「ん」

ヘッドセットと片眼鏡を付け、パソコンのモニタを指でたどっていたマスターが、唸り声を上げる。

Judy knocked & knocked-01-

「んー」

滅多に悩まないマスターだが、どうやら今はひどく悩んでいるらしい。骨ばった指が、幾度も幾度もモニタを撫でる。

モニタに表示されているのは、カイトの調声状態だ。微細な設定によってカイトの声は、マスターがもっとも好む音域に設定されている。

迷いのないマスターにとって、それは変わることのない絶対値だ。

目指す場所が確固として決まっているから、あれやこれやと寄り道をしない。

購入した当初こそ頻繁に弄っていたが、三年も経った今ではほとんど理想通りで、そうなると滅多に弄らない。

機械ゆえに使用しているとどうしても摩耗したりして変化する、その部分をたまに弄るのが関の山だ。

なので、ここ半年に限って言えば、調声するのはもっぱら、購入したばかりのカイトの旦那様だけだった。

それがどういうわけか、唐突にカイトを弄りたいと言い出した。いや、正確には、気になるところがあるから見てみたい、だが。

そうして、カイトは久しぶりにマスターの部屋へ入った。

調声を行うためのソフトが入ったパソコンは、マスターの部屋から動かせないからだ。

「マスター?」

後ろ髪に隠れるように存在するジャックポッドからケーブルでパソコンと繋がれたまま、黙って床に座っていたカイトだが、さすがに不安な声を上げた。

モニタと顔をくっつけたマスターは、もう十分もその姿勢のままだ。

理想とする声に迷いがないから、あとは自分のスキルレベルとの相談次第だ。

できないことをあれやこれやと悩みながら試すのはマスターの性に合わないらしく、そのときできることだけをやって、いつもあっという間に終わる調声。

マスターに買われて共に暮らすようになって三年経つが、画面を開いてから、これほど悩むマスターは初めてだった。

「あの、マスター」

「…んーんんっ」

カイトの声も聞こえない様子で唸り続けること、さらに五分。

マスターは唐突にモニタから顔を離し、マウスをクリックした。破裂音にも似た軽い音が連続して響き、カイトとパソコンの接続が切られる。

そのまま、コンピュータの終了画面へ。

「いいわまあ。これもそれだ」

「…マスター?」

どこか自棄になったように口にしたのは、滅多に出さない妥協の言葉。

いや、ことカイトの調声となれば、決して漏らさない種類の言葉だ。

カイトのこころが波立ち、不安に晒される。

こころ細い声を上げたカイトに、ヘッドセットと片眼鏡を外したマスターは、ちょっと首を傾げた。忙しく自分のこめかみを叩く。

どこか苛立ったような、戸惑ったようなその仕種も、珍しい。

「過渡期だな。今調声しても無駄だ」

「過渡期、ですか?」

なにからなにへ渡ろうとしているというのだろう。

そもそもカイトは自分で自分を調声できないのだから、前回の調声から声が変化していたり、マスターにも手が出せない難物になっているというのがおかしいのだが。

過渡期という言葉は幾重にも有り得ないのだが、マスターの選ぶ言葉は絶対だ。

怯えるように青い瞳を揺らすカイトへ、マスターは手を伸ばした。細い指がわずかに爪を立てて頬に触れ、撫で上げる。こめかみから額へとたどり、きれいに撫でつけられた青い髪を、やや乱暴に掻き回した。

「悪いことですか俺は故障していますか?」

「そうじゃない」

小さい子のように扱われていても、天女然とした浮世離れした空気を保ったまま訊いたカイトに、マスターはきっぱり否定した。

「だけど過渡期だ。そうとしか言いようがない」

「…」

カイトの髪に指を絡めたまま、マスターは暗くなったモニタへ顔を向けた。

おそらく、マスターには消えた画面が再構成されて浮かんでいるのだろう。表情は茫洋と霞みながらも、厳しさがある。

「言葉は難しい。時として事物を正確に言い表すのに絶妙な言葉が存在しない。おまえに過渡期の概念がないことも承知のうえだ。そのうえで今のおまえは過渡期で手が出せない」

骨ばった指が艶やかな髪から抜け出し、真っ黒なモニタをたどる。さっき幾度もたどった、カイトの調声そのままをきれいになぞって。端につくとまた最初に戻り、幾重にも山谷を描く。

そのくちびるが微妙に曲がり、笑みらしきものを浮かべた。

「いや。手が出せないことはない。なかったことにすることは可能だ。調声に調声を重ねれば元に戻せるだろう」

「でも、戻さないんですね」

「そう」

どこか呆れた響きでマスターは頷き、座るカイトのジャックポッドからケーブルを外した。

「戻しても無駄だからな。早晩おまえはまた同じ状態になる。いや…」

ごく軽い口調で言ったかと思えば、珍しくも言い淀み、マスターの顔が痛みに歪んだ。外したケーブルを握りしめ、その表情は鬱蒼と翳った。

「壊れるかもな」

「…マスター?」

低く吐き出された未来に、カイトは瞳を見張る。

どんな事象もポジティブ捉え直して発言するのがマスターだ。こんなふうにネガティブな発言をするような性格ではない。

自分が壊れるより先にマスターが壊れたのかと案じられて、カイトはわずかに腰を浮かせた。

それから思い直す。

→マスターは頭がおかしいひとだ。

今さら壊れたもなにもない。元から壊れているのだから、その「ひび」が広がった程度のこと。

案じるほどのことではなかった。

部屋の外でカイトを待っている旦那様が聞いたなら、「そなたには情けというものがないのか」と慨嘆するような結論でカイトは落ち着きを取り戻し、床に座り直した。

「俺はどうすればいいですか?」

パニックに陥るよりなにより先に、そう指針を打ち立てたカイトの問いに、マスターは笑った。三十をいくつも越えた男だというのに、その笑顔は妙に幼くあどけない。

無邪気そのものだが、マスターと無邪気は決してイコールで結びつかない。結びつくとしたら、そこには必ず「マッドな」という冠が付く。

「完成しろ。極めろ。到達点へと行け。俺に結果を見せてくれ」

指針はあまりに曖昧模糊として、抽象的だった。

そもそも主語がない。厳正なるプログラムの産物から抜け出せないカイトには、あまりに難しくて理解ができない。

焦点のぶれた瞳で静かに見つめるカイトに、マスターは微笑んだまま扉を指差した。

「今日は終わりだ。行ってやれ。忠犬よろしく待ってるだろ」

「犬ではありません。旦那様です」

明後日な訂正をして、カイトは立ち上がった。マスターが声を上げて笑う。

「そうだな。犬じゃない。旦那様だ。おまえを愛しおまえが愛する」

「…」

立ち上がったものの、部屋から出て行こうとはせずに、カイトは首を傾げた。

カイトは決してひとの機微に敏いほうではない。もともとKAITOシリーズそのものがおっとりさんにつくられているらしく、初期状態からわりと鈍かった。

それがマスターの好みへと調整されていく中で、さらに研磨されていき。

現在のカイトには、「空気を読む」能力は皆無と言っていい。

だが一応は、三年も寝食を共にしたマスターだ。彼の様子が、普段とあまりに違うことくらいはわかった。

わからないのは、なぜ違うのか、その理由だ。

カイトが過渡期だと表現した。それ以外に言葉が見つからないから。

しかし、なにからなにへの過渡期なのかは教えてくれない。

それでいて、完成しろと言う。目標も示さないまま、どこか躊躇いながら。

迷わないことがマスターの調声の、もっとも重要なファクターであったというのに。

「俺はこのままでいいんですね?」

念を押したカイトに、マスターは瞳を細めた。こめかみを叩き、回るレコードをたどるように指を回す。

「このまま進め。結論を見てから手を出す。結論が見えるまでは状態を見守る」

「わかりました」

声は躊躇っていても、言葉は出された。

ならばカイトが迷うことではない。

だいたいにしてが、調声などはカイトの範囲外だ。マスターの感覚によってしか行えないその作業を、カイトが案じても仕様がない。

口を出せる範囲ではなく、ならば自分は示された道を辿るだけ。

迷いも不安も仕舞いこんで背を向けたカイトに、マスターは複雑に表情を歪めた。

「カイト」

「はい」

扉に手を掛けたところで呼ばれ、カイトは振り返る。

難しい顔をしていたマスターが、笑った。

「悪くない。期待してる」

「…はい」

微笑み返し、カイトはマスターの部屋から出た。

マスターの言う通り、忠犬のごとき態でカイトの旦那様が――床に「お座り」をしたがくぽが、一途に扉を見つめて待っていた。