うちのおとーとは、どこにでもついてきます。

「んー…」

湯船の中で体を伸ばしたカイトは、ぼんやりと天井を見上げた。軽く体を撫で、ふに、と皮膚をつまむ。

「いっかな」

つぶやいて、立ち上がった。

洗い場へ出ると、とりあえずタイルに直に座り込む。あとあとバスチェアには座るのだが、まずはひんやりした心地を楽しみたい。

熱に弱いロイド用に、湯温はぬるめだ。長々浸かっても、湯あたりすることはない。

それでも、お湯から上がって冷たいタイルに触れると、ほっとする。

しばらく冷たさを楽しみ、タイルがぬるくなったところで腰を浮かせた。バスチェアを取って尻の下に敷き、シャワーコックを捻る。

さ、と流れ出した湯の下に、頭を差し入れた。

「んく…」

髪を濡らすと、ロイド用のシャンプーを手にする。ポンプを一押しして液体を手に乗せ、軽く泡立ててから頭へとやった。

カイトの髪は短いから、ポンプは一押しで足りる。これが弟になると、一押しではとても足らない。

あの長い髪は美しくて、見ている分には目の保養なのだが、いざ手入れとなると、かなり面倒だ。

それでも切ることなく、きちんと毎日手入れをしている弟は、偉いと思う。

いや、短くしても、きっと彼は美しい。

それでも、あの光の流れの壮麗さを思うと、いっそ切ったらとは言えない。

だから、甘ったれで手が掛かるくせに、面倒だから切りたい、と駄々を捏ねださない弟のことは、純粋にうれしい。

短い髪は手に絡むこともなくすぐさま洗い終わり、カイトは目を瞑ったまま、手さぐりでシャワーコックを捻った。

さ、と流れ出した湯の下で、きれいにシャンプーを洗い流す。

「はふ」

コンディショナーまで終わらせて、カイトは濡れた犬かねこのように、頭を振った。水滴を弾いて、髪に触れる。

「ん」

きちんとすべての洗剤が落ちていることを確認してから、体用のスポンジを手に取った。

――ところで、脱衣所の扉が開く音がした。

「……兄様?」

「ぁ……」

訝しげに上がった声に、カイトは脱衣所のほうへ顔を向けた。そうしても曇ガラスに阻まれて、相手を見ることは出来ない。

だがシルエットだけでも見紛うことなどなく、カイトは手にしたスポンジを、ぎゅ、と握りしめた。

「兄様………兄様、もしかして、お風呂に入ってますか?」

「がくぽ…」

問いかける声はやはり間違いなく弟のもので、カイトは見えないとわかっていても、こっくり頷いた。

「うん、入ってる」

「わかりました」

「え?」

返ってくる答えとしては微妙な言葉に、カイトはきょとんと瞳を見張った。

わかった、というのは、一見整合のとれた返事のようにも思えるがしかし。

「えと……」

言葉を探している間に聞こえてきたのが、衣擦れの音だった。それも、ただ歩いているとか、動いているとかいうもので立つ音ではない。

「………!」

カイトはぎょっとして、身を引いた。瞳を見開いて、曇ガラスを見つめる。

そうやっても定かには見えないから使われる曇ガラスだが、シルエットだけでもわかることがある。

どう考えても。

「が、がくぽ?!なにしてるのっ?!」

カイトはスポンジを放り出すと、慌てて扉に張りついた。

簡単には開かれないようにと押さえたうえで訊いた兄に、答える弟の声は無邪気なものだった。

「服を脱いでます」

「うん、だから、なんで?!」

シルエット通りの答えだった。出来れば間違っていて欲しかったのだが。

それでも一握の希望を込めて、カイトは裏返りかけの素っ頓狂な声で訊く。

汚したから洗濯のために着替えているとか、脱衣所で服を脱ぐにも、いろいろと理由がある。

希望を込めたカイトの問いに、答えるがくぽの声は、あくまでも無邪気に弾んでいた。

「兄様といっしょにお風呂に入って、お背中をお流ししようと思って」

裏切りだ。

ここまで期待を裏切ってくれないのはもう、裏返して裏切りだ。

想定した答えしか寄越さないがくぽに、カイトは曇ガラスに額をぶつけた。ひんやりしていて気持ちいい。しかし和んでいる場合ではない。

カイトは扉を押さえる手に力を込める。ぐ、と体重を掛けて、押さえこんだ。弟は力が強い。生半可なことでは、あっさり力負けする。

「そんなことしなくていーからっ!!お、お風呂くらい、ひとりでゆっくり入ろう?!」

悲鳴のような声で叫んだカイトに、今度返って来たのは沈黙だった。

がくぽは動作の一切まで止めて、黙りこむ。

果てなく、どこまでも、沈黙。

沈黙………………沈黙…………………………沈m

「が、がくぽっ?!」

堪え切れなかったのはいつもの通り、カイトだった。

だいたいが現実的な力以外のことでも、カイトががくぽに競り勝とうというのが、無理な話だった。主にかわいさに負けて、いつでもカイトが先に白旗を上げる。

自分より強かろうが大きかろうが、弟はかわいい。美麗さに慣れることなくうっとりしようが、感嘆しようが、結論的にはかわいいのだ。

かわいいに抗しきれる、神代の英雄にも負けない、強靭な精神の持ち合わせはない。

ちなみにカイト的な所見を言うなら、神代の英雄も、究極的にはかわいいに抗しきれていない。

ゆえに、かわいいに抗しきるのは、誰にも不可能の業だ。自分が負けるのは宿業で、間違いではないと信じている。

カイトは慌てて扉を開き、脱衣所へと顔を出した。

予想通り、がくぽはべそを掻きかけの、情けない顔で固まっていた。

顔を出した兄に、すん、と洟を啜る。

「にーさま…………兄様は、がくぽといっしょだと、ゆっくりお風呂に入れなくて、いやなんですね……………………」

「そ、そんなことないよ!!」

恨みがましい訴えに、カイトは反射で叫び返した。

実際のところ、ゆっくりなど出来なくなる。がくぽがいっしょに入った時点で、のんびり癒しのバスタイムなどというものは、夢のまた夢だ。

甘ったれの弟は、どこでもそこでも兄に甘えて、構って欲しがる。

バスタイムに特に思い入れがない夷冴沙と餌儀は、家を選ぶときにも、特別風呂の広いものを選んだりはしなかった。

熱に弱いロイド用に、換気は強力なものに取り替えて、さらにバス冷房を入れてくれたが、風呂でこだわったことといえば、それだけだ。

ごく平均的な広さの家庭用風呂だから、成人男子が二人で入ると、かなり狭い。

その狭さで甘えられると、湯あたりしないはずのぬるめの湯温でさえ、湯あたりしそうに感じる。バス冷房を入れても、利いている気がしない。いっそもう、水風呂にしてしまおうかと思うほどだ。

――が、いやなのか、と言われると、それもまた違う。

何度も言うが、カイトはがくぽがかわいい。

湯あたりの危険があっても、狭苦しくてくつろげないバスタイムになっても、そうと望まれて強請られると、いやとは言えなくなる。

むしろそこまで望まれると、うれしくて、ほわん、と胸が熱くなってしまう。

疲れているときにはさすがに音を上げそうになるが、甘える弟が好きだ。そんなに懐かれていることが、うれしくて仕方がない。

もっといっぱい甘えてくれたらいいとさえ、思ってしまう。

そんな自分に、カイトは苦笑した。まったくもって、仕方ない。

かわいい弟は、最強だ。

「いいよ、がくぽ。入っておいで」

浴室の扉を全開にして手招いたカイトに、がくぽは情けない表情を一変させた。歓びに華やかに笑い、脱ぎ掛けの服に手を掛ける。

「はい、兄様体の隅々まで、きれいにお流ししますからね!!」

「そこまではしなくていーったらふつーに入ろ、ふつーに!!」

いそいそと脱ぎながら言うがくぽに、見惚れていたカイトは慌てて叫んだ。