B.Y.L.M.

ACT1-scene4

初め、カイトは自分がなぜ目を覚ましたのか、わからなかった。睡眠も足りれば、目を覚ますだろう――生きている限りは。

では睡眠が足らないというのに目が覚めて、それゆえに不思議だったのかというと、そうではない。

目覚めた瞬間に思わず腹立たしくなったほど、カイトは久しぶりに熟眠し、こころから満足して覚醒した。

眠りに落ちる直前まで身を苛んでいた疲労も――肉体的なものも精神的なものも、どちらも軽減し、あるいはまったく感じないまでに快癒していた。

だからそれこそ、ここ最近まったくなかったほど、目覚めは快適で心地がよかった。

しかし、であればこそ、また別のところで納得がいかなかったのだ。

これほど気持ちがよい眠りだったというのに、どうして目を覚まさなければならなかったのか。

いっそずっと眠ったまま、夢の世界の住人でいたかった――

対面しなければいけない現実というものがあり、いくら疲労が軽減したとしても、目を背けていたいものは、背けたままでいたいのだ。

しかしカイトは目を覚ました。戻ろうにも、若い体は事足りた睡眠に容易く戻ろうとはしない。

結果として起きる以外の選択肢はないわけだが、いったいどうして自分は目覚めなければならなかったのかと、無意味でも犯人捜しをしてしまうのは、仕様のない人間心理だ。

「む………」

多少子供っぽく頬を膨らませ、ちょっとばかりくちびるを尖らせるという拗ねた表情で、カイトは布団に顔を埋めた。上質な触り心地で、しかもひどくあたたかい。これでも眠りに戻れないというのだから――

「………は?」

そこまで思ったところで、カイトは今度こそ完全に、目を覚ました。覚まさざるを得なかった。

目をきょとんと丸く、自分の体をくるみこむものの存在を確かめる。

寝る直前、カイトの体にはなにも掛かっていなかった。着の身着のまま――上質な座り心地であり、最上の乗り心地である馬車は、たとえば揺り椅子での午睡が、掛けものなしであっても心地よいのと同じだ。

疲労に潰れるカイトの気持ちを刺激することもなく、むしろやさしく包みこんで溶かし蕩かし、癒した。

だから掛けものなしでもまったく気にならず眠りこみ、だというのに起きたら『布団』にくるまれている、現実。

「………外套?」

ここまで目が覚めると、さすがにぐずる気はない。そんな年齢はとうに過ぎたし――見習いとも紛うような少年騎士の『妻』となるに、自分はすでに『とうが立った』と言われるような年代ではないかと、ふと掠めた思考はひどくカイトを疲れさせたので、すぐさま頭を切り替えた――、王太子としてしつけられた日々がある。

カイトはただ甘やかされ、遊蕩を赦されて育った王子ではない。常に醸す、春の陽だまりに似た穏やかさに目を眩まされがちだが、ゆくゆくは国を統べるべく、取るべき態度や振る舞いは厳しく叩きこまれた。

その結末がこれであっても、長年の習性が抜けるほどの時は経ていない。未だにカイトの思考も行動も律してある。

ゆえに諦めて、逃げたい現実と向き合う覚悟をし、いつの間にか座席に転がっていた体を起こしたカイトだが、自分をくるんでいた『布団』の正体を確かめ、首を傾げた。

外套だ。

矯めつ眇めつしてカイトはそれが、自らの従属騎士団に配給される、イクサ場用の外套であることに思い至った。

カイトの前に現れたとき、少年が外套まで羽織っていた記憶はない。おそらくは馬車のなか、どこかしらにしまっていたものを、カイトが寝入った後に掛けものとしてくれたのだろうが――

イクサ場用の、武骨なほどに質素な外套だ。斬られ裂かれ破かれと、頻繁に傷んでは修復を要することになると想定して、そう高価な素材も使っていない。

言っては難だが、王太子の従属騎士団だ。予算はある。もう少し、いい材質のものを使えばいいのにと思っていたカイトだが、意外によい心地の寝具となった。なるほど、不足はなかったのかと――

思ってから、カイトは眉をひそめた。

時があり、場合がある。

こういったのんきで恵まれた状況にあっては、たとえば女性たちが肩隠しに羽織るような薄衣であっても、『意外に心地よい寝具』となるだろう。

「……っ」

ため息を押し殺し、カイトは矯めつ眇めつしていた外套を簡単に畳んだ。腕に掛けると、ようやく辺りを見回す。

がくぽがいない。

馬車が停まっている――

「………なるほど」

カイトは小さく頷いた。

心地よい眠りが覚めた原因は、これだ。

馬車が停泊し、心身共にあやすようだった『揺れ』がなくなったことによって、事足りた睡眠は目覚めを選択したと。

「ぅ………ん……」

どうしようかとためらってから、カイトは馬車の扉を見た。

厳重に鎖されているわけではない。自らの足が、繋がれているわけでもない。

自由に動いても、いいということだ。

――たとえば、馬車から下りても。

「…っ」

軽く息を呑んでから、カイトはそっと、立ち上がった。

寝る前には座っていてさえ悲鳴を上げたいほどに痛んだ足だが、起きた今はもう、なんともない。わずかにだるさ、ないしは重さといったものが残るが、その程度だ。

「………どれくらい、寝た?」

快癒を歓ぶ思いより不審があり、カイトは扉に手を掛けたところで動きを止めた。

確かに若さはあるが、多少寝た程度で治まるような痛みではなかった。ことに回復力の高い性質というわけでもなかったし――

「………まあ、良い」

逡巡はあったが、長くはない。軽く首を振り、つぶやくことで、カイトは切り替えた。

ひとりきり、こうして考えていたところでわからないことはわからないし、なによりもがくぽだ。

どうして、いないのか。

あれほどに強くつよく自分に執着を見せた少年が、こうまで無防備にそばを離れることが納得いかない。なにか大事に巻きこまれでもしたか――

「………っ」

眉をひそめてくちびるを引き結び、覚悟を固め直してから、カイトは馬車の扉を大きく開いた。外に出る。

「………どこだ、ここは」

カイトは唖然として、あたりを見回した。

馬車の向きから考えて、カイトが後にしてきた方角に見えるのは、ひたすらに森だ。

どうやら立っているのは、その森をようやく抜けた先、ほど近いところにある丘の頂点のようだが、――それにしても、見渡す地平線まですべて森だ。鬱蒼と木が茂り、果ても見えないほどに深く、広い。

こんな森の存在を、カイトは自国に知らない。

いずれ王と成った時に国をよく統べるべく、カイトは積極的に各地への視察に赴いたし、地理学において自国の領土をよく学んだ。

が、思い当たる地名、地形的特徴がない。

熱心に学びはしても自国のすべてを知るわけではないし、他国の情報など集めようにも、どうにも微々たるものでしかない情勢であり、現状だ。

だから、ここがまったく覚えのない場所だったとしても仕様がないが、少なくともカイトの生国たる哥ではない。否、哥の国どころか、西方ですら――

乾いて、砂地が多いのが、西方全体の特徴だ。ここまで深い森の存在を知らない。

なにより、空気だ。哥を含む西方の、乾いていがらっぽい、砂を含むものではない。湿ってあたたかく、果物や花の甘く熟した香りを含んで、身にまとわりつく。

「いったい……」

つぶやいたカイトは、見てもみても果てがわからない森から目を離し、おそらく進む先と思われる方角に体を反した。

一度丘を下りて、再び上った高台に、屋敷が見える。遠目にしても頑丈そうな塀に囲われているが、街を抱えこんでいるという規模ではない。おそらくはひと家族――あるいは一族のみが、使用人ともども暮らす屋敷があるだけの。

いずれ軍属か、武官である貴族の住まいだろうとは思う。同じように『屋敷』とは言っても、商人や文官といった種類が好む住まいの設えには見えないからだ。

さらにその先には、眩しく光、揺れ動く――

「う、…み?」

「そうです」

「っ!」

訝しいつぶやきに答えが返り、カイトは肩を震わせた。慌てて振り返ると、探しびとたる少年騎士が変わらぬ無愛想ぶりで、いた。

愛想は良くないが、カイトはなぜか安心して、くちびるを笑ませる。

がくぽの手には、桶があった。汲まれているのは、澄んできれいな水だ。おそらくは、長い距離を走ったであろう馬を、休ませるため――

「あげておいで」

「………」

息を切らせる様子もなく大人しく停まる馬へ顎をしゃくると、がくぽは非常に不満げな表情を晒した。カイトの態度が子供扱いに感じられたのだろう。

しかし一瞬だ。すぐに踵を返すと、馬の前に桶を置く。

カイトには不満そうな表情を見せたが、馬に対するがくぽの態度は騎士に特有のものだった。自らのいのちを預けて戦う相棒を、労わり慈しむものだ。

彼らがよくするように、鍛え上げられて逞しい体を叩きながら、なにごとかつぶやき――

「♪」

「……ん?」

カイトは綻んだ表情を、訝しさに歪めた。すぐに平静を装ったものの、がくぽがさえずる『言葉』には注意深く、耳を澄ませる。

「♪」

――やはり、韻律に聞こえる。寝る前に聴いた気がした子守唄も、おそらくはがくぽで間違いがないだろう。あのときは、年頃の少年であり、無愛想を極める相手がうたうなどあり得ないと断じたが、そうではない。

否、確かに、『うたった』わけではない。そういった意味では、正しかった。

本来的には、うたではない。しかし、うたに聴こえる。そういう言葉なのだ。神代詞や古語、土着語など、カイトが知るなかで、類する言語といえば――

「がくぽ」

「あれが俺の屋敷です。すぐそばですが、ここまで来たなら休ませて、水をやると決めていたので」

「……」

問いを遮るように、がくぽは言葉を連ねた。口早で、目を逸らし、なにを問われるかわかっているような素振りだ。答えたくないと、全身から警戒を撒き散らしている。

カイトは口を噤んでしばらく、隠しごとに躍起になっている少年を眺めた。

眺めるだけだ。言葉はない。沈黙だけを与える。ひたすらに、ひたすらに沈黙を。

ややして狙う通り、負債を抱えた沈黙に耐えきれなくなった少年が、力なくうつむいた。敗北を掲げながら、ぼそりとつぶやく。

「………いずれ、話します。あなたを正式に俺の妻と迎え、………そののちに」

「隠しごとのある婚姻は、すでに破綻を前提にしている」

そっとつぶやいたカイトに、少年はびくりと震えた。反射で上がった顔には、縋る色がある。

読み取った感情に、カイトは自らを悔いた。

幼い相手に、なにをやっているのかと思う。納得もいき難く、理解にも苦しむ事態だとしても、相手はカイトを得るために奔走し、尽力して、おそらくは重傷も負った。

「がくぽ、おまえ」

そこでふと思い出し、カイトはすんと鼻を蠢かせた。すぐに、眉をひそめる。

わからない。

相手から見て、カイトは風下にいるはずだ。しかし臭いが誤魔化され、嗅ぎ分けにくい。

西の乾いた風であれば、カイトにはがくぽが未だに血の臭いを漂わせているのか、怪我の気配を嗅ぎ分けられただろう。

今は、だめだ。嗅ぎ馴れない香りがあまりに多く、しかも存在の主張があまりに濃く、強過ぎる。

ひとつひとつが別個に、競うように香りを放ち、頭がふらつくようなのだ。決して不快なにおいではないが、主張が強いのも良し悪しという。

「……………いい」

「………」

諦めてつぶやいたカイトを、がくぽはじっと見ていた。

一度瞼を伏せて思いきると、カイトは瞳を開き、少年へ笑いかけた。

「赦そう」

「…っ」

こぼれたひと言に、がくぽが限界まで瞳を見張る。唐突にひどい緊張に見舞われたかのように全身を固め、カイトを凝視した。

カイトはせめてもの矜持と、掻き集めた誠意でもって強い瞳を見返し、さらに表情をやわらかく解いて微笑んだ。

「隠し立てがあっても回る家庭があるなら、それは『妻』が『夫』を赦せるかどうかだ。おまえは私の夫で、私はおまえの『妻』であるなら………私が赦すことで、婚姻が破綻することはない。永遠に」

頑是ない子供に言い聞かせるように説いて、カイトはふるりと首を振った。横だ。笑みに、わずかな呆れが混じる。『気が早い』という。

「だから私は、おまえを赦そう――未だ夫婦の契りは交わしていないが」

告げてから、カイトはどこか茶化すように、ことさら声も表情も軽くして、続けた。

「なににしろ、私が妻でなくおまえが夫でなくとも、おまえは私の恩人に違いないし――」

「恩人と遇されるより、俺はあなたのただひとりなる夫と認められ、あなたを妻と為すことを望む」

「………」

強い口調で遮られ、カイトは改めて、目の前に立つ少年を見た。頭の天辺からつま先まで、しげしげと眺める。

翳る瞳は清明な光を失って、濁り色のなにかに囚われている。懸命に自制し、堪えているが、それこそ隠しようもなく、あからさまに執着がある。

憧憬も含んで、ひたすらにカイトを求める、強いつよい思い――

しばらく見合ってから、カイトはふっと、うつむいた。小さく、笑う。

「好きにすればいい」

一度つぶやいて後悔した言葉を、またつぶやいた。

わかっていたからカイトは決して顔を上げず、少年がどんな表情を晒したか、確かめなかった。