている。

あのころはまだ、がくぽはカイトへの想いを自覚していなかった。

やたら構いたくなる、くらいの意識で、だから目の前で裸になられても、無防備な体に触れても、どうもならなかったが。

今は違う。

自覚した想いは、常にカイトを求める。

より深く、強く。

そこにまた、あんなふうに無防備に肌を晒されたら。

「………だめ……?」

長い沈黙に、カイトが悄然と訊く。

もちろんだめだ。

だめだとも。

そんな新年早々から、理性の限界に挑戦するようなこと、やってられるか。

「支度は一揃い、きちんと持って来たろうな?」

「…っ」

口から出た言葉の裏切りさ加減に、がくぽは再び眩暈を覚えた。

ぱっと顔を上げたカイトが、差し出したままの着物を慌てて胸に戻す。忙しなくめくって、確認しだした。

「えっと、どうかなよくわかんない。でもマスターが、これで一揃いですよって言って渡してくれたから!」

「広げてみろ。着替えの途中で取りに行くのでは面倒だ」

「うん!」

ほとんど着替えさせてやると宣言したも同じ言葉に、カイトは満面の笑みを浮かべて、胸に抱いていた着物一式を、無造作に畳に放り出した。

「もそっと丁寧に扱え」

「うん!」

返事だけは元気がいい。

がくぽは肩を落として、自分の裏切りを受け入れた。

カイトが強請ったことを、断れるわけがないのだ。

それがどんなに過酷な耐久レースであったとしても、出場せずにはいられない。賞品にカイトが得られるわけでもないのに。

「えっとね……なんか足らない?」

「いや。確かに一揃いあるようだ」

散らかされたものをきれいに並べ直しながら確認したがくぽに、隣に座ったカイトがうれしそうに笑う。

「じゃあ、お着替え出来る?」

「ああ」

「っしゃ!」

うれしそうに拳を振ると、カイトは早速コートに手を掛けた。

「…」

がくぽはさりげなく目を逸らして、ログを高速で漁る。

精神統一には、古典だ。古典の名作を唱えていると、とりあえず気が紛れる。最近のお薦めは――

「……あー、えっと」

だが手を掛けて、カイトは止まった。なにか首を捻っていたが、目元を赤く染めてがくぽを見つめる。

「――服って、全部、脱ぐの?」

「っ」

小首を傾げて訊かれて、がくぽは思考の片隅に、無駄にダメージゲージをつくってみた。

今のショックを数値に直すなら。

「………下穿き、くらいは、つけておれ」

「ん」

頷き、カイトはまたコートに手を掛ける。

脱いでいく様子を逐一見ていることなど、とても出来ない。

がくぽはくらくら回る視界と闘いながら、頭の中で古典の詠唱を始めた。

「――がくぽ。脱いだよ」

「…」

声を掛けられて、がくぽは腹に力を込めて振り返る。

「そしたら、どうするの?」

「っ」

ダメージをどこまで溜めると、自分は倒されるのだろう。

無駄に考えながら、がくぽはダメージゲージに数値を足していく。そうやって気を紛らわせでもしないと、自分がなにをするかわからない。

暑いわけでもないのに、晒されたカイトの肌は薄紅色に染まっていた。こちらを見つめる瞳も、どこか潤んで――

「錯覚錯覚」

「がくぽ?」

カイトが首を傾げる。

がくぽは肌襦袢を取ると、カイトの体に着せかけた。

「まずは襦袢だ。ほら、立て。座っていては、着せ替えられぬ」

「ん」

肌が隠されてほっとしたらしいカイトが、わずかにやわらかに崩れて立ち上がる。

合わせて立ち上がり、がくぽは襦袢の中心を合わせた。

赤く染まったうなじが覗いている。見ないようにと思っても、視線が行く。

出来るだけ肌に触れないように触れないように、細心の注意を払って、がくぽはカイトを着付けた。

新年早々から回路がぶち切れそうな耐久レースっぷりで、がくぽは我がことながら感心してみた。

被虐趣味とはこういうことを言うのだろう。

「…よし、終いだ」

帯を締めて、きれいに形を整えてやって言ったがくぽに、カイトはくるりと一回転した。

「似合う?」

マスターがひとりに二種類ずつ用意した、それぞれにそれぞれな物の中からカイトは、紺地に藤の花が咲き散る、花柄ではあっても落ち着いた色味の着物を選んだ。

男物といえど、容赦なく花柄なのはロイド用だから仕方ない。

「ああ。似合うておる」

答えたがくぽは、その場凌ぎに言ったわけではない。

今時デザインの派手な着物を着てもかわいいが、こうやって落ち着いた色味のものを着ると、普段足りない大人の色香がそこはかとなく醸し出されて、いつも以上に艶めいて見える。

しかしカイトは首を傾げると、手を伸ばしてがくぽの頬を挟みこんだ。

「…カイト殿?」

「ちゃんと俺のこと見て言って」

「…」

「俺のこと、ちゃんと見て、言って」

いつになく真剣に言われて、がくぽは戸惑う。

いつもは穏やかに揺らいでいる瞳が、図りきれない感情を宿して、懸命にがくぽを見つめている。

「………似合うておる」

「…」

「ほんとうだ。綺麗だ」

じっと見つめる瞳の強さに思わず口走り、がくぽはまずい顔になった。

カイトがわずかに瞳を細める。

「……『悪くない』?」

「ああ。……いや」

頷きかけて、首を振った。

なにか不満げな、拗ねたような表情を見せるカイトを、きちんと見つめる。

「とても良い」

「…」

カイトはきょとんと、瞳を見張った。

がくぽの普段の褒め言葉は、『悪くない』だ。

頬を包んだままの手に手を重ねると、カイトはびくりと震えた。

がくぽは無理やりに無視して手を握りこみ、もう一度くり返す。

「とても、良い」

「…」

言葉が染みこむまでの時間があって、カイトの頬が真っ赤に染まる。

瞳が潤んで、くちびるが空転した。覗く首筋まで赤く染まり。

「あ……」

「カイト殿」

「っ」

結局言葉にならず、カイトはがくぽの胸に飛びこんだ。いつものハグとは違う様子で、縋りつくように抱きつかれる。

「カイト殿…」

戸惑って名を呼ぶがくぽに、カイトはますますしがみついた。

躊躇いながら、がくぽは腕を回す。薄い体を抱きしめて、胸に埋まる頭に顔を寄せた。

香る、甘いバニラ。

頭が眩む。

甘いあまい――

いつもはコートとマフラーに隠されている首が、襟の広い着物で露わにされている。赤く染まっているのは、先の余韻がまだ残っているからか、それとも。

光に向かわずにはおれない羽虫のように、がくぽはそこへとくちびるを寄せた。なめらかな肌に、歯を立てる。

「ひぁっ」

カイトが小さく悲鳴を上げた。

がくぽは我に返って、カイトを押しのけようとした。だが、カイトはますます強くしがみついて離れない。

「カイト殿」

「やだ」

離れろ、と示すがくぽにきっぱり言って、カイトは赤い顔を上げた。潤む瞳で、懸命にがくぽを見つめる。

「舐めても咬んでもいいよ。好きにしていいから」

「っ」

なんてことを言うのだろう、このおとぼけさんは。

がくぽの視界がくらりと歪む。凝然と見つめるがくぽの胸に、カイトは再び顔を埋めた。

「好きにしていいから――ちょっとだけ、ぎゅーってしてて」

「…」

卑怯な思考回路だと思う。

そこまでのことを言っておいて、求める愛情はどこまでもお子様向けだ。

がくぽは肩を落とすと、カイトの体に腕を回し、望むままに強く抱きしめた。

逆らえない。突き放せない。

年が明けようがなんだろうが、今年も耐久レースの日々のようだ。