夜になり、もう部屋でおとなしくしていなさい、と厳命されて、カイトが座りこんだのは、がくぽの部屋だった。

不在の主に無断で部屋に入りこむなど、してはいけない。

そう思っても、気がついたら座りこんでいて、もう立ち上がれないから、どうしようもない。

きみがいない-05/カイト-

「…なんで」

茫洋と暗い部屋を見渡して、カイトは小さくつぶやく。

「なんで、こんなに…」

彼がいつも焚き染めている香の薫りが、残っている。

派手に焚くものではない、と言って、いつもほんのわずかに薫る程度。

けれど、その薫りに包まれると、ひどく安心した。大きな胸にもたれて、強い力で抱きしめられて。

――カイト殿。

呼ばれる。

そうすると、とてもうれしくなった。

もっと呼んで、もっと呼んで?

甘えるように擦りつくと、腕の力はますます強くなって。

どこまでも、受け止められて受け入れられる。

安心感は、これまで感じたことがないものだ。

もちろん、マスターだってメイコだって、抱きしめてくれたし、カイトがどんなふうになっても受け止めて受け入れてくれる。

確信も確証もあって、それでも。

「…なんで」

カイトはつぶやく。

その先の言葉が、自分で見つからない。

なんで――なんで?

触れる手が、撫でる手が、抱きしめる手が。

いないいないいないいないいないいないいない――

明日には、帰ってくる。

明日には、帰ってくるけれど。

今、ここに、今、いない。

今。

今!

「カイト」

「…」

声を掛けられて振り仰いだ先に、妙に歪んだメイコがいた。

「部屋にいなさいって、言ったのに」

「……めー、ちゃん」

「怒ってないわよ」

軽い口調で言って、メイコはカイトの傍らに座った。手が伸びて、頬を撫でる。

「こんなに泣いてる子のことを、怒るほど鬼じゃないわ」

「…」

言われて、カイトは映像が乱れている理由を知った。

泣いているのだ。

だが、どうして。

「めーちゃん」

「がくぽには内緒にしててあげるわ。だから、今日はこの部屋で寝なさい。明日、がくぽが帰ってくるころに起こしてあげるから」

「めーちゃん」

「大丈夫よ。明日になったらきちんと帰ってくるから。そしたら、おいしいものつくってあげるんでしょう?」

流れる涙を止める術も知らず、カイトはメイコを見つめる。歪んで流れて、きちんと見えないメイコを。

縋る手を伸ばしたカイトを、メイコはやさしく抱きしめた。

「いい子にしてなさい、カイト。これ以上、ケガしたらだめよ。これ以上、ケガしたら――ラボに、行かなきゃいけなくなるわ」

「…っ」

ひく、としゃくり上げて、カイトはメイコの胸に顔をすりつけた。メイコの手が、母親のように自分を抱きとめてくれるのがわかる。

どうして、これは違うと思うのか。

どうして、あの腕がいいと思うのか。

カイトはしゃくり上げながら、メイコに縋りつく。

「がくぽだって、帰って来てびっくりするわよ。あんたがそんなに傷だらけだったら――」

「っ」

びくりと震えて、カイトは顔を上げた。その瞳に浮かぶ怯えに気がついて、メイコはやわらかに笑う。

「大丈夫よ。擦り傷は全部、補修材できれいに消したでしょう。ちょっと見にはわからないわ。打ち身は――まあ、がくぽの前で裸にならなきゃ、大丈夫よ」

「ん」

肩を竦めるメイコにきまじめに頷いて、カイトは袖を伸ばすとごしごしと顔を擦った。

「ばかね、あんた。そんなことしたら、赤くなってかえって残るわよ」

「あのね、めーちゃん」

そっと腕を取るメイコを、カイトは真剣に見つめた。

「あのね、俺、どうして――」

「…」

どうして、の言葉の後には、きっと、どうしてこんなに、がくぽがいないのが厭なんだろう、と続いたはずだ。

どうして、がくぽの不在が耐え難いんだろう、と。

そうしたら、メイコは答えを教えてやるつもりだった。

あんた、さびしいのよ。

大好きなひとが、傍にいなくて。

ちょっとの不在も、わずかな距離も我慢できないくらい、ものすごく好きなひとが、いなくて。

こころが虚ろになっちゃうくらい、さびしいんだわ――

自分で答えに行きつくまで、待つつもりだった。カイトの生きる速度を考えれば、性急にことを進めてもいい結果にならない。

だから、カイトが自分で自分の気持ちを見つけるまでは、だれがなんと言おうと、傍観しているつもりだった。

けれど、もういいと思った。

こんなに傷だらけになって、こんなに泣いて。

それでも迷子のままなら、手を伸べたところでなにが悪いだろう。

そうやって互いに手を引き合って、自分たちは生きてきたのだから。

「…」

「…」

言葉を探していたカイトが、ふと目を見張って、動きを止める。

信じられない、とでもいうようにくちびるが空転したあと、いつものおっとりぶりが嘘のように跳ね上がり、部屋から飛び出して行った。

「カイト?!」

この反応は、最近見慣れてきた。

だが、今、どうして。

思考が追いつかずに一瞬呆然としたメイコだが、すぐに立ち上がった。

カイトの現状だ。どこでなにに激突するかわからない。

足音を追うまでもなく目的地はわかっていて、メイコが慌てて玄関へと走ると。

そこには、カイトの乱暴な足音を聞きつけて、同じく心配のあまり顔を出したミクがいて。

そして。

「おかえり、がくぽ…!!」

玄関の扉を閉めることもなく、開けたままの場所で、カイトに抱きつかれたがくぽが立っていた。

「…ちょっとー……うーわ、まじですかー」

半眼になったミクがつぶやく。

時刻は深夜の十二時。

まともなご帰宅時間ではない。

それ以前に、帰宅予定は明日――もう今日と言っていいのか――の午後のはずだ。

それがどうして、半日も早くここにいるとか。

カイトに抱きつかれて呆然と立ち尽くしているがくぽの矜持の高さを考えると、仕事を途中で放り出して来たとも考え難いが、この早さ。

「…とりあえず」

メイコは一瞬落とした肩をいからせると、がくぽに抱きついているカイトの襟首をつまんだ。

「カイト、あんた、扉くらい閉めさせなさい。虫が入るわ」

「んん」

むずかるような声を出して、カイトはますますがくぽにしがみつく。

メイコは肩を落とし、また頑張っていからせた。

呆然としているがくぽを睨む。

「がくぽカイトを抱っこして、家の中に入りなさい!」

「…あ、……ああ」

恐怖のお姉さまの命令に鈍い返事を返し、がくぽはカイトの体に腕を回す。

「カイト殿」

ささやく声が、背筋に虫でも走りそうなほど甘い。

そうやってささやきで、腰に回された腕を首へと移動させて、がくぽは疑問もなくカイトを抱き上げて玄関の中へと入った。

そしてそのまま、なにも言えずにカイトを抱き竦めて、肩に埋まる頭に顔を寄せる。

「………うぅーわぁー……お腹立ちまっくすー………」

ミクが根暗くつぶやく。

こうやっているふたりが、実はお互いがお互いのことを好きだと知らないとか――あまりにも鈍感過ぎて、言葉を失う。

「がくぽ、仕事はどうしたの?」

気になる一点だけを訊いたメイコに、カイトの頭に顔を埋めたがくぽは、億劫そうな視線を投げた。

「終わらせた」

「…」

終わる仕事なのだろうか。

疑問には思っても、メイコはそれ以上、訊かなかった。

今の状態では訊いても答えられないだろうし、それになにより。

「ミク。こういうのをお邪魔様って言うのよ」

「はっらたつぅううう……っっ」

さんざん掛けられた心配の分だけ、がくぽを虐め倒したいのだろう妹の襟首を引きずり、メイコは玄関を後にした。