B.Y.L.M.

幕間ノ二/-フモノ

がくぽは左の手を上げ、日除けでもするように目にかざした。

否、単にかざしたのではない。手のひらを内に、人差し指を上瞼に、中指を下瞼に当て、すでに開いている目を、さらに押し開くかのようなしぐさを取る。

「<これは【主人の目】。なにものをも見通す、見逃さぬ目。これは【主人の目】>」

くちびるが紡ぐのは、神代詞だ。術を行う際に用いる言語であり、カイト曰く、うたに聞こえるという韻律の言葉。

その状態で、がくぽは四阿から屋敷へ、ぐるりと弧を描くように空を辿り、視線を流す。

屋敷に到達すると、今度は周縁を巡るように、ぐるりと――

「……やはり、な」

つぶやいて、がくぽは瞼から手を離した。同時にあえかなため息も吐きこぼし、それで無理やりに割りきって、振り返る。

仮置きしただけの、石造りの椅子に大人しく腰かけて待ってくれている最愛の妻へ、改めて状況を説明すべく、口を開きかけ――

朝の起き抜けからがくぽの胸に溜まっていた苦々しい思いが、そこでひと息に溶け、笑みへと変わった。

小卓――これも仮置きしただけのものだが――の傍らに立ち、朝から蟠っていた違和感を確認していたがくぽを、カイトはじっと見つめて待っていた。霜つくほどに冷やした杯を両手に抱えこみ、一途にじっと、じっと――

その、瞳の一途であること!

がくぽへの、無垢なほどの信頼に満ちて溢れ、たまさかにも、嫌悪や忌避といった感情が過ることはない。

――私の夫はうつくしい。

卑下を極めんとしていた自らへ、愚弄するなと叱ってくれた。その情景を、がくぽはまざまざと思い出す。

いったいどうしてこんな、わかりきったことを今さらあえて、と。

照れて、恥じ入り、なにより呆れ返って、カイトは告げた。

そういう意味で『呆れ』られることがなにより、カイトの言葉に嘘がないのだと、妻としたこのひとは、夫たるがくぽのことをほんとうに、いっさいの偽りなく、うつくしいと称賛してくれているのだと、――

いかにがくぽの性根が捻じれ歪んでいても、これはさすがに理解した。せざるを得なかった。

できなければ根性曲がりではなく、ただの阿呆だ。否、ただのを超えて、救いようもないか。

がくぽが強引な手段をもって初恋を叶え、妻としたひとの元は、王太子だ。

しかもがくぽから見て、哥の王太子教育というものは、他国に並外れて抜きんでて、厳しいものだった。いっそ南王とも対せるほどの、豪王でも育てようとしているのかと、勘繰るほどのものだ。

実際カイトは、ごく平然とした顔で『王子たれば、王太子なれば当然の』と振る舞い、あらゆる技や知識を行うが、がくぽからすれば、まったく当然ではない。ごく頻繁に、唖然とする。まさかどうして、たたびとの国でそこまでのと。

それは、自らという、やはり特異な生まれ育ちのものからすればというのでもなく、たとえば同じ西方の各国と比べたとしても――

とにかくカイトは、がくぽとはまた別の意味でもって、相応に厳しい環境のもと、育てられた。

厳しさをまっとうに受け止め、歪むこともなく律して、育ったのだ。

だというのに、これだ。

この愛らしさであり、無垢さであり、いっそおそろしくなるほどの、無防備とまで感じられる鷹揚さだ。

決して誠意を尽くしたとは言えない、以上に、不誠実を極め尽くしたとすら言えるがくぽを相手にも、赦して容れ、挙句、気負いもなく掬い上げてまでくれる。

どうしてと。

いったい自分がなにをして、こうまでこのひとはしてくれるものかと。

疑心暗鬼すら超えて、もはやがくぽは常に、愕然とするしかない。

「……がくぽ?」

「ああ、いえ」

振り返ったものの、迂闊にも見惚れて言葉を失った。

カイトからすれば、不審でしかない間だろう。そうでなくとも昼間の今、がくぽは間断なく口を動かしているのが常だ。

がくぽとしては、自らをそうまでおしゃべりだと思ったことはないのだが、カイトのそばにいるとこころが弾み、はしゃいで口が止まらなくなる。

あまり軽々しい男に見えてもと思うから、自重をこころがけたいところではあるのだが――ここの部分でだけは、対照的に寡黙さを極める夜の自らを、少しばかり見習いたいかもしれない。

「………っ」

思って、がくぽは眉をひそめた。腹がもやつく。無意識に、拳を握った。

ろくでもない。

なにもかもが、ろくでもない――

「がくぽ…」

「……そうです、ね」

再度、促され、今度は隠しもせず案じる色があって、がくぽはくちびるを歪めた。苦笑の理由はまったく別件だが、今の話題上、そういう表情でおかしいこともない。

「感じた通りでした。結界の主導権が、私からあなたへ移っている」

『見た』結果を伝えると、カイトの表情には先とは別の困惑が浮かんだ。気後れしたにも似た視線が、あてどもなく庭を眺め、がくぽの視線を辿るように、屋敷へ、空へ――

「………その、……『結界』と――いうのは?」

おずおずと訊かれ、がくぽは苦笑を深めた。

ひとの国出身の、カイトの『無知』ぶりに呆れたのではない。呆れるのは、自らの『無知』だ。

これまで漠然と、そういうものだと感覚のみで掴んでいたことが、あまりに多かった。おかげで白紙の相手にいざと説明を求められたとき、頻繁に言葉に詰まる。

そして愕然とする。そういえば、これはいったいなんであったのかと。

「そうです、ね………ええまあ、塀だの壁だのといったものの、一種と思っていただければ……近いですかね。形式がいろいろにあるので、ひと口に言うのも、むつかしいんですが……」

言って、がくぽは再び、空を見た。

とはいえ、先とは違う。視界はほとんど正しく、青空だ。懸命に<目>を凝らして、ようやくうすらぼんやりとした輪郭が浮かぶ。

それだとて、『そこにそういうものがある』と知っているから、そうだとわかる程度だ。知らなければ見落とすか、疲れで目が霞んだかと思うだけだろう。

『最弱』たる身には、術でもって補強しなければ、この程度のものを確かに見ることすら、できない。

がくぽが生まれたとき、未だ生きていたきょうだいのほとんどは、さして力の強くない種族だった。

それでもこの程度、普通の視覚として見ることができた。『見えない』がくぽが無防備に突っこんで行こうとするたび、きょうだいたちは大慌てで幼い身に飛びかかり、止めてくれたものだ。

ことに世話となったのが、南方においてもっとも旧い時代の血を伝え遺す、『最奥のもっとも旧き』と謳われる一族出身のきょうだいだ。

当時、生き残っていたきょうだいの内でもっとも強く、がくぽも含めた十とふたりの、すべてのきょうだいの内でもっても、最強を誇るひとりだった。

最強のはずだが、覚えている限り、普段にそうと窺える余地はなかった。

自らの足で駆け回れることがうれしくて、矢鱈めっぽうに走る幼いがくぽのあとを健気に追いかけ回し、危ういところを捕まえては、嘆いていた。

――なんとまあ、おまえはよわいのでしょう。そのうえ、むてっぽうで、こわいもの知らずです。こまったもの……おおきくなったら、かわりますかいいえ、よわいのはいい。よわいのはいいですが、『こわい』は、おぼえなさい。こわければ、いのち大事にうごくことでしょう。おまえはわたしたちの、大事なおとうと。さいごの希望です。ですからね、おまえ。よわいのはいいからもう少し、こわがりにおなり…

そういったふうに、嘆願するように言い聞かされた記憶ばかりで、厳しく叱責されたという記憶は、ない。

弱くてもいいというのが、口癖だった。弱くてもいい、弱くていい、弱さこそが――

最奥のきょうだいが生きていたとき、がくぽはようやく走れるようになったというところだった。だから記憶は曖昧で、見た形も声もなにも、すべてがおぼろだ。

否、違う。忘れて、ずっと、思い出すことがなかった。だからなおのこと、おぼろなのだ。

それを最近よく、思い出す。ふとした瞬間、そういえばあのきょうだいにはあんなことを言われただとか、あのきょうだいとはこんなことをしただとか――

そういうきょうだいがいたという、『記録』と化していたものが、自らの経験を伴った『記憶』として、蘇るようになった。

父親も、そうだ。長らく忘れて、滅多には思い出さなかった。

促されたところで、強いて思い出さないようにとしていた面があった。その強張りとでも言うべきものが、最近、ずいぶん薄い。それでたまに、思い出す。

この屋敷に彼とともに住み、まあ、放蕩もので居つかなかったから、そうそう長い時をいっしょに過ごしたという気もしていないのだが――

それでも、剣を教えてくれたのだった。鍛錬ではない、ほんとうの戦い方を。

ともに住んだころにはがくぽも相応に鍛えていたのだが、言うなら『練習』しか、したことがなかった。それを、実戦向きに鍛え直してくれたのが、傭兵稼業の長い父親だ。

――剣ってのは『使う』もんじゃあ、ないぞ、坊主。『戦う』もんだ。使ってどうする。使うな、使われるな、戦え!

さすがにほうぼうから止められていたからか、イクサにまで連れだされることはなかった。しかし代わりにと言っていいのか、傭兵仲間を呼んでの、ほとんど実戦というような模擬戦はよくやったし、それに、そう。

その仲間内でも、ことに片腕と頼みにしていた相手へ、自分がいなくなったあとは息子の面倒を見てやってくれと、頭を下げていてくれたのだ。

だから父親がいなくなってからもがくぽは実戦向きの鍛錬を続けられ、そして今や、カイトからは英雄と称賛されるまでの技量を得た。

ほかと比べたときの自らの未熟さを、脆弱さを知るから面映ゆい限りだが、それでもほとんど初恋たるひとからの、翳りもない、こころからの称賛は嬉しい。

その悦びを得られたのも、発端はだからきっと、父親だ。いるときもいないときも、いなくなってからもずっと、息子たるがくぽのことを思い、考え、守ってくれた。

そう、父親もきょうだいも、最弱の子たるがくぽのことを思い、守っていてくれたのだ。

それを、思い出す。思い出す、思い出す――

――おまえはいつ、おおきくなるんでしょう。

きょうだいたちの、口癖だった。きっとがくぽが幼いうちに、最弱がさらに脆弱のうちに、自分たちが先に南王に喰いきられ、もはや庇護下に置いてやれないと、知っていた。

南王の子の、敵は南王だけではない。南王に敵するもの、あるいは南王を崇拝するもの――

生きとし生けるもの、ほとんどすべてが子供たちの敵であり、味方と疑いもなく言えるのはきょうだいだけだった。

そういう状況で、最弱の子を遺し、逝かなければならない。せめて幼く脆弱な身でなく、自ら剣を握れる年まではと願っても――

――おまえはいったい、いつになったら、おおきくなるんでしょう。ひとの子というのは……ええ。ほんとうにままならず、いとおしい。

守りきってやれない、そこまで生ききれない自らの弱さを嘆きながら、きょうだいは皆、最弱のおとうとを慈しんでくれた。

おとうとたるがくぽが最弱であればこそなお、愛おしんでくれた――愛おしまれていた。

カイトに問われ、語ることで、知識ではなく経験として、思い出が蘇った。

紙片の上の黒い染みと化していたきょうだいが、父親が、肉の身を伴い、ぬくもりとともに還ってきた。

彼らは『そういうものがいた』という記録上の存在ではなく、がくぽを愛おしみ、慈しんでくれた親として、きょうだいとして、確かにいたのだと。

会ったことのないきょうだいにしても、互いに助け合うことでがくぽにまで繋ぎ、今があるのだと。

「諸々あれ、――つまり、守護術です。守るための力だ」

言いながら、がくぽは懐旧を振りきり、カイトへと手を伸ばした。

よくあることなのだが、今日も話に夢中となるあまり、カイトの体感覚は疎かとなっているらしい。霜つくほどに冷やした杯を両手に握りしめたままで、このままでは凍傷を起こす。

通常であれば、杯は中身ごとぬるくなるが、今は違う。そもそも霜つくほど冷やしたのから、がくぽが用いた術だ。カイトがすべて飲み干すまでは、杯も中身も諸共に、霜つくほど冷えきっているようにと。

「<仔狐に手袋を>」

伸ばした手、人差し指の爪先でこんと杯の縁を突き、がくぽはひと声、唱える。

「ぁ……」

カイトがはっとしたように、杯を見た。見て、首を傾げる。

おそらく冷たいまま、変化がないことに戸惑っているのだろう。

がくぽは笑って、おそるおそると杯から離されるカイトの手の甲を、同じ爪先で軽く、つついた。

「あなたの手に、――『結界』を。杯の冷気を遮断しました」

「え………あ、……ああ」

きょとんとしてから、再びカイトは自らの手と、小卓へ置こうとしていた杯とを見比べる。

とはいえ、すぐには効果がわからないはずだ。がくぽが今、術を掛けるまでに冷えた分を取り戻すまでの効果は、及ぼしていない。

あくまでも『今』から、これから――

「イクサなどの際に用いる、戦術としての『結界』とは少し、意味が違います。あれらの大概は、攻撃を集中することで相手の足止めをし、もって味方の防御とも為すという、攻防一体の戦術でしょうではなく、術で起こす『結界』は基本、攻撃はしません。手甲であり、兜であり、鎧であり、あるいは盾であり、垣であり、塀であり、壁であり、――天幕で、天蓋で、屋根です」

「ああ……」

なんとか捻りだした喩えは、幸運にもカイトに理解の容易いものであったらしい。表情がどこか安堵したように緩み、再び、改めてといった感で空を見た。

「では――この屋敷全体にも、そういったものがあるとおまえの目線の動きからすると、天幕か、天蓋式か」

「ええ、そうですね」

理解してもらえたことにがくぽもほっと安堵しつつ、しかしその表情はすぐに、あえかな苦みを刷いた。

「ただ、天蓋の、天幕のとは言っても、骨組みだけと言いますか――枠を組んで、そこにざっくりとした網目を張り巡らせただけのと言いますか……。通常、南方では、ある程度の規模の屋敷となると、恒常的に結界を張り、保つ術式が、すでに建築の段階で組みこまれているものなんですが……そうですね。垣だの塀だのをこしらえるのと、同じような感覚と思っていただければ。ほら、だって術を使って一から組み立て、維持し続けるとなると、術者の力がそれだけ喰われるということですから。負担もそうですし、効率もよくないでしょう?」

この説明で理解できたかと窺うと、カイトはこくりと、神妙に頷いた。素直な様態なのだが、幼いしぐさでもあり、がくぽは庇護欲が刺激されて仕方ない。

これがカイトに不評なのはうすうすわかっているのだが、それでも堪えきれず、がくぽの笑みは庇護欲とともに深まった。

案の定で、カイトがむっと眉をひそめる。それもまた、幼いらしく、愛らしい――

悪循環を極めつつも自らから断ち切る気はまるでなく、がくぽはしらりと話を続けた。

「とはいえ、よほどに張りこまない限りは、今言ったような、骨組みという程度のザルさ加減で……それでも力を持たない、弱い手合いであれば十分に防ぐんですが、たとえば『あれ』といったものだと、歯牙にもかけない」

「あー……」

「ので、私が術を重ね掛けし、骨組みの上にさらに、もう少しぅ、目の細かい『網』を被せ、補強していたわけです。もちろん私程度の力ですからね、あれとなるとやはり、ないも同じと、歯牙にもかけないわけですが」

「…………」

清々と告げると、カイトはぷくりと頬を膨らませた。瞳が不満を湛え、じっとりとがくぽを見る。

――一度は、南王の首を掻き飛ばしもした。おまえほど強い騎士を、私は知らないのに。

言いたいことは、およそこんなところだろう。

カイトはがくぽの強さを疑っていない。信じているのではない――疑っていないのだ。

それで、卑下も過ぎ越すとひどく叱られる。

けれどがくぽには、おまえは弱いと刷りこまれ続けた今日までがある。

それはカイトと出会って、こうして夫婦として暮らした日々よりよほどにずっと、ずっと長い。あるときは責められ、あるときは謗られ、侮られ、蔑まれ、――

――まあ、今は弱いな。当たりまえだ、おまえはまだ、子供だぞ。強くてどうする。弱くていいんだ。弱いから、鍛えてやれるじゃあ、ないか。イクサしか取り柄のないこんな父親でも、教えてやれることがあるんじゃあ、ないか。なに、心配は要らん。おまえは俺の子だ、いずれ大きくなれば……

豪放に笑って、がくぽの弱さを容れたのは父親だ。夜の幼子であろうが昼の少年であろうが構わず、頭を力強く撫で混ぜ、あるいは暑苦しく抱きしめて、弱くていいのだと、だからこそ父親甲斐があると言った。

がくぽが弱くいてくれるのは、父親孝行なのだと。おまえはイクサ鬼の自分には過ぎた、もったいないほどのいい息子だと、くり返し、くり返し――

――よわくても、いい。よわくて、いい。おまえのよわさこそが、きょうだいの………

胸に抱き、膝に乗せ、あるいは背に負って、きょうだいたちもまたくり返し、がくぽに説いた。

そう、きょうだいたちは最弱たる身を遺していくことは嘆いても、最弱たるがくぽを責めることはなかった。

おまえが最後の希望だと、おまえこそが希望の子なのだからと――

『最弱』に過ぎ越した期待を懸けてくれたものだと思いはするが、少なくとも一度、立証はされた。

がくぽは、上にいた十とひとりのきょうだいの、誰ひとりとして成し得なかった、南王の首を胴から掻き飛ばすということをしてのけた。もっと強い、もっとも強いきょうだいはいくらでもいて、けれどがくぽだけが。

最弱種族たる人間の父親を持ち、彼にイクサを仕込まれた自らのみが――

とはいえ実際のところ、父親やきょうだいに言い聞かせられていたそれらを思い出したのは、南王の首を掻き飛ばし、カイトを妻としてからのことなのだが。

ぽつぽつと、日々蘇る記憶は、それでもやはり霞んで、おぼろだ。

幼かった――きょうだいが未だ生きていた時分、がくぽはずっと、幼かった。夜だけではない、昼も未だ、幼いままだった。

きょうだいのなにもかもを覚えておくには幼過ぎ、なにより生きていく環境が過酷だった。

だが、思い出した。思い出しつつある。

慈しまれていた。

愛されていた。

がくぽを愛して、慈しみ、責めることなく容れてくれたひとたちが、いた――

ひとりではなかった。守られていた。守られている、未だ、まだ。

彼らに守られて今へと続き、そして今やカイトに守られ、ようやくがくぽは、ここにいる。