広くはないが居心地良く整えられたリビングに、うたごえが響く。

うたっているのは、がくぽだ。

ソファに座るカイトの足元にちょこなんと座り、行儀よく背を伸ばして、教えられたばかりの新曲をうたう。

うちのおとーとは、ちょっと甘えん坊です。

教えられたばかりでも、日々練習を積んでいる。声は伸びやかに広がり、リビングを心地よい旋律で満たす。

瞳を閉じて耳を傾けるカイトのくちびるが、うっすらと笑みを刷いていた。

「…」

詞が終わり、がくぽは静かに旋律を閉じる。

伸ばしていた背筋を崩して、瞼を下ろしたままのカイトへと体を凭せ掛けた。上目遣いに、窺うように兄を見上げる。

瞳を開いたカイトはにっこり笑い、そんながくぽの頭を撫でてやった。身を屈めると前髪を梳き上げ、晒した額に音を立ててキスを落とす。

「上手この間より、ずっと良くなってる!」

「兄様!」

満面の笑みで褒められ、がくぽもぱっと表情を輝かせた。身を乗り出し、カイトの腰に抱きつく。

腹に顔を埋めて、犬かねこのように擦りついた。

「ありがとうございます、うれしいです!」

「ぁはは、もぉ」

痛いくらいに甘えられ、カイトは笑って弟の長い髪を梳く。

がくぽは顔を上げると、瞳を細めてカイトを見つめた。

「もっともっと練習して、もっともっと上手くなります。そしたら兄様、また褒めてくれますか?」

「えー?」

無邪気に強請る弟に、カイトは笑う。兄である自分に褒められるより、マスターに褒められることのほうが、ずっと重要なはずなのに。

笑いながら、おにぃちゃん大好きっ子の髪を掻き回して、カイトは身を屈めた。こめかみにキスを落とす。

「そんなに頑張る子に、褒めるだけじゃ足らないよ。なにかご褒美あげなくちゃ。ね、欲しいものあるあったら言ってごらん。用意しておくから」

「ご褒美………!」

思ってもみない兄の言葉に、がくぽの瞳が見開かれた。その花色はすぐに期待に輝いて、さらに明るさを増す。

「ご褒美……兄様から、ご褒美………っ」

うれしそうにくり返され、カイトのほうは苦笑に変わった。

おにぃちゃん大好きっ子のがくぽだ。ただ褒められるだけでも、十分うれしいだろう。

それがさらに、欲しいものまで与えられるとなれば――

「っていっても、俺に可能なことって限られてるからね、がくぽ?」

甘ったれの弟がとんでもないことを言いだす前に、カイトは軽く釘を刺しておく。

なんでも聞いてあげる、と請け合うことが出来ないのも微妙に情けないが、がくぽの願いは時に、軽々とカイトの予想を超える。

大好きが暴走して、突飛なところに飛ぶのだ。

苦笑するカイトを見上げたがくぽが、腰に回した腕にわずかに力をこめた。崩していた体を伸ばし、顔を寄せる。

「ぎゅうって、してほしいです」

「え?」

吐き出された甘え声の、その内容が掴めずに、カイトはきょとんとした。

鈍い反応の兄に、がくぽはさらに顔を寄せる。

「兄様に、ぎゅうって抱きしめてもらって、キスをいっぱい貰いたいです」

「………」

がくぽの瞳は期待に輝き、限界があると訴えたカイトに遠慮しているふうではない。

それにしても、あまりに他愛なく、欲のないおねだりだ。

緊張が一気に和らいで脱力し、カイトは眉尻を下げて笑った。

「そんなのでいいのっていうかそれって、今と変わらなくない頑張った子のご褒美なのに」

伸び上がる頭を撫でて言うカイトに、がくぽはわずかに不満そうな表情になった。

「『そんなの』ではありません。それががくぽにとっていちばん、なによりも素敵なご褒美です」

「はは」

言い募るがくぽは真剣で、カイトは笑った。

甘えん坊で手を焼かせるくせに、時々とんでもなく無欲だ。カイトだけいればいいと、無心に強請る。

うずうずとしたものが腹の中を蟠り、カイトは伸び上がるがくぽへ腕を回した。抱き寄せて、頬にキスする。

「そんなの、いつだってしてあげるんだから。ね、今だってもう、しちゃった」

「兄様ぁ…」

しあわせそうに蕩けた声を上げたがくぽは、再びカイトへと擦りつく。

カイトは凭れかかった頭に顔を寄せ、長い髪の隙間から覗く耳へと、笑い声を吹きこんだ。

「もっと頑張るんでしょだったらもっと、もっと欲張ってお願いしておにぃちゃんのこと、困らせて」

「……っ」

耳をくすぐられたがくぽが、びくりと身を竦ませる。腰に回った腕に力がこもって、頭がさらに擦りついた。

「ね、がくぽ。欲しいもの、なぁに?」

「にー……さま……」

甘い声で揺さぶられ、がくぽは震える。顔を上げると潤んだ瞳で、笑う兄を見つめた。

カイトは首を傾げ、がくぽを見返す。その笑みは、どこまでもやさしく甘い。

ごくりと唾液を飲みこんで、がくぽはそんな兄に見惚れた。

「おねだりはがくぽ」

「にーさま……」

促されて、がくぽは熱っぽい声を吐き出す。抱く腕に力をこめて、逃げる気もないカイトを囲い込んだ。

「兄様が、欲しいです………たくさん、たくさん………兄様が、もうだめって泣くくらい………っ」

「んー…」

熱を込めてささやかれるおねだりに、カイトは笑顔のまま、困ったように眉をひそめた。

どこまでも、兄の予想通りにはいかない弟だ。

潤む瞳で見つめるがくぽに顔を寄せ、カイトは鼻の頭にキスを落とす。抱きしめる腕に軽く力を込めて、わずかに爪を立てた。

「それもいっつもあげてるでしょ…………おにぃちゃんは、がくぽのなんだから」

「にーさま……」

「ほんと、欲がないよね、おまえって」

呆れたように言ってから、カイトは背に当てていた手を移動させ、がくぽの後ろ首を掻いた。

「……っ、にー、さまっ。やっぱり今、欲しいです……!」

完全に腰を浮かせたがくぽに切羽詰まった声で強請られ、カイトは苦笑した。

「ねまた、今あげちゃう。ほんと、難しい子だよね、おまえ」

ぼやくカイトを抱えこみ、がくぽはきつく擦りついた。

「ところでリビングには我らもいるわけだが、いつもながら構いやしないわな」

床に座り込んでぼやく餌儀の前には、さやから剥かれたえんどう豆が、ボウルいっぱいになっている。とりあえず今晩は豆ごはんにポタージュスープにサラダに、豆尽くしのメニューとなること決定だ。

突然豆のフルコースが食べたくなった餌儀が、張り切って買ってきたわけではない。

以前世話になった保護司が「隠居する」と宣言して田舎に引っ込んだのだが、今でもなにくれとなく気にしてくれていて、自家栽培した季節の野菜を頻繁に送ってくれるのだ。

照れくさいから本人に面と向かっては言えないが、すでに親も同然、いや、親以上に思っている。介護が必要になったら、仕事など辞めて駆けつける気満々だ。

――とはいえ仕事は辞めるが、餌儀には夷冴沙を捨てていく気はさらさらない。諸共に連れて行く気も、満々だ。

そんな餌儀の思惑を知ってか知らずか、おそらく知っていても大して気にしないだろうマイペースキングは、羨ましそうな顔で、がくぽとカイトを眺めていた。

餌儀の向かいに座った夷冴沙の手では、剥きかけのえんどう豆が弄ばれている。

そこは羨ましそうな顔をするところか、と思いながら、餌儀は夷冴沙の手から豆を取った。

その感触でようやく我に返った夷冴沙が、恨めしげな視線を餌儀に投げる。

「カイトはしあわせものなのだ」

「あー……」

夷冴沙がなにをして、『しあわせもの』と言っているか、見当はついている。

殊更に顔を逸らし、餌儀はえんどう豆を剥いた。夷冴沙が、大きなため息を響かせる。手が塞がっている以上、耳は塞げない。

情けない視線を投げた餌儀を、夷冴沙も情けなく眉尻を下げて見返した。

「ああまでおとーとに甘えられるなど、兄冥利に尽きるのだ。いちも甘えられて、しあわせ堪能したいのだ」

「無茶言いなさんな………」

力なく返す餌儀に、夷冴沙は拗ねた顔になった。未だに学生と間違えられる童顔だ。

そうやるとますます幼さが募って、子供でも虐めているかのような罪悪感に駆られる。

真実、無茶を言ってくれる。

「無茶なことがあるものか。いちはにーくらい、甘えさせるのやぶさかじゃないのだ。むしろ、どーんと来いなのだ」

「あーあーもう………」

子供っぽさを掻き立てる甘い声で主張され、餌儀は頭を抱えた。しかしすぐに顔を上げると、手近なところに転がっていたクッションを掴む。

半分は八つ当たりも含んだ勢いで、ソファへと投げた。

「それ以上やるなら部屋にお行き、部屋に!!ひとのこと気にしないにもほどがあるわ!!」