「カイトさん!」

警戒を解かないがくぽに、奏、が悲鳴を上げる。

穏やかに事態を見守っていたカイトは、助けを求められてようやく、微笑んで頷いた。

「がくぽ、そのひとが奏です」

My Pretty Maid-03-

「…っ」

がくぽは少なからぬ衝撃を受けて、呆然と奏を見た。

想像していたとおりに若い。まあそれなりに、きれいな顔立ちをしている。

しかし、男だ。

「…『奏』は、ハウスキーパーだと聞いたのだが」

「その通りです。…あなた、がくぽさんですよね昨日、起動したんですよね。タイミングが合わなくて、昨日のうちに顔合わせができなかったんですが」

そこまで言って、奏は頭の上に掲げたままの両手を情けなく揺らした。

「若さまになにも聞いてないですかああいえ、愚問でした。聞くはずないですね、言うはずないです。若さまですから」

「わかさま?」

耳が腐り落ちそうな単語に、がくぽは表情を険しくした。奏がますます情けない顔になる。

「なにも聞いてないんですかああいえ、ほんと愚問です。聞くはずないですね、言わないですものね。若さまでした。とりあえず、訊かれることにはすべてお答えさせていただきますから、警戒を解いていただけませんか」

がくぽはわずかに考え、野生動物のように緩やかに、警戒姿勢を解いた。

渋面なのは仕方ない。幾重にも衝撃を受けて、それがまだ解消されていないのだから。

がくぽがとりあえず受け入れる姿勢を見せたことで、奏はリビングに入ってきた。

素早く視線を巡らせ、カウンターに重ねられた使用後の食器を見つけ、目を見張る。

「だれが用意したんです?」

「俺だ」

それ以外にだれがいるというのか。

当然と答えたがくぽに、奏はますます目を見張った。

頭のてっぺんから爪先まで、舐めるようにがくぽを観察する。

「起動して二日目でしょうもうそんなことができるんですかというか、よく若さまが赦しましたね」

「赦すも赦さないも…。ちょっと待て、まずいのか」

コードに触れる単語を聞き、がくぽはさまざまな疑問を一旦棚上げして、そこを確認した。

奏は首を傾げる。

「ボーカロイドはうたうためのもので、雑多な生活のことをやらせるものではない。――というのが、少なくともこれまでの若さまの主張でした。ええと、ほら…。だから、カイトさんはなにもしないでしょうでも、あなたはどうなんでしょうね。カイトさんにはしつこく念を押しておられたけれど、あなたは言われてないからやったわけですし」

そういえば出掛け間際にも、自分の世話をさせるために云々とは言っていたような気がする。そこまで深い意味があるとも考えずに、思うままに行動してしまったが。

顔をしかめるがくぽに、奏は肩を竦めた。

カウンターに置かれた食器を持つと、キッチンへ回る。シンクに放り込んで水につけると、スポンジを手にした。

「だいじょうぶですよ。あなたができたということは、若さまは禁止していないということです。禁止されたことはできないでしょうでも不安でしたら、今日はこれ以上、家のことはせずにいましょう。若さまがお帰りになったら確認して、だめだということになったら、明日から考えればいい」

「ああ」

明瞭な説明に、がくぽは肩から力を抜いた。解釈がわかりやすくて助かる。

がくぽはカウンターに据えつけられた椅子に座ると、手際よく食器や鍋を片づけていく奏を見た。

「あのな。貴様の言う『若さま』というのは、マスターのことか」

「そうです。若さまのお父様は旦那様、お母様は奥様、弟君はぼっちゃま、お祖父様は大旦那様、お祖母様は大奥様ですね」

ご大層な呼び名だ。

がくぽはいやな予感を覚えて眉間に溝を掘った。

「もしかして、マスターは金持ちなのか」

「…っ」

咽喉に痞えたものを吹き出すような音がした。

昨夜の夕飯分の食器も含めて洗い流していた奏が、むせ返って手を止める。

「ええとその、名家のご出身ではあられます。いくつか会社も経営しておいでですしね。資産はありますから、食いはぐれる心配はなさらなくて結構ですよ」

「…社長なのか」

あれで、と呆然としてつぶやいたがくぽに、奏は微妙な沈黙を返した。

それほど汚れてもいないキッチンを丁寧に磨いて回る。カウンターの前までやって来ると、コーヒーの入っていたポットを掴み、中身をシンクに捨てた。

「社長は旦那様ですね。ぼっちゃまがただいま、社長修行の身です。若さまは…その、名誉顧問という形で、経営に参加しておられます」

「あの年で、名誉顧問?」

それは普通、引退した老人に与えられる称号ではないだろうか。さもなければ。

「よほどの失態をやらかしたのか」

「違います」

苦々しく吐き捨てたがくぽに、奏は意外なほどきつく否定した。

アイドルもびっくりの華麗なターンを決めて振り返ると、カウンター越しにがくぽを見据える。

「閑職ではありません。相談役として、会社を引っ張っておられる立場です。あのような身であることが失態だなどとは言わせません」

「あのような、身?」

鬼のように迫られて、わずかに身を引きながら問い返したがくぽに、しかし奏は気がつかない。

心底から悔しそうなその様子は、本気でマスターのことを思っている顔だ。

あれもしかして?

ふと疑問を感じ、がくぽは奏を見る目を変えてみた。

「私が言うのはおこがましい限りですが、よく務めておられます。旦那様もぼっちゃまも頼りにしておられますし、重役からも一目置かれる存在です」

「貴様との関係は?」

遮って訊いたがくぽに、奏の顔に一瞬、動揺が走った。しかしすぐに、平静が取り繕われる。

「私の家は古くから、若さまのお家に住みこみで働いています。私も家族同様、若さまのお家に仕えている身です。今は、若さまがこうしておひとりでお住まいなので、その、非常に恐縮ではあるんですが、お隣に居を構えていただいて、通いの家政婦紛いのことをしていますが」

「…隣なのか?」

思わず胡乱な声を上げるがくぽだ。

相場を知らない自分には詳しいことはわからないが、それでもこのマンションが、そう安い買い物でないことはわかる。

それを、隣同士で二件。

しかも、『家政婦』ひとりを住まわせるために?

奏が気まずい顔で咳払いする。

「以前のお宅はお邸の近くにあったので、そこから通っていたんですが…。こちらは、少し遠くて。でも、通うと申し上げたんですよそうしたら、いい機会だから親元から離れて生活してみろと言われて、あれよあれよと」

恨みがましそうに言いながら、奏は深いため息を吐いた。

「どうせなら、こちらに住みこませていただきたかったです。そうしたら、朝からきちんと送り出して差し上げられるし、生活のご不便なことを都度つど、助けて差し上げられるのに」

「…」

先入観を捨ててみれば、奏はがくぽが妄想した通りだった。

そもそもがくぽだとてカイトの『旦那様』として迎えられたのだから、最初から可能性を捨てて考えるほうがどうかしている。

俄然湧き立って、がくぽは性質の良くない笑みを浮かべた。

「だが、休みがなくなるだろう。今だとて、休日もなく通っているというではないか」

水を向けたがくぽに、奏はどこか必死な感情を閃かせた。

「そんなもの。若さまのことを思えばうかうかと休んでなどいられません。最初のころ、どうしても休みを取れと言われて、取ったあとのあの惨状。あんな状態に若さまを晒すくらいなら、私の休みなど要りません」

「ほかの家政婦を雇ったらどうだ」

「若さまのお世話を一朝一夕にこなせるような人間などいません。わずかの間でも若さまにご不便をお掛けするようなことは、絶対に受け入れられません」

きつい眼差しで言い切ってから、奏はがくぽの表情に気がついた。

性悪そのものの笑みが、獲物を見つけた猛禽のごとく煌めいている。

赤くなって、青褪めて、と目まぐるしく表情を変える奏に、がくぽは性悪な口を開き。

「…お?」

「おや」

後ろから勢いよく組みつかれ、隙を突かれたがくぽはカウンターに手をついた。

奏も意外そうな声を上げる。

「お話、愉しいですか」

がくぽに組みついたカイトが、穏やかに訊いた。

頭を抱えられてしまっているがくぽにはその詳細な表情が見られなかったが、奏は珍しいものを見たとばかりに目を見張り。

「ああええと、そうですね。そうです。余計なお喋りをしている場合じゃないですね。おっしゃる通りです。がくぽさん、お話はまた今度、改めて時間をつくっていたしましょう。今日はその、カイトさんとお約束もあるでしょうし」

「ないぞ」

「ありませんよ」

無情にもふたりに否定され、奏は一瞬、言葉に詰まった。しかし、咳払いひとつですぐさま態勢を立て直す。

「そうおっしゃらず。新婚二日目なのですから、おふたりの時間を大切になさってください。私は仕事を片づけ次第、すぐさま退散いたします」

ごく自然に口にされて、がくぽは意外さに目を見張った。

普通の感性だと、いくらロイドとはいえ、男同士の夫婦など受け入れがたいはずなのだが。

「あっさりしているな?」

なにを、とは明言せずに訊いたがくぽに、奏は妙に力強く頷いた。

「それはもう、若さまのなさることですから」