うたごえが、天まで伸びていくようだ。

がくぽに添いながら、カイトはさらにその声を伸ばしていく。

うたうことが本分だから当たりまえと言われてしまえばそれまでだが、こうしてうたうことは、ほんとうにたのしい。

それが、愛する旦那様といっしょならば、なおのこと。

Flowers in the Basket-03-

「…」

うたい終えて、静寂が戻る。握り合った手を引かれ、甲にくちびるが落とされた。

「やはりそなたには敵わぬな。追いつける気がせん」

「当たりまえです」

微笑んで、カイトは首を伸ばした。

「俺の唯一の取り柄ですよ。起動したばかりのあなたに、そうそう追い越されてなるものですか」

くちびるに軽いキスを贈る。がくぽは眉をひそめた。

「唯一なものか。そなたには特筆すべき美徳が山とある」

「そうですか?」

瞳を瞬かせ、カイトは大真面目な顔の旦那様を見つめる。力強い腕が伸びてきて、膝に乗せられた。額に、こめかみに、キスの雨が降る。

くすぐったさに笑って、カイトは首を竦めた。だがすぐに、がくぽの手によって開かされてしまう。

「たぶん、それ、惚れた欲目ですよ?」

「聞く前からわかったように言うな」

指摘してやったカイトに、がくぽも笑う。握られたままの手に、またくちびるが落とされた。

「構わぬだろう。そなたの魅力をわかっているのは、夫である俺だけで十分だ。あまりに広まれば、誰がどう懸想するやら知れぬ」

「困りますか?」

「懸想されるだけならいいが、中にはあくどい輩もおるゆえな。そなたが傷つけられては大事」

「困りますね」

「そう、困る。愛しき妻を傷つけられれば、俺はなにをするかわからぬぞ」

真面目なのか不真面目なのか判然としない口調に、カイトは笑う。がくぽの首に腕を回すと、頬にキスした。

「あなたが傍にいて、俺に近づけるひとがいるかどうかが疑問ですが…」

「油断は禁物よ」

言いながら、がくぽもカイトの頬にキスを返す。

そこもいいが、ほんとうに欲しいのは別のところだ。

強請る瞳になって覗きこんだカイトの望みを正確に読み取った旦那様が、甘く笑う。頬が撫でられた。

「あのぅ、お取込み中、ほんっとうに申し訳ありません、恐縮です、いっそ地獄に住所を変えようかとも思います」

「…」

キスの寸前で声を掛けられて、カイトとがくぽはわずかに沈黙した。しかし、がくぽのくちびるが素早くカイトのくちびるを掠っていく。

振り向くと、背後に立ちながらあらぬ方を見つめて泣きそうになっている奏を見た。

「どうした」

「…ああいえ、そのぅ」

声を掛けられて、ようやく奏は視線を合わせた。片手に持った携帯電話を振る。

「ただいま、ぼっちゃまからご連絡がありまして…。大燦会の衣装の仮縫いができたので、これからこちらに持っていらっしゃるとのことです」

「ああ…」

頷いたのはカイトで、がくぽからは痛烈な舌打ちが漏れた。旦那様の不品行に、カイトは笑う。

旦那様とマスターの弟との仲は、悪い。

不安定だった旦那様との関係の改善によって、「過渡期」だったカイトの声は、新たな段階の安定を得た。

それにより、マスターは通例通り、大燦会にカイトを連れて行くと言った。もちろん、がくぽも。

そうやって二人揃って大燦会に出ることが決まって、その衣装作りやその他のこまごました用事でマスターの弟が来るたびに、がくぽは飽きることなく剣突くしている。

彼がなにを言おうと、実際に手を出してどうのこうのされるわけではないのだ。

深月は兄に嫌われることが本気で恐ろしいから、彼が偏愛するロイドに対して、ほんとうにまずいことは言わないし、やらない。

それがわかっているから、カイトなどは放っておけばいいと思うが、がくぽは応戦せずにはおれないらしい。

「二、三日前にデザインを決めたばかりだろう。もう仮縫いとは、あやつ、よほど暇なのか」

「生地問屋も傘下にありますから、大抵の生地はすぐにも揃います。取り寄せの手間がないのですよ。なにより、若さまのご用事ですからね。ぼっちゃまは最優先で取り組まれると思います」

「ブラコンが」

「左様ですね」

にべもなく同意してから、奏は困ったように首を傾げた。

「…ほんとうに、平気になられましたよね」

「なにがだ?」

不思議そうに訊くがくぽに、奏は視線を移ろわせた。

「その、なんというか…。私がいても、カイトさんと…」

「ああ」

得心したように頷き、がくぽは膝に乗せたままのカイトへ目をやった。意味がわからないまま微笑んでいる妻の首を、くすぐるように撫でる。

「ん」

背筋に走った痺れに、カイトは小さく呻いた。

どうにも最近、体が敏感なのだ。以前はそうでもなかった旦那様のちょっとした指遣いに、すぐ疼いてしまう。

そんなカイトに笑って、旦那様はまた奏を見た。

「こんなに愛らしいのだぞ触れずにはおれぬ」

「…そのようで」

ため息とともに、奏が笑う。

そういう奏のほうは、どうも最近、気疲れでやつれている。

といっても、がくぽとカイトの時と場所を選ばぬじゃれ合いに気疲れしているわけではない。使用人一族に生まれた根っからの使用人である奏は、主人夫婦が目の前でじゃれ合っているくらいでは、へこたれない。

彼が疲れている原因は、主にこれから先の予定だ。

愛する若さまたっての頼みで大燦会に出席することになってしまったが、先にも言ったとおり、彼は根っから使用人なのだ。たとえ若さまの添え物とはいえ、華やかな席は本能が厭う。

なにより、自分が意図しようとする以上に「若さまの補佐」という言葉に含まれる意味は雑多で。

「そなたもいい加減、覚悟を決めればよいものを」

「…絶対、決めません」

強情に言う奏に、カイトは首を傾げた。

「泡になりますよ?」

「え?」

がくぽと奏の両方が、瞳を見張る。カイトは穏やかに笑った。

「マスターは怠惰だと言っていました。その程度の想いなら、初めから抱かなければいいと」

「…」

「待て、なんの話だ」

わずかに青褪める奏に対し、がくぽがカイトを制する。カイトは微笑んだまま首を傾げた。

「人魚姫です。実に繊細にして、自暴自棄な生き物だと言っていました」

「ああ」

「人魚姫?」

安堵したように頷いた奏だが、がくぽのほうはまだ訝しげだ。あるいは、起動したてで話を知らないのかもしれない。

カイトはわずかに記憶を漁った。

「人魚姫というのは、童話です。人間の王子様に恋をした人魚のお姫様が、死ぬまでの話ですね」

「ずいぶん長大な童話だな」

やはり知らなかったらしい。

知っていたなら、身も蓋もなさ過ぎるカイトの説明へのツッコミが入っていたはずだ。実際、奏のほうは咳きこんでいる。

「それほど長くはありません。王子様へ告白できなかった人魚姫は、すぐ泡になって、消えてしまいましたから」

「…」

足りなさ過ぎる妻の説明に、旦那様は咳きこむ使用人を見た。

「あとで、本を持ってきてくれぬか」

「承知いたしました。ついでに、有名どころをいろいろ揃えてお持ちします」

有能な使用人に、がくぽは曖昧に頷く。

カイトは説明の大役を果たしてご満悦で、奏を見た。

「怠惰はいけませんよ、奏」

「…」

奏は頭を抱える。

会話能力が皆無に等しいカイトがどこからどう飛んできて会話を繋げるのか、読むのは容易くないし、こちらの言いたいことをわからせるのも難しいのだ。

「…私は人間ですから、泡にはなりません」

「だから伝えないんですか?」

「…どこまでわかっておっしゃっているか図りかねますが…。なんと言われようと、人魚姫が王子を愛していたことは確かですし、それもまたひとつの形ではあります。伝えることは悪いことではありませんが、相手の負担になるくらいなら、こころなど殺してしまったほうがましです」

「わかりません」

「構いません」

すげないカイトの言葉にもめげずに奏は言い張り、笑った。

「長々とお邪魔いたしました。私は仕事に戻ります。ぼっちゃまがいらっしゃるまで、どうぞ仲良くなさっていてください」

「はい」

なにか言おうとしたがくぽの頭を抱えこみ、カイトは微笑み返した。

「あなたがこころを殺したら、マスターはどう思うでしょうね?」

「…」

凝固してしまった奏をもう見ずに、カイトはがくぽの頭を離した。言葉をこぼそうとするくちびるに、今度こそきちんとくちびるを押しつける。

抵抗もなく受け入れられて、カイトはこころゆくまでキスを堪能した。

「…そなた、どこまでわかっているのだ?」

くちびるが離れてそう訊いた旦那様に、カイトは瞳を潤ませた。

「すぐにもお客様が来るけれど、我慢できないことはわかっています」

「そういうことでなくだな」

「どうしたらいいでしょう?」

膝から降りて正座し、切羽詰まった顔で訊くカイトに、頼りになる旦那様は天を仰いだ。

「…まあ、アレだ。あんなものは待たせたところで、少しもこころが痛まぬな。なにしろ訪問が突然なのが悪い。むしろここは一寸待たせるくらいが丁度良かろう」

もっともらしく頷いて、がくぽは立ち上がった。カイトの手を引いて立たせ、ふらつく腰を支えてくれる。

「とはいえ、そなたの大事な衣装合わせゆえな。おやつ程度にしておこう」

頼りになる旦那様に、カイトは笑って抱きついた。

「愛してます、がくぽ」

「俺もだ。愛しているぞ」

囁いて、旦那様はカイトを抱き上げて寝室へと運んでくれた。