とん、とと、とん、とリズムの狂った、ノックの音。

きょとんとして扉へ顔を向けたカイトは、次の瞬間に響いた情けない声に、ぎょっとして瞳を見張った。

「にぃいいさまぁあああ~っ」

うちのおとーとは、ちょっと食いしん坊です。

「が、くぽっ?!」

座っていたベッドから、腰を浮かせる。慌てて扉に飛びつくと、勢いよく開いた。

「どうしたの、がくぽっ………っわわっ?!」

「にぃいさまぁあ………っ」

聞いているだけで八の字眉毛になりそうな声を上げたがくぽは、声に相応しい、実に情けない顔つきだった。せっかくの美貌が、見る影もない。

がくぽはその情けない顔のまま、驚いて見上げる兄に組みついた。

「おなか空きましたぁ、にぃさまぁ~っ」

「お……っなか…?!」

いったいなにがあったのかと思えば、その一言。

ぎゅいぎゅいとしがみついて懐く弟を、咄嗟に抱き返すことも忘れて、カイトは唖然となった。

おなかが空いたって、おなかが空いた――って。

それは確かに、一大事、かもしれないが。

「……」

カイトはがくぽにしがみつかれたまま、なんとか振り返って、部屋の時計を確認した。

夕方の五時半を回っている。

特に用事がない限り、七時には夕飯になるのが、壱岐家の慣習だ。

つまり夕飯まで、あと一時間半、あるかないか。

「にぃさまぁ」

「あー……よしよし……」

ぐずぐずと情けない声を上げるがくぽの背に手を回し、カイトは宥めるように軽く叩いた。

そのまま誘って、ベッドに座らせる。大きな体がしがみついたまま、ちょっとも力を緩めてくれないので、カイトは向かい合ってがくぽの膝の上に座った。

弟の膝に乗ってしまうなど、おにぃちゃんとしての威厳というものが損なわれること著しくて葛藤ものなのだが、仕方ない。

弟は兄より体が大きく、そして力も強いのだ。しがみつかれたら、カイトには引き離せない。

カイトはそのまま腕を回し、ぽんぽん、とがくぽの後頭部を叩いた。

「でもね、がくぽ………もうおやつの時間は過ぎちゃったし、ごはんまでだってあと少しだし………ガマン出来ない?」

あやすような声音で訊くと、がくぽはきりっとした顔を上げた。惚れ惚れするほどに男前な表情だ。

うっかり見惚れたカイトに、がくぽは表情に相応しく、きっぱりと言い放った。

「できませんっ!!おなか空きました!!」

「ええ~…………」

つくづくと残念な美貌だ。なにを男前に言い切っているのだろう。

カイトはしばし呆れて、きりっと男前な弟を見つめていた。

その表情も長くは続かず、ふにゃんと情けなく崩れると、甘ったれた声が上がる。

「にぃいいさまぁあ~っ」

「あー………はいはい………」

焦れた呼びかけに、カイトは軽く天を仰ぐ。

「でもこんな時間におやつ食べちゃダメなの、わかってるよね、がくぽおやつ食べてごはんが食べられなかったり、無理していっぱい食べて具合悪くしたりしたら、餌儀さんに怒られるよいいの?」

「いやですけど………いやですけどぉ~…………っ。おなか空いたんですぅ、にぃさまぁあ~っ」

弟は我慢するということを知らない。とりもなおさず末っ子で、おとーと至上主義の壱岐家では、いちばんおとーとのがくぽに、堪えるということを教えなかったせいだ。

カイトも現状、我が儘を吐かれて困っている最中なのだが、そこで「我慢しろ」だの「聞き分けろ」だのと怒り出さない。

我慢しているというより、怒りが湧かないのだ――困るけれど、ひな鳥のごとく、ぴいぴいと鳴く弟はひたすらにかわいい。

「にぃさまぁ…」

「もぉ………しょーがないな」

カイトは笑うと、がくぽの頭を一度、ぎゅっと抱きしめた。

それから引き離すと、体に回った腕も引き離し、がくぽの膝から下りる。

縋りつこうと追ってくる手を軽く叩いて払い、心細げに見上げてくるがくぽの額にキスを落とした。

「ナイショのナイショだからねいっこだけ、ナイショのおやつ上げる。それでガマンして」

「兄様……!」

ぱ、と表情を輝かせたがくぽの頭を撫で、カイトは小棚に仕舞ってある「ナイショのおやつ箱」を取り出した。

カイトもたまに、ごはんの前や寝る前に、どうしてもおなかが空いて堪えられないことがある。そういうときに、ほんの少しだけつまむための、お菓子箱だ。

中身のお菓子は、いろいろだ。家族共有のお菓子箱の中から、ほんのひとつ二つずつ、こっそり貰ってきては足しているからだ。

カイトは蓋を開き、中身を漁りながら首を傾げた。

「んっとね、………チョコでしょ、クッキーでしょ………あと、おせんべ。どれがいい?」

訊いたカイトに、がくぽはにっこり笑った。

「兄様がいいです!」

「ん?」

ものすごくきっぱりと吐き出されたが、その内容がうまく飲みこめず、カイトは笑顔で首を傾げた。

「がくぽ?」

ごめん、おにぃちゃん、うまく聞き取れなかったかも。

そんなふうな表情で首を傾げるカイトに、がくぽはやはり、きらきらしい笑顔だった。

「兄様が、いいです!!」

きっぱり吐き出される、同じ答え。

カイトは瞳を瞬かせた。

どれがいいと弟に訊くのは、大抵の場合、無意味だ。よほどのことがない限り、おにぃちゃん大好きっ子の答えは決まっている。

――兄様と『同じ』ものがいいです!

がくぽにとって好き嫌いの基準も、欲しい欲しくないの基準も、すべては兄と同じかどうか、だ。

兄が選んだもの、それすなわち、善。それが正。

兄が選ばないものは、負――どんなものであっても、不要。

無理をして合わせているわけでもなく、まったく疑問もなく、ごく自然とそうなのだ。

「兄様」

「…」

期待にきらきらと表情を輝かせるがくぽから視線を外し、カイトは手に持ったお菓子箱の中を見た。

チョコレートに、クッキー、お煎餅。

どれもこれも、ほんのひと口二口つまむためだけの、ごく小さなもの。

「ん!」

頷くと、カイトはチョコレートをひと欠けつまみ出した。

にっこり笑って、弟にかざして見せる。

「チョコ上げるね、がくぽ!!」