三日間に及ぶイベントが終わって、打ち上げも済ませて家に帰ると、いつでも元気いっぱいが取り柄の家族全員が、さすがに疲れてへたれた。

それでもまだ、マスターが事後処理に駆けずり回っていることを考えると、人間の体力の底知れなさに背筋が凍る。

なにを打ち合わせたわけでもなく、ロイドたちは自分の部屋ではなく、リビングに集まって、めいめい体を伸ばした。

おつかれによく効くくすり

いつもおっとりぽややんとしていて疲れ知らずに見えるカイトも例外ではなく、さすがに疲れの滲む顔で、三人掛けのソファの隅っこに座っていた。

「おにぃちゃぁん♪」

「ん?」

そのカイトの元へ、家族の中では比較的元気な顔のミクがやって来る。

疲れてはいても邪険にすることはなく、やさしく見返したカイトに、妹らしく、かわいく首を傾げた。

「あのねあのね…おにぃちゃん、疲れた?」

一目瞭然なことを訊く。

カイトの返答を待つことなく、ミクは天使のように愛らしく笑って、両腕を広げた。

「ボクが、ぎゅーって、してあげようか♪」

この家には、『疲れたら、ぎゅーっとしてもらうと早く治る』という妙な家訓があった。もちろん、創案者はマスターだ。

『ぎゅーってしてもらうと、疲れなんて吹っ飛びますよ。ほんとです』

疲れてへこたれたロイドに、彼女は笑ってそう言って、ぎゅうっと力いっぱい胸の中に抱きこむ。男も女もなく、年すら関係なく、ただ、彼女のロイドであることがすべて。

マスターに抱きしめられて安堵する感覚を覚えているから、彼女のロイドたちは疲れると、だれからともなく、「ぎゅーってしよう」と言い出すのだ。

ただ、ぎゅうっとするのは主に年長組であって、ミクやリンレンといった年少組は、ぎゅうっとしてもらう側だ。

「…」

きらきら、期待に瞳を輝かせるミクをしばしきょとんと見つめてから、カイトは納得したように頷いた。

「ああ――ミク、疲れたんだうん、ぎゅーってしてあげる」

一瞬、会話になっているようで、まったく会話になっていない。

だがカイトはミクがツッコむ前に、ソファの上に伸ばしていた体を起こした。腕を広げるミクの体へと手を伸ばし、膝に乗せて抱っこする。

「ってててちょ、違うちがうっ!」

おにぃちゃんの胸の中に抱えこまれたミクは慌てた。

もちろん、おにぃちゃんに『ぎゅう』されるのは嫌いではない。

嫌いではないが、そうではなく。

「んどしたの?」

きょとんとする兄の腕の中から、ミクはもがいて飛び出し。

「あああああっミク姉ずるいーーーっっリンもリンもぉっ、おにぃちゃん、ぎゅうっ!!」

「ああ」

かん高い声が爆発して、リンがカイトの元へすっ飛んでくる。片手にはしっかりとレンの腕を引いている。

リンの「リンも」は大概、レンも込みだ。片割れの意思と関係なく。

「ちょ…っ」

慌てるミクがなにか言うより先に、リンはカイトの胸に飛びこんでしまう。

「おにぃちゃんっvv」

「はい、ぎゅーっ」

「ぎゅーっvvv」

大好きなおにぃちゃんにぎゅうっと抱きしめられて、リンは至福の声を上げる。

「…っ」

カイトの前へ連れて来られたものの、素直に「ぎゅってして☆」などと言えないレンが、もどかしそうな顔でカイトとリンを見る。

カイトは顔を上げると、リンを少しだけ脇に寄せ、片手をレンへと伸ばして微笑んだ。

「レンくんも、おいで」

「…し、仕方ねえなっ」

うっすら頬を染めて吐き捨てたレンは、そわそわとカイトの胸へ身を寄せた。

「レンくんもお疲れさま。ぎゅーっ、ね」

「おう」

言葉どおりにぎゅうっと抱きしめられて、いつも剣突くしているレンの顔が、ほんわりと緩む。

難しい年頃の少年であっても、基本は甘えたなのだ。大好きなおにぃちゃんに甘やかされると、普段つくっているキャラクタも忘れてしまう。

「リンもぉっ」

「うん。ふたりとも、ぎゅーっ」

強請るリンに笑って、カイトは双子を力いっぱい抱きしめる。

「チガウダロチンクシャドモガガガガ」

甘える双子の後ろで、脇に除けられたミクが、紫色の煙でも吐きそうな形相でつぶやいた。手が危険な形で、わきわきと蠢かされている。

定位置である、一人掛けのソファに座ってその様子を眺めていたメイコは、軽く肩を竦めて立ち上がった。

このままでは、無意味に戦争勃発だ。疲れているというのに!

どす黒い表情を晒している上の妹が、裏腹に純粋な気持ちであることはわかっている。

立ち尽くし、幻の煙を吐くミクの頭をよしよしと撫でてやって仲裁に入ることを教えると、メイコはカイトの傍らに立った。

甘やかすことが大好きな、みんなのおにぃちゃん。

けれど彼だって、疲れて、甘やかされたいことだって、あるはず。

覚えている、記憶の欠片。

彼は決して、強いばかりではない。むしろ、ひどく甘えただ。

「めーちゃんも、ぎゅうしよっか?」

顔を上げて微笑むカイトの頭を、メイコはさらりと撫でた。

「仕方のない子ね」

何度、新しく出会っても。

きっとずっと、世話の焼けるおとうとだ。

「あんたは疲れてないの、カイト?」

訊くと、カイトが答えるより早く、胸の中でくつろぐリンとレンが顔を上げた。

微笑む兄をきょとんと見てから、レンはばつの悪そうな顔になる。

リンは無邪気に笑った。

「おにぃちゃん、疲れてるの?!じゃあ、リンがぎゅうってしてあげるね、ぎゅーーっっvvv」

「あはは、ぎゅーっ」

膝に乗ったまま甘えて抱きつくリンを、カイトは笑って抱きしめる。ついでに、身を引こうとするレンも抱きしめた。

「コノチンクシャドモガファガガガ…ッ」

ミクの口から出る煙が、紫から黒に変わった。――だろう、出ていたら。

もはやアイドル云々以前に、少女としてやっちゃいけない顔になるミクは、ごく単純に兄思いだ。

もちろん、甘やかされるのは大好きだが、たまには少し大人ぶって、兄を甘やかしてもみたい年頃なのだ。

ほえほえのぽやぽやのカイトだが、実はかなりしっかりと線引きをして人と付き合う。

そのカイトにとって、ミクとリン、レンは甘やかす対象。

はっきりと言葉にされなくても、態度が常にきっぱりとそう告げる。

ゆえに、ミクやリンレンがカイトを甘やかそうとしても、うまくはぐらかされるか、さりげなく拒絶されるかで。

それでも強行突破してみたら、いつの間に立場が逆転して甘やかされてました、という残念オチも幾度か。

幻の煙だけでなく、本物の煙も吐きそうなミクを見やり、メイコは肩を竦める。

仕方ない。

カイトはこれでいて、難物だ。

無邪気とおっとりにうまく隠されて無害そうに見えるが――まあ、この家で、『長男』としての地位を確立して揺るがない時点で、その実力たるや推して知るべし。

「さあ、ちょっと、ちびども…」

ミクが毒炎を吐き出す前に、メイコはカイトにしがみつくリンとレンを引き剥がしにかかる。

甘やかされることに、疑問も躊躇いもないちびっこたちの首根っこを掴んだ。

その時だ。

「カイト殿。俺も疲れた」

「は?!」

意外なところから声が上がって、メイコとミクが揃って叫ぶ。

逆さに振っても「疲れた」などとは言わなそうな――がくぽが、それも、宙吊りにされても弱音を見せたがらないだろう、カイト相手に?!

「ほえ」

さすがに無視できずに顔を上げたリンとレンに、カイトもきょとんとした顔をがくぽへ向ける。

リビングの隅で座禅を組んでいたがくぽは、いつの間にか家族全員が集合したソファの傍にやって来ていて、そしてミクとメイコを押しのけてカイトの前へ立った。

ごくまじめな顔をしている。

そのままどこまでもまじめな顔で、リンとレンの首根っこを掴むと、カイトの膝の上から容赦なく引き剥がし、無造作に床に捨てた。

「はわ、はわわわ?!」

事態が理解できないリンが、レンの手を掴む。レンもその手を握り返して、呆然とがくぽを見上げた。

「…がくぽも、ぎゅう、する?」

「ああ」

見たこともないような、戸惑いと恥じらいを混ぜた笑顔で、カイトはがくぽへ手を伸ばし、がくぽはどこまでもまじめな顔でその手を取る。

疲れているとはとても思えないような軽々とした動きで、がくぽはカイトを抱き上げた。そして、ソファへと座ると、自分の膝の上にカイトを乗せる。

向き合わせで置いて、背中に腕を回して胸の中へと引き寄せ。

「…」

「あ、邪魔?」

「ああ」

睨むような視線に、カイトはわずかに体を起こす。

それでも躊躇うカイトへとがくぽが腕を伸ばし、しかしその手が届くより先に、カイトは自分でマフラーと襟をくつろげて、首元を開いた。

「これでい?」

「ああ」

上目使いで訊いたカイトに満足そうに頷いて、がくぽは晒された首へと顔を埋めた。無意識に逃げようとする体を、力の差に物言わせて胸の中へと、きつく抱きこむ。

「くすぐったい」

カイトは小さく身じろいでつぶやくが、がくぽの腕の力が緩むことはない。

「おとなしうしておれ」

「…んん…っ、んっ」

首にくちびるをつけたままささやかれて、カイトは震えて仰け反った。

がくぽの腕はますます強く、逃げようとすればするほど。

「おとなしくする…するから」

「そうせい」

言葉だけではなく、カイトはそっと、がくぽへと身を預けた。

力強く、抱きしめられて。膝に乗せられて、甘やかされて。

がくぽを慰めたいはずなのに、自分が甘やかに満たされてしまう。

きつく、縋りつくように抱きしめられて、言葉ではなく、強く愛情を伝えられているような錯覚に陥る。

溺れながら、ずっと浸っていたい欲求がもたげて、離れられない。

「がくぽ」

「けちるな」

「…好きなだけ、してていいよぉ……」

がくぽは、満足なの?

訊く前に言われて、カイトは情けなく笑った。

満足なら、いい。

自分が、これ以上なく満たされてしまって、なんだかもどかしいけれど。

「……………………ええっとぉ………コレハナンデスカ?」

目の前で展開される光景に、ミクが怪しい外国人と化してつぶやく。

はたと家族の存在を思い出し、カイトは可能な限り顔を起こして、呆然と見学している彼らを見やった。

「…がくぽって、疲れると、だれか抱っこしたくなるみたい」

「は?」

「なんか、ぎゅうってされるより、するほうが落ち着くんだって…っ」

説明するカイトの体を、がくぽが締め上げる。まるで抗議するようだ。

くちびるが首筋を辿って、カイトは言葉を継げずにがくぽの肩へと顔を埋めた。

懸命にがくぽにすがりついて、もどかしい衝動を堪える。宥めるように背中を撫でられるのがまた、かえって逆効果だ。

「ツマリハヂメテジャナーイ」

怪しい外国人のミクが、怪しいしぐさでメイコに訊く。

訊かれたところで、メイコにわかるわけもない。

うちのおとうとたちはいったいどうなってるんだと、目を白黒させるだけだ。

こういう場面で、適当なことを言って事態を濁してくれるマスターもいない。

「モシカシテー、オッジャーマデースカー」

「しっかりしなさい、ミク!」

外国人喋りが戻らなくなった妹の肩を揺さぶり、メイコは頷いた。

「とりあえず――とりあえず、写メよ!」

「めーちゃんが壊れてる…」

リンがぽそりとつぶやいた言葉にレンも同感だったが、ミクの感想は違った。

「そうだ…そうだね、写メらないとマスターに送らないとボクとしたことが、こんな大事なことを失念していたなんて!」

小さく叫んで、携帯電話を探しに飛んでいく。

焚きつけたことになるメイコは、そんなミクを見送って、首を傾げた。

「あら…。ちがう、なにか違うわ……でも、なにが…」

おろおろとつぶやきながら、再びソファを見やる。

はだけた首にがくぽの顔を埋めて、カイトはどこかうっとりと目を閉じている。

ひどく安らいで、同時にひどくもどかしい感情を抱いて。

カイトを抱きしめるがくぽの腕の力は、傍から見ても強い。

疲れているのに、弟妹を甘やかすことを止めないカイトを見かねての、方便ではないとわかるような。

カイトを甘やかすことで、同時にがくぽも満たされている。

それは、おそらく悪い関係ではない――

「…」

カイトが、マスターと自分以外のひとに、そうやって甘えることを良しとするとは思わなかった。

いつまでも変わらず、手のかかるおとうとだと思っていたのに。

「写メ…むしろ動画?!」

携帯電話を持って来て悶え叫ぶ妹の姿に、メイコは小さく首を振った。

とりあえず今すべきことは。

「ミク、あんたね隠し撮りって言葉も知らないの?!」

小声で叱咤して、メイコは携帯電話を構える妹の首根っこを掴んだ。