カイトがなにか言うより早く、旦那様は立ち上がった。当然のように伸ばされた手が腰を抱き、こめかみにくちびるが触れる。

「終わったか」

「はい、終わりです」

Judy knocked & knocked-02-

カイトに対しては蕩けるように甘い声は、やわらかさの中に微細な不安を隠している。

おとなしくくちびるを受けて答えたカイトに、がくぽは花色の瞳を揺らした。

「どう変わった?」

「…」

おかしなことだと思う。

マスターの求めるまま、変わっていくのが常態の自分たちなのに、がくぽはひどく不安そうだ。

まるで、カイトの声だけでなく、思考や嗜好まで弄られたかと案じているように。

「変わりません。見ただけですから」

「見ただけ?」

「はい」

怪訝そうながくぽに、しかしカイトもそれ以上、説明できる言葉を持たない。

マスターの言っていたことは難解だし、このままでいいとのお達しも受けた。ならば特に言うべきこともない。

「…なにがしたいのだ、あやつ」

「…あなた、ほんとうに、マスターに信を置きませんね」

「信を置くべき徳がないのだから、仕方あるまい」

閉まっている扉越しに、部屋の中にいるマスターを見通すように睨みつけて、がくぽは低く吐き捨てる。

がくぽがこの家に来て半年となるが、彼がマスターを好意的に捉えた発言をするのを、カイトは聞いたことがない。

未だに触られると毛を逆立てるし、つまらない一言ひとことにこれでもかと食ってかかる。

マスターがおもしろがってくれているからいいが、普通、そんな態度でいたら、捨てられても文句は言えないのではないだろうか。

こころを掠めた懸念に、カイトはわずかに眉をひそめた。

がくぽが捨てられても、カイトは彼を追ったりしない。否、追うことができない。

マスターが望むことは絶対で、逆らうことなど思いつきもしない。

がくぽは要らない、おまえはここに居ろと言われたら、それがすべて。

そう、マスターは絶対だ。

常にプログラムの最初にその存在があり、主張し続け、こころに留め続ける。それが嫌だと言うのではない。

ただ、最近、たまに。

ひどく、苛立つことがある。

こころが激しく波立って、落ち着かない気分に陥る瞬間が。

「…カイト?」

「なんでもありません」

素っ気なく言って、カイトは一日の大半を過ごす、リビングの絨毯の上へ足を運んだ。

部屋のほぼ中央となる定位置に腰を下ろすと、一度瞳を閉じる。

考えても仕方のないことは考えない。

マスターの口癖を頭の中にくり返し、波立つこころに蓋をする。蓋をしたところで、波が治まるわけではないのだが。

カイトの後を追ってきたがくぽが、傍らに胡坐を掻いて座った。手が伸びてきて、膝の上に揃えられたカイトの手を握る。

「なんぞ言われでもしたか」

「…」

心配してくれているのは、さすがにわかる。

わかるが、カイトにとってマスターはすべて「善」であり、がくぽのようにいちいち穿った考え方などしないから、彼ほどにマスターとの間に軋轢は生まれないのだ。

言われることは言われるが、それもすべてマスターに確固たる理想あればこそで、そのことを理解してからは、カイトはマスターの言うことがほとんど気にならない。

「…」

そう、マスターの理想が揺らがなければ。

「カイト」

案じる声に応じず、カイトは思わしげに眉をひそめた。

そのまま進めと言われた。迷いながら。躊躇って。

迷おうが、躊躇おうが、カイトにとっては言葉として与えられたことがすべてだ。

最新型たちと違って物堅いプログラムの傾向が強い旧型のカイトは、言葉の裏を読むとか穿って考えるとかいったことが苦手だ。

素直に、言われたことを言われたままに受け止めるのが最大の長所であり、難点。

「…悪くないと言われました。期待していると」

「それは…」

悪いことではないはずだ。

がくぽが不思議そうに瞳を瞬かせる。

がくぽにとっては業腹ながら、カイトはマスター絶対主義だ。期待していると言われれば、素直に喜んで研鑽に励みそうなものなのに。

「ええ。ですから、なにも。今までどおりです」

「…」

言い切るカイトは意識していなかったが、その表情は口調ほどに思い切れていなかった。いつも焦点がぶれて揺らいでいる瞳だが、今日はそこに不安が翳している。

「このまま進めと言われたのですから、このまま…」

「カイト」

自覚できていない不安のまま言葉を継ぐカイトの手を持ち上げ、がくぽは滑らかなその甲に口づけた。

「なにが不安だ。なにがそなたのこころを苛んでいる。話してみよ。俺はそなたの夫ぞ。妻のそなたの悩みなら、共に悩んでやろうから」

「…」

落ち着いた低音は甘くやさしく、頼もしく響いた。

マスターがいると稚気染みるがくぽだが、カイトとふたりのときには、頼りがいのある夫として振る舞った。

そして振る舞いだけでなく、実際、ひどく頼りがいがある。

不安と訊かれても、自覚できていないカイトだ。話せと言われても、話せる言葉がない。

「…俺の…」

見つからない言葉を探し、カイトのくちびるが空転する。

不安などない、と言えばそれで終わる。だが、その一言が、見つからず。

「俺の、声…――おかしい、ですか?」

こぼれ落ちた言葉に、がくぽ以上にカイト自身が驚いた。反射的に握りしめられた手は、がくぽが意表を突かれたことをわかりやすく教えたが、カイトこそ意図していなかった。

なぜこんなことを?

戸惑う瞳でがくぽを見つめ、花色の瞳が、神雷のような怒りの光を閃かせるのを認めて、わかった。

「マスターがそう言ったのか?」

「いいえ」

「だが、類することを言われたのだろう」

低い声は怒りを含んで尖っている。その美しい面が夜叉のように歪んで、カイトの痛みを我がものとしている。

「がくぽ」

怒りは、妻を傷つけられたことに対してだ。

言葉にするまで、カイトすら気がついていなかったその傷の深さを想って、がくぽは牙を剥きだすのだ。

やさしい旦那様。

握られた手を解いて結び直し、カイトはがくぽへと顔を寄せた。怒りに引きつるくちびるにくちびるを押しつける。

何度もくり返し、小鳥が啄むようなキスを贈った。

「もういいです。わかりましたから」

「良いことがあるか」

「いいんです。…がくぽ」

潤む瞳で見つめる。最初のころはともかく、最近となれば、こういったカイトの意図をほぼ正確に読んでくれるがくぽだ。

浮かしかけた腰を下ろすと、カイトの体を引き寄せて膝に乗せた。横抱きにすると、カイトの顔に顔を寄せる。

「そなたの声がおかしいことがあるか。あれの手際を褒めるようで業腹だが、そなたの声は美しく調声されている。だがそれだけでなく、そなたの弛まず驕らぬ日々の研鑽によって…」

「がくぽ」

近づいた顔にさらに近づいて、カイトはキスで言葉を遮る。微笑みすら浮かべて、未だ納得のいかない顔のがくぽを見つめた。

「マスターはおかしいと言ったわけではありません。俺がそう思っただけです」

「ゆえなくそんなことを思うわけがなかろう。あれがそれらしいことを言えばこそ、そなたがそう考えるのだ」

「そうですね」

宥める気かと思えば簡単に翻してそう肯定し、カイトはがくぽの首に手を回した。流れる髪に触れ、慰撫するように梳く。

明確に意図はしないものの、半年の間に覚えた相手の体を煽るような手つきに、がくぽの瞳がわずかに細められた。

そのがくぽの髪を軽く引っ張り、カイトは艶やかに微笑んだ。

「あなたは気に入ってくれているのでしょう…珍しく、マスターが悩んでいる様子だったので、それが少し気にかかっていただけです。でも、マスターも悪くないと言いましたから。ならばほんとうに悪くないということです。それで十分です」

笑うカイトに、しかしがくぽは顔をしかめた。

「『悪くない』ということは、『良い』ではない。そこが引っかかったのだろう」

「そうらしいですね」

他人事のように受け、カイトは渋面の旦那様に凭れかかる。

甘える仕種も、この半年で覚えたものだ。甘えれば、がくぽは必ず受け止めてくれる。

際限があるのかどうかがよくわからない。試してみたい気に駆られるが、際限を見極めた瞬間に、なにかが終わりそうな不安がある。

「あなたは気に入ってくれているのでしょう?」

もう一度、訊く。訊くというよりは、念を押すといったほうが近い。

微笑むカイトに、がくぽは束の間言い淀んだ。花色の瞳が曇る。

「俺が気に入る気に入らぬではない。客観的にも、そなたの声は優れている」

「気に入っているでしょう?」

微笑み続ける。

緩く仕掛けられた駆け引きに気がついたのだろう。がくぽはわずかに瞳を揺らし。

「…悪くないなどとは言わぬ。そなたの声は最上の美酒だ。俺を蕩かして止まぬ」

毒のように蕩けた甘い声が吹きこまれる。記憶が刺激されて、カイトの背筋が粟立った。

言葉を返せずに空転するくちびるに、がくぽのくちびるが下りてきた。記憶だけでなく、現実の感覚まで刺激される。

口の中を荒らされて募る熱に思考をぼやけさせながら、カイトは小さな落胆をこころの底に仕舞いこんだ。

駆け引きは失敗だ。