「出張」

がくぽはつぶやく。

きみがいない-01/開演-

がくぽの部屋に入って来て、普段の行儀の悪さを欠片も見せずに礼儀正しく畳に正座し、企画書を手渡したマスターは、笑って肩を竦めた。

「とは言っても二泊三日ほどの、ごく短いものですが……。私は、おもしろいので請けてみたいんですよ。今のがくぽさんにとって、良い経験にもなると思いますし」

「…」

説明されて、がくぽは不思議そうに瞳を瞬かせてマスターを見た。

マスターはマスターであると同時に、芸能プロデューサだ。フリーのプロデューサではなく、中規模の事務所に籍を置いての活動だ。彼女のロイドたちも同じ事務所に籍を置いている。

フリーではないことである程度の安定を確保したうえで、彼らがもっとも無理なく活動出来て、さらには地位を築けるようにこころを配りながら、仕事を請けている。

そのプロデューサである彼女が、これまで、この仕事を請けてみたい、とロイドたちに相談しているのは、見たことがない。

マスターとしてはゆるゆるな規範の彼女は、プロデューサとしては容赦がなく、仕事の選り好みなどさせないのだ。

それが、今回に限って。

瞳を瞬かせてそれ以上の言葉を継がないがくぽに、彼の懸念を察したのだろう。マスターは明るく頷いた。

「そうですね、普通の仕事だったら訊きません。ただ、今回は出張でしょうがくぽさんはまだ、旅行に行ったことがないので、環境の変化への適応性が未知数なんです。だから、適応性に不安を感じるようなら、なしにしようと思って」

「…そんなことか」

意外というより呆れて、がくぽは肩から力を抜いた。

今さらな感がある。

マスターの入れる仕事の無茶っぷりから考えると、この企画書の中身はごくまっとうだし、たかが二泊三日のお泊りごときで。

確かにがくぽは起動したてだが、精神年齢はまったく子供ではない。知識量も豊富だし、そんじょそこらの子供が、初めてのお泊りに行くのとはわけが違う。

それとも、とがくぽは眉をひそめた。

マスターから見て、お伺いを立てないといけないほど、がくぽは不安定に揺らいでいるように見えるのだろうか。

「…マスター。俺は、それほどに頼りないか」

躊躇いがちに訊くと、マスターは笑いながら首を横に振った。

「いいえ、そういうんじゃないんです。初めてお泊りをするときには、みなさんに訊いています。行けますかって。それで、行けるって言えたら、もうあっち行って泣こうが喚こうが、強行突破する言質になりますからね。がくぽさんは結局、経験がないですから、お泊りごときって考えますけど…。意外にもお泊りでお仕事って、いろいろ大変なんです。しかもうちの場合は、普段が大所帯でしょう家族と離れることも、考えているより負担が大きいんですよ」

「…そう、なのか」

そこまで考えていなかったがくぽは、もう一度企画書を見た。

確かに、がくぽひとりの指名だ。

では、がくぽはひとりで。

「『マスター』も同行しますけどね。初めっから、ひとりでぽんと放り出しはしませんよ」

「…」

いきなり胸に兆した不安を見透かされたように、軽く付け足される。

がくぽは気まずく俯き、それから顔を上げてマスターを毅然と見つめた。

「行ける」

「おやおや」

笑うマスターは、まるで幼い子を持つ母親のようだった。矜持から無理をする、やんちゃ息子を微笑ましく眺めているのに似ている。

そうと察して、がくぽはますます肩をそびやかせた。

「一度経験すれば、次からはなんとかなろう。初めての経験をさせるなら、おもしろそうな仕事のときが良い。辛い仕事で、さらに環境への変化適応までこなすことを考えれば、いい機会なのではないか。――俺の現在の認知度と、仕事の量と質的にも、そうなのだろう」

「見事な分析です。情報処理の確度がやはり違いますね。マスターから付け足すことは特になにもないです!」

「ふん」

心底から感嘆したように言われて、がくぽは鼻を鳴らした。

出来て当然なのだが、褒められて悪い気はしない。ただ、どうにもこうにも素直に反応出来ないだけだ。

「というわけで、そこまできちんと分析が済んで、事態を理解したうえでの、『行ける』発言だと理解しますが、いいですか?」

「くどいぞ」

企画書を振って、がくぽは胸を張って宣言した。

「おもしろそうな企画なのだ。乗らない手はあるまい。二泊三日ごとき、なんとかしてみせるわ」

マスターが笑って、がくぽの頭を乱暴に撫でた。

だから、そんな子供ではない。

はずだ。

***

「出張」

カイトが、驚いた声を上げる。

夕飯の食卓だ。

今日の当番はミクだったので、ダイニングの広いテーブルの上には、これでもかとネギ料理が並んでいる。そこに一品だけ混ぜられたナス料理は、これでいてミクのこころが広い証だ。――と、ミクが自分で主張している。

「あー、がっくんもとうとう、お泊りデビューなんだぁ」

カイトがそれ以上言葉を継ぐより早く、嬉々としてネギサラダをつまむミクが、弾んだ声を上げる。

「デビュー、というほどのものか…」

その言語センスに呆れたがくぽに、ミクは立てた人差し指を小刻みに揺らす。

「がっくん、お泊り甘くみたらダメだよ」

「そうだよぉ、がっくがくー。お泊りって大変なんだよ。だって、マスターしかいないし!」

「そうだぜ。にぃちゃんもねえちゃんたちもいないで、なんかあってもマスターしかいないんだぜ!」

「「大変なんだぞぉ?!」」

ミクに続く双子の言葉に、がくぽは思わずマスターの顔を窺う。

肉とネギの炒め物の、肉だけを取って食べている、まったく大人げないマスターは、がくぽの視線に気がついて頷いた。

「そうですよ。大変なんです!」

「いや、そこは否定しろ、マスター…」

不安を煽ってどうする。

「大丈夫よ、がくぽ。これでいてこのひと、野宿に関してはプロだって言うから。安心しなさい」

いやなにを?

マスターが食べない炒めネギを肴に晩酌しているメイコが、フォローにならないフォローを入れる。

そもそもがくぽは、キャンプに行くわけではない。野宿の腕前がプロ級だから、なんだと。

がくぽは項垂れて、それから天を仰いだ。

なるようになれ、だ。

「がくぽ、帰って来たら、なに食べたい?」

カイトがほややんとして訊く。がくぽは首を振った。

「いつの話だと思っている。まだ先なのだぞ。いくらなんでも気が早かろう」

「先の話なの?」

きょとんとして、カイトがマスターを見る。マスターは宙を睨んだ。

「一週間後ですね。先と言えば先ですが…」

「だめだよ、がっくがく食べたいものはちゃんと、リクエストしておいたほうがいいんだよ!」

マスターの言葉を遮って、妙に実感を込めてリンが叫ぶ。

「お泊りから帰ってきて、好きなごはんが並んでたときのあの感動って、すっごいんだからレンだって号泣したよ!」

「してねえよ!」

巻き込まれて、レンが悲鳴を上げる。

年頃の少年としては、こんなところで号泣伝説など、まったくもって有り難くない。

だが、姉妹が優勢なこの家において、どこまでも男の子の立場は弱かった。

「え、ボク覚えてるよ。目ぇ真っ赤にして、洟啜ってたじゃん」

「ごごご、号泣じゃねえだろ?!!」

「おにぃちゃんに抱っこされて、くすんくすん言ってた子もいたよ!」

「ごごご、号泣じゃねええええええ!!」

もはやそこしか主張出来るところはないらしい。

「いいじゃない、レンくん。かわいいよ」

「ごぬぁああああ!!」

おっとりぽややんとしたおにぃちゃんにトドメを刺されて、レンはショタっ子としてやってはいけない顔で吠えた。

不憫なおとうとにこころの中で合掌して、がくぽは固く決心した。

少なくとも、伝説をつくるようなことだけはすまい。涙目になることすら厳禁だ。なるつもりも今のところないわけだが。

反抗期であっても甘えたなおとうとと違って、がくぽは精神的に安定した大人として設定されている。少なくとも、里心がついて泣くような精神構造ではないはずだ。

「ね、がくぽ。出かけるまでに考えておいてね。俺、なんでもつくるから!」

末のおとうとをノックアウトしておいて、カイトは相変わらずの無邪気な笑顔でがくぽを見る。

がくぽは肩を竦め、頷いた。

「そうだな」

里心がつくかどうかはともかくとして、カイトが好物をつくって待っていてくれると思うと、それだけでこころが弾む。

気のない素振りで答えたつもりのがくぽに、姉妹たちが揃って、盛大なにやにや笑いを向けた。