HEY My kitten, My deary

いつものリビングだ。向かい合わせで座った最愛の旦那様の言葉に、カイトは小さく首を傾げた。

内心で不審がるだけでなく、けぶる瞳に不可解を宿し、抱いた疑問を素直に口に出す。

「『口説きたい』というのは、どこの『カイト』をで…す………」

――カイトの語尾が曖昧に消えたのは、自らの内から湧き起こった感情によるものではない。

訊かれた瞬間にがくぽ――カイトの最愛の旦那様にして、カイトを盲愛する夫が閃かせた表情による。つまり、なんと表現したものか――曰く言い難い――言葉とし難い――

とにかく、あまりの浮世離れぶりに『天女』と仇名されるカイトですら瞬時に理解できるほど、とてもまずい表情となったのだ。

とはいえ、それも当然だ。

自分以外の、どこの誰を口説く気なのかと――

カイトが不実を糾した相手は、カイトが愛するだけでなく、カイトを溺愛する相手なのだ。

「…否、すまぬ。俺の言い方が悪かったのだろう。『カイトを口説きたい』なぞと、すでに妻たるそなたへ改まって申し出せば、そういう誤解も生じよう」

しかしがくぽだ、伊達の夫の座ではない。こういうカイトの相手も馴れている。すぐさま気を取り直し、そう詫びてきた。

対する、カイトだ。再び、首を傾げた。

「そういうものなんですか?」

非常に訝しげに、つぶやく。

「ふっ……」

浮世離れも過ぎて『天女』と仇名される奥さんからの、ある意味で無邪気、逆を反して冷徹ですらある問いに、がくぽは微笑みを返した。力いっぱいの。

「そういうことにしておけ。そなたに情けがあるのなら」

「………そういう難しいことは、あなたに任せています」

さすがに気後れしたふうに身を縮めたカイトへ、がくぽは笑みにこめた余計な力を抜いた。

「それで、カイト。改めてとなるが…」

「いえ、はい。……ええ、つまり………?」

一度、崩れた場の空気を持ち直すべく、がくぽはさほど崩れていなかった姿勢をそれでも正して訊いた。

カイトも釣られて背を伸ばしつつ、訝しく眉をひそめた。ことの発端である夫の言葉を思い返す。

だから、つまりだ。

――すまぬ、カイト。カイトを口説きたいのだが。

夫は突然、そう、言いだした。

これはカイトの、文脈に疎いとか、そもそも処理が追いつかないだとか、あるいは空気をいっさい読まないだとかいう、極めた天女特性ゆえに生じた問題ではない。

今回の場合、真実、夫の言いだしには前触れがなく、脈絡もなかった。正しく、突然だったのだ。

突然に、――否、違う。そうだ、違う。確かその以前に、若干の不自然な空漠があった。

普段は空気も読まず、機微にも疎いカイトだが、これには気がついた。

積み重ねた夫婦としての日々に、さすがに学習していたからだ。夫が『こういう』空漠を晒すときには、大概ろくなことを考えていないと。

がくぽも名ばかりの夫ではなく、天女たる妻を日々、学習しているが、カイトとて同様だ。がくぽほどの目覚ましさはないものの、相応に夫を学習している。

それで、そう――

見計らったわけではないだろう。しかし、ろくなことを考えていないときの空漠だなと、カイトが不穏さに勘づいたところで、がくぽは口を開いた。

――カイトを口説きたいのだが。

先に不穏さを覚えていたせいだ。カイトは咄嗟に自分のこととせず、どこの誰とも知れない『カイト』――KAITOシリーズの誰を口説きたいのかと、返してしまった。

それが先の顛末であり、今だ。

「………」

ふむ、なるほどと、カイトはようやく追いついた経緯と思考の処理に頷き、神妙に待つ夫へ顔を向けた。

「お断りします」

――静かながら、断固として返す。

がくぽは切れ長の瞳を限界まで丸くし、取りつく島もなく、身を固める奥さんを見た。

「カイト」

「間に合ってます」

なにか陳情でも連ねようとしたのだろうがくぽを遮り、カイトはほとんど冷然と、突き放した。言葉だけでなく、顔も背ける。

「俺はすでにあなたの妻です。もはや新婚という年月も過ぎたというのに、今さら口説かれなければならない謂われはありません」

刺すら含んで口早に、カイトは吐きだす。

とはいえその刺には、相手を傷つけるべく突き出されたという感がない。ハリネズミがなにかに怯え、身を守るために針毛を立てたような、――

「日々、褪せることなく尽くしてくださる誠意であなたの愛情は十全に伝わっていますし、今さら改めて口説かれなければならない不信もない。いったいなんの不足があって、今さら」

「それだ、カイト」

全霊を懸けて警戒を剥き出すカイトの苦闘を嘲笑うかのような手並みで、がくぽは鮮やかに割って入った。

肩を跳ねさせ、反射的に顔を向けた奥さんへ、がくぽは穏やかな微笑みを浮かべつつも、空けられた距離を無為と、瞬間に詰める。

「それだ、カイト。それこそが、そなたの誤解の最たるところだ。比べれば先のあれなど、ちょっとお茶目な冗句で済む程度のものだぞ?」

「ぁの」

「いいや、明らかだ。『なんの不足があるのか』と、そなたは訊いたろうそれこそ、そなたが俺を誤解していることの、なによりの証だ。これ以上の弁なぞ、まるで必要もない」

「いえ、が」

「ああ、皆まで言うてくれるな、カイト。先こそああいう言いをしはしたが、そなたに情けがあることは今や、重々にわかっている――うむ。言い訳でしかないな。俺も自らで情けなく思う。しかしだ、情けないからと見ぬふりでどぶに沈めるより、俺は恥を晒してもそなたに伝えたい。それこそ、先にそなたが言ってくれた、俺が唯一に尽くせる誠意であると思うからだが」

「ひぅ…っ」

立て板に水だ。それも、絶妙な。

もう少し早い口調であれば、カイト――旧型機としてスペックの劣るKAITOシリーズにとっては、雑音同様と、流せるようになる。

が、がくぽの口調は立て板に水と速いが、追いつけないからと、聞き流せるところには達していない。

けれど万事鷹揚にできているカイトが、口を挟む隙を見出せるほどでもない。

まさに、絶妙だ。自らの奥さんについて、実によく学習している。目覚まし過ぎて、カイトには永遠をかけても到達できる気がしない領域だ。

若干どころでなく身を引くカイトも、がくぽは意に介さない。引かれれば引かれた分だけ身を乗り出し、無情に距離を詰める。

ほとんど押し倒すような体勢となりつつ、がくぽはさらに饒舌に続けた。

「完全に言い訳ではあるが、婚姻当初の――つまり新婚の時代の『俺』は、同時に、『生まれたばかり』でもあったな誇張もなく、喩えでもなく、起動して即、そなたと結婚だからな。そんな未熟を極める俺ではあるが、そなたが夫として盛り立ててくれればこそ、なんとか体裁を整え、ここまでやって来られたわけだが」

「そ――っう、でした、か?!」

なんとか差し挟めたカイトの疑義は、がくぽの『生い立ち』に関してではない。自分たちの馴れ染めでもない。

天女と仇名されるほど浮世離れして、うたう以外のなにもできない自分が『夫を盛り立てられた』ことなど、果たしてあったかという。

起動直後から、がくぽはカイト以上に器用であり、すでに多くのことをこなしてみせた。

がくぽにしてもらったり、教えてもらったことは多かれ、カイトには自分が、いわば『姉さん女房』として、なにか助けてやれたという記憶がいっさいない。

言われていることが理解不能であればともかく、理解できればこそ、これにはカイトも口を挟まずにはおれなかった。

の、だが。

「そうだ」

――一片の迷いもなく、躊躇いもなく、がくぽは肯定した。首肯した。頷いた。

瞳に宿る色は真摯で強く、まるで翳らなかった。

「そ………っ」

引きつり、言葉を失くしたカイトへ、がくぽはさらに熱心に膝を詰め、身を乗り出す。

「俺も相応に年を重ね、こうして経験を積むとな――否、未だ、自らがそう大したものとなったとは言わん。言わんがしかし、少なくとも新婚のあの当時よりはましになったと思うのだが、そうするとな。ふと思い返したときに、自らの未熟さに愕然とするだろう。なんと不足ばかりを重ねてきたものかと、いいや、『不足』ではないな。過ぎればもはや、『不実』だ。そなたは俺が誠意を尽くしたと言うが、とてもそうは思えん。なにより愛する妻たるそなたへ、俺はなんと不実であったものかと、悔いられてくいられて悔いられてっ………――!!」

「な、ならば、思い返さなければ、ひぐっ」

凄まじい眼光に射貫かれ、決死の反論を紡いだカイトはあえなく口を噤んだ。

わずかにやわらげたものの、がくぽは未だ厳しさの残る瞳で、怯える奥さんを見据える。

「不実に不実を重ねれば、先々もまた、不実の重ね続けとなろう。俺は妻たるそなたへ、そんな仕打ちをするつもりはない」

言いきって、がくぽは意識したように、体と表情から力を抜いた。警戒中のハリネズミと化している奥さんへ、春の日差しのように微笑みかける。

「というわけで、今さらとはわかっているが、口説きたい。俺が年経たことで、ようやく気づけたそなたの魅力について、改めて伝える場が欲しい。そなたの夫に挽回の機会を与えてくれ、カイト。ひいてはその、新たな魅力についても俺が愛していると、――俺が愛することを、そなたに赦されたい。つまり口説きたい」

ほとんど駄々を捏ねるも同じ状態となってきた夫に、カイトは首を横に振った。振って、振る。

「カイト」

目を回すぞと、夫の意識がわずかにずれた隙を狙い、カイトは急いで口を開いた。

「大丈夫です。言ったでしょう。間に合っています。あなたは俺よりはるかに俺のことを理解してくれていましたし、不足などありませんでした。いいえ、今もです、理解してくれていますし、俺は不足など感じていません。もうおなかいっぱ…」

「いやだ。口説く」

「ぃ、や……っ?」

――ついに、誰が聞いても間違いなく、駄々と化した。

絶句したカイトにも気後れを覚えた様子はなく、がくぽはむしろ自信と希望に満ちて身を乗り出す。

「そなたは無欲に過ぎる、カイト。俺は年経てようやくそれを理解した。以前にもなんとなくそういった気はしていたものだが、特化し過ぎたがためだろうという程度の認識だった。しかし違う。それこそ、俺が未熟であり、理解が浅かった証だ。そうではなく、そなたは無欲だ。欲がない。否、若干はあるが、ひどく薄い。先の話ではないが、それこそ外の、ほかのKAITOと比べて俺は確信したのだが、たとえばアイスひとつとったところで、そなたの慎ましやかなこと――」

…………………………

………………………………………

……………………………………………………

「きゅう………………っ」

「カイト?」

大丈夫か、と。

まるで他人事のように案じてくるがくぽを、カイトはほとんど床に頽れた姿勢で恨めしく見上げた。

およそ十分だ。

十分以上の長きに渡り、休息もなく掻き口説かれ続けた。それも例のあの、絶妙な間合いでだ。聞き流せないが口も挟めないという。

聞き流せないから聞くしかないから聞いた結果、先に処理限界を超えた。情報過多だ。

聞き流せないから聞くしかないから聞けば、当然、至る結末ではあるがしかし。

恨みがましくも、いつも以上に焦点のぼやけた回る目で、カイトは案じるがくぽを見返した。戦慄くくちびるを、ようやく開く。

「わ、かり、ました………くど、口説きたい、なら、……………どうぞ、お好きに……」

「カイト…!」

白旗とともに受け入れてくれた奥さんへ、がくぽは光り輝いて見えるほどに表情を弾ませ、手を伸ばした。

諦めきった表情で――呆れ返ったふうに見つめるカイトを抱きこんで、がくぽは莞爾と笑う。

――ほんとうに、ろくなことを考えない。

思いながらも、あまりに幸せに満ちた笑みに釣られ、カイトもくちびるを緩めた。同時に強張っていた体も解き、頼もしくも愛らしい旦那様に、全身で甘えかかる。

「では、改めて、カイト――」

「はい、旦那様…」

「いやもう八割がた終わってないさっきのでもうほぼほぼ口説き終わってないか旦那さん」

水を差す疑義を呈したのは、キッチンとリビングダイニングを隔てるカウンタの椅子に座り、一部始終を聞いていたマスターだ。

が、当然のごとく、同じ室内にいる当のご夫婦から答えを得ることはできなかった。ご夫婦はいわば、撥水加工済みであり、この程度の差し水であれば、苦もなく彼方へと弾き飛ばすからだ。

なにより今、これからというときに、この程度の疑義にかかずらってやる間など、いっさいない。

「お言葉ですが、若様――」

代わって答えたのは、キッチンの中で本日のおやつの仕込みをしていた、当家専属の家政夫:奏-かなで-だ。暇がないという意味ではより以上であるのだがしかし、とにもかくにも、彼には主の存在を無きものと扱う習性がない。

「今のでしたら、まだ、三割程度かと。本番は確かに、これからです」

曖昧な推量というふうではなく、明確な根拠がある様子で説く。

常日頃から奏を重用するロイド夫婦のマスターだが、これには首を傾げ、キッチンへ顔を向けた。

「そうなのか?」

「ええ、そうです。といっても私も、八割程度までしか見たことがありませんが……」

「そうなのか?」

どこか子供のように無垢な表情を浮かべる年上の主へ、奏は慈愛に満ちた母親のような笑みを返す。

「八割を超えると、若干、人前では憚られる状態になりますので……私が先に退散することもありますし、がくぽさんがカイトさんを運んで、自室へ篭もられることもあります。が――とにかく、今はまだ、がくぽさんはカイトさんに一指も触れておりませんでしたし、あれでしたら、進捗三割という程度ですよ。まだまだです」

「そ――」

言いかけて、珍しくも奏の主は口ごもり、黙った。

わずかな沈黙ののち、顔だけ戻して未だリビングへ向けていた体を、キッチンのほうへ直す。小さく、首を傾げた。

「奏。――おまえずいぶん詳しいな?」

「ええ、何度も見ておりますし」

微妙に改まった調子で、なにかを探るように訊く主に対し、奏は気負うこともなく答えた。

「がくぽさんはどうも、――普段、堪えている反動ではないかと思うのですが……、ええ、つまり、あまりしつこくして、万が一にもカイトさんに鬱陶しがられるのを、おそれていらっしゃるのでしょうね。日常で愛情表現が過ぎないよう、抑えておられる節があるのですが――結果、ひと月に一度ほど、溜めこみ過ぎた愛情をああして爆発させては、カイトさんを口説き倒したい発作を起こされますので」

いわば恒例行事なのだと――

ひどく微笑ましそうに説明した奏だが、奏の主にしてロイド夫婦のマスターでもある彼は、やはり珍しくも、浮く様子がなかった。

迷いに満ちて、戸惑うようにつぶやく。

「なんだかちょっと――なかなかすごく刺激的な日常。かな?」