眼前に突きつけられたのは、みかんの缶詰だった。奏が用意した、今日のおやつのトッピング(予定)だ。

突きつけた少女は、勢いままに叫ぶ。

「あのねっリンね、レンよりもみかんが好きっ!!」

And tells us no lies

「………」

空白の表情となって、レンは眼前に突きつけられたみかんの缶詰を凝視した。

リンはレンよりも、みかんがすき。

レンよりも、みかんがすき。

みかんが――

「っきゃぁあああ!!マスタぁあああ!!レン、レンがっレンがたおれたぁあ!!いやぁああ!!」

「あああもう、おまえたちはっ!!」

ものも言わず床に倒れたレンを膝に抱えたリンは、悲鳴とともにけたたましく奏を呼ぶ。呼ばれた奏もまた、悲鳴で返した。

ここをどこだと思っているのだろう。

自宅ではない。主家――使用人であり、家政夫である奏の雇用主の家なのだ。

そこにたまに連れて来ると、これだ――しかも二人がいるリビングには、主家の夫婦も揃っているのだ。ますますもって、時と場合とあとなにかを考えなさいと言いたい。

とりあえずはもう二度と、なにがあっても甘い顔などせず、絶対に連れてなど来ない。

決意を新たにしつつ、奏はキッチンから飛び出した。

「リンそういうことは家でやりなさい若様のおうちでやるんじゃありませんすみません、カイトさんがくぽさん………っ」

「ぅえええっ、ますたぁあっレン、レンどうしようまさか、まさか倒れるなんて………っぃっひぐぅっ!」

「ああもう、ほんとに……!!」

リビングの窓辺に座って騒ぎを眺めている主家夫婦に謝る奏だが、パニックを起こしたリンは構わず取り縋る。

本気で泣いている。

奏は己のロイドの不始末に頭痛を覚えつつ、完全に意識を飛ばしているレンに向き合った。

本当にことを早く治めたいなら、説教や謝罪に費やす時間を先に、レンの状態を見極めることに使ったほうがいい。

若くとも有能な使用人である奏は、そこの判断がまた、素早く躊躇いがなかった。

「泣いててもいいから、声だけ殺して、リン。音を聞きたい」

「ん、ん………っ、っく、ふ………っ」

真剣にレンに向き合ってくれた奏に安心して、リンは言われるがまま、懸命に嗚咽を咬み殺した。

リンはマスターである奏を信頼している。『マスター』がきちんと向き合ってくれるなら、揺らいだ精神バランスもすぐに取り戻せるのだ。

それが人間の子供とロイドの『子供』の、もっとも大きな違いだろう。

「………ふん」

振り返って己はどうだろうと考え、がくぽは鼻を鳴らした。

がくぽは自分のマスターを信頼していない。たとえあちらが真剣に向き合ったとしても、揺らいだ精神バランスを取り戻すことは難しいだろう。

がくぽの精神バランスはマスターではなく、傍らに座る妻――カイトに依っている。

常に湖面のように、青い瞳を揺らがせる同性の『妻』に。

がくぽが揺らぐも安定するも、すべては妻次第だ。

考えるまでもなかった結論に、がくぽは自然とカイトを見た。

がくぽが信頼を抱けないマスターの好みによって、箱庭のうたうたいとして特化したカイトだ。目の前で異様な騒ぎが巻き起こっていても、それを正確に理解したり把握したりすることが難しい。

大抵はうたに没頭していてきれいに流してしまうが、たまさか意識が向いていたなら、問題だ。どこでどう動揺するのかが、がくぽには未だに掴み切れていない。

窺う表情になったがくぽだが、カイトはいつもと同じ茫洋とした表情だった。

どうやら騒ぎが理解できず、しかし気に留めるほどのことだとも思っていないようだ。

そう判断してわずかに体を引いたがくぽを、カイトは首を傾げて見た。

「っ」

けぶる瞳に見つめられて、強張ったのはがくぽの反射だ。抱く愛情とは別のところで、危機感が働いた。

カイトの言動のパターンが未だに掴み切れていないがくぽだが、それなりに学習したこともある。すべて理解できていないわけではないのだ。

それからするに、今のこの状態は――

「がくぽ」

静かに口を開いた奥さんは、不思議そうに首を傾げたまま、愛おしい旦那さまに告げた。

「俺は、アイスよりもがくぽのほうが、好きですからね?」

「……っっ」

違う。

せっかく奥さんから、うれしい愛の告白を貰ったというのに、がくぽは背筋を震わせて仰け反った。

がくぽの愛しい奥さんはどうやら、目の前の騒ぎを中途半端に吸収し、反応したようだ。

しかしそもそもの発端は、『違う』のだ。

多少の喧嘩はしても、結論的には互いに依存しあう、溺愛カップルである奏のロイド、リンとレンだ。

そのリンが、特に喧嘩もしておらず、へそも曲げていないというのに、大好きなレンに『みかんのほうが好き』と告げた理由。

今日の日付だ。

四月一日――エイプリルフール。

ウソツキの日だ。

リンの言葉は本来、裏返して聞くべきだったのだ。

つまり、『レンよりもみかんのほうが好き』は→『みかんよりもレンのほうが好き』に。

――溺愛中の恋人間でよく見られる、伝統の遊びだ。なによりも誰よりも、あなたが好きなのと伝える。

その遊びにまともに反応して倒れるレンもレンだが、今はがくぽの奥さんだ。

どうしたものだろう。

「がくぽ?」

「ぅ、ああ、その……っ」

おそらくカイトは、エイプリルフールを知らない。ましてや『今日』がエイプリルフールであるなどとは、まったく意識にないと断言できる。

だからカイトは純粋に、がくぽに愛の告白をしてくれたのだ。

アイスよりも、旦那さまが好きだと。

うれしい。

うれしいが、返すがくぽだ――今日がエイプリルフールだと、知っている。だからといって、すべての言葉を嘘にしなければいけない決まりはない。むしろ一日にひとつも嘘をつけば、十分だ。

だから素直に、自分もカイトを愛していると――返せばいいが、発端となった騒動だ。

リンは言葉を裏返して、レンに愛の告白をしている。

カイトはがくぽがよくものを知っていると、とても頼りになる旦那さまだと信頼してくれている。

なにかの拍子に今後、カイトが『エイプリルフール』の存在を知ったときに――まかり間違って、今日のこの騒動を思い出し、挙句に返されたがくぽの言葉を重ねて。

「っぇえいっ!!」

「ぁっ、んっ?!」

――無為な思考を高速で空回りさせた結果、どこかしらの回路が切れたがくぽは、大人しく答えを待っていたカイトを強引に抱き寄せた。

抱き寄せるのみならず、悩ましい言葉を吐きこぼすくちびるを塞いで、貪る。

「ぁ、あ…………っん、んんん………っっ」

懸命に縋りついて応えるカイトだが、今日のがくぽはいつになく激しく、荒々しかった。行為に馴れてきたカイトであっても、とても応えきれないほどに。

「ふ、ぁ……………っ」

募り過ぎた熱に、一時的に回路が切れて意識を飛ばしたカイトの体から力が抜け、がくぽの腕に重みが掛かる。

崩れる体を抱きしめて、がくぽは己の不甲斐なさに歯噛みした。

奥さんの告白に応えきれず、体で誤魔化すなど最低だ。

「すまん………」

項垂れたがくぽは折れよとばかりにきつく、最愛の奥さんを抱きしめた。

がくぽの精神バランスを揺らがすも安定させるも、すべてはこの悩ましい奥さん次第――

その後。

仕事から帰宅したマスターが、相変わらずよくわかっていないカイトからことの顛末を訊き、『いくらなんでも考え過ぎだってこんだけ愉快なエイプリルフールも聞いたことないわ!!』と腹を抱えて爆笑し、がくぽに激しく罵倒されたのは――

言うまでもない。