B.Y.L.M.

ACT2-scene2

会話をしていない。以前に、まともな言葉らしい言葉も発していない。

一日のほとんどの時間を寝台に縫い止められているが、それ以上にこの寝室から一歩も出ていない。

食事の記憶も曖昧だ。最後の記憶はほとんど、初夜が明けて翌朝の、粥と果物だけだ。

否、ごくたまに、茫洋と横たわるだけのカイトの口に果物が押しこまれたり、蜜が流しこまれることがあったが、つまりその程度だ。甘いそれらの、汁を啜り飲んだ記憶だけはあるが、自分で食器を持ち、あるいは固形物を咀嚼して食べたという記憶は、ほとんどない。

そんなことがあり得るわけもない――

すべてにおいて、だ。

なによりも、この状況をつくった本人であるがくぽの、カイトの夫となった少年の、性欲の加減だ。

初夜のときにも、思った。がくぽは夜もすがら、カイトを貪ったのだ。確かに旺盛な年頃ではあるし、叶った『初恋』に昂じた挙句のことと言えないこともないが、それにしても激しいと。

だが、今の状態は『激しい』という程度を超え、もはや常軌を逸している。

がくぽは日がな一日、夜もすがら、カイトを求め、貪り続けている。

いったいどの程度の時が経ったのか、数えてもいないし数えられる状態でもないが、少なくとも一日二日のことではない。

いくらどうでも、不可能だ。常軌を逸しているどころの話ですらない――

が、現実に起こっていることとして、がくぽはカイトを貪り続けている。

そう、『貪る』だ。

初めての夜にそうだったまま、がくぽは夢中で、一途に、ひたすらカイトを貪る。まるで激しい飢餓に陥った子供が、満腹を知ることもできず、止めどなく目の前の食物を口にし続けるように。

――カイトさま。

甘く蕩ける声音で、縋るように名を呼ばれるのも変わらない。かん高い、子供の声だ。カイトが抵抗を思いついても、ついほだされて止まらざるを得ない、憐れな幼子の声だ。

なにをそう、自分に求めているのか――それはカイト自身を与えることで、満たせるものなのか。

あまりに切ない、懸命な声に問いかけてみたいが、飢え餓えて貪る子供はそんな隙を与えない。ひたすらカイトの体を貪り、貪られることで開かれていくカイトの体は、さらに問いを放つことを困難にしていく。

喘ぐことが精いっぱいで、とてもまともな言葉など発せないのだから、これを笑わずして、いったいどうしろというのか。

「ん……」

ふと、意識が浮かび上がり、カイトは重い瞼をゆるゆると開いた。

「♪」

聞こえたのは、うただ。否、うたにも聞こえる韻律の、なにかの言葉。

同時に、はらはらと舞い落ちてくるものがある。

霞む視界で茫洋としたまま、カイトはやわらかでやさしい韻律の言葉に耳を浸し、舞い落ちてくるなにかに埋もれた。

急く必要もない。どうせ急いて意識を戻しても、待っているのは際限もなく、終わりも見えないあの快楽の時間だ。どうかしている、常軌を逸していると思うのに、抵抗もままならない。

揺蕩うに任せ、カイトはゆっくりと意識を浮かばせ、そして視界を定めた。口元が、笑みに小さく歪む。

舞い落ちていたのは、花だ。とりどりの、咲き開いて今が盛りの花。

降らせていたのは、寝台の傍らに立つがくぽで、その腕にはまだまだたくさんの花が抱えられている。

抱えた花をカイトの周辺に降らせながら、がくぽはうたに聞こえる韻律の言葉を小さくちいさくつぶやいていた。

表情が幼気なほどにひどくまじめであり、悲痛で、カイトの胸も痛んだ。

酷い扱いを受けているものだと、思う。

がくぽは、人智を超えたという意味で『魔』の冠を与えられた南王を斃し、幽閉されていた塔からカイトを助けだしてくれた恩人だ。

とはいえ今のカイトの扱いは、妻というより性奴隷にも近い。わずかにも違うことがあるとするなら、奉仕に尽くすのはあくまでもがくぽであり、基本的にカイトは寝台に転がってさえいれば良いという。

与えられるのはひたすらに快楽で、暴力を振るわれるでもない。

だが、些少な違いでしかない。

寝台に縫い止められたまま、まともに話すこともなく、ひたすら体を貪られるのだ。意識を失うたびに一度、体はきれいに拭われて清潔を取り戻すが、意味はない。

意識を取り戻せばすぐさま、またもがくぽは伸し掛かってきて、カイトの体を貪るからだ。そうなればきれいにした体は、あえなく体液に塗れる。清潔などひと時の幻に等しい。

そういったなかで、衣服を着せ直す無意味のほうは、悟ったらしい。

がくぽが離れる際、カイトの体は寝具にこそ覆われるものの、もうしばらく、衣服らしい衣服を身にまとっていない。まとう必要もない。

いずれ、寝台から下りることもできず、ましてや寝室から一歩ですら、出ることもないのだ。

気候は初めに来たときとあまり変わらず、蒸し暑いようなそれだ。季節が移ろえばこの蒸し暑さが増減するかとも思ったが、今のところ激しい変化は感じない。

少なくとも、季節が激しく移ろうほどにはこの状況が続いていないということか、そもそもこの気候で一定を保つ地域であるのか――

どのみち寝台にあるなら、衣服を要する気候でもないということだ。なおのこと、遠のく。

そういう、まともとは程遠い、酷いと言っても過言ではない扱いを受けているにも関わらず、カイトのこころはがくぽに傾いたままだ。いとけない、愛らしい少年だとうっかりほだされたまま、嫌悪に傾くことがない。

年長のものとして、なんとか威厳を取り戻し、この相手をまっとうな道に戻してやりたいと思うことはある。

むしろ愛おしさを感じれば感じるほど、どうにかして道を戻してやりたいと。

なにしろ、少年だ。まだ若いのだ。幼いとすら言える。ひと時、道を誤ることがあったとしても、戻してやればその先は長い。きっと無駄にはならない。糧にして、より良い道に進むこともできるはずだ。

思うが、なにかに追いつめられて追いこまれ、思いこんだ少年の激しさに敵わない。カイトは力負けし、押し負けて根負けし、へし折られて流される。

そうしてここまできて、もはや考えることにも疲れてきた。

そもそも考えることに疲弊したまま、自棄にも近い感情で少年のところに嫁した。癒える間もなくこの在り様で、浮上のしようもない。

もはや堕ち往くのみが道で、できる最善にも見える――

「♪」

うたが降る。ともに、花が。

幼い腕いっぱいに抱えた花は、おそらく初めに見た庭に咲いていたものだ。きっと手入れがてらにカイトのため、摘んできてくれるのだろう。

かわいらしい所作だと思う。少女とも見紛う美貌の少年が腕いっぱいに、とりどりに鮮やかな花を抱えている姿というのは、実にさまになる。

それに、だ。

こうして日がな一日、夜もすがらにカイトを貪り尽くし責め苛みながらも、とりあえず庭の手入れは怠っていないのだ。

確かめていないので、実際にどういったことをしているかまでは不明だが、庭から漂う花の香りが弱くなったり、悪化した様子はない。こうしてたまさか土産に持ちこまれ、降らされる花にしても、非常に質のいい、よく手の掛けられたものだ。

ならばそこに救いがあるのではと、カイトは思う。

がくぽはこの、爛れたとしか言えない生活に、すべてを投げて浸りこんでいるわけではない。

騎士として出仕することは止めてしまっているようだが、それはいい。

もとは王太子であったカイトを妻とするという、前代未聞の事態を巻き起こしているし――たとえそれが正当な報酬であったとしても、前代未聞は前代未聞であり、禍根の大きさは想像に難くない。

居心地が良い理由がまるで思い浮かばないから、出仕を控えていること自体は、目を瞑ることができる。

なによりがくぽはカイトの騎士だった。王太子の、カイトの騎士団に所属する騎士だったのだ。

がくぽに剣を授けたのも、カイトだ。今後はこの剣に懸けて主に忠義を尽くし、身命を賭して仕えるようにと訓戒し、がくぽは拝命して騎士となった。

ならば主であるカイトがここにいる以上、騎士の居場所も不在の王城ではなくここであるというのは、非常に納得がいく。

だからあとは、がくぽが他になにをしているのかということだ。

庭の手入れをしているなら、少なくとも日の下で、なにかしら汗水垂らしているということだ。

その状態は、健全だ。このうえなく、これ以上なく、健全な行為だ。

それでどうしてすぐさままた、爛れた行為を続けようと思うのか、こころが折れないのかが理解不能も極まるが、いい。

なにかが逃げ場となっているなら、いずれそこから開けるものがあるはずだ。

「………ん…」

すんと、周囲を埋める花の香を嗅いで、カイトはさらにくちびるを綻ばせた。

来た当初、圧倒された香りだ。あまりに濃く、重く、まるで経験したことがないほどに強かった。

最近は、ようやく馴れた。馴れたといっても、だからと紛れる微細な香りが嗅ぎ分けられるようになったわけではない。相変わらず、鼻は誤魔化されていると思う。

思うが少なくとも、圧倒されて竦むようなことはなくなった。

これはこういうものと、受け入れて、愉しめるようになった。ひたすら甘く重く濃いとだけ思っていたそれらも、種類によってそれぞれ違うのだと、ある意味で当たり前なことにも気がつけた。

そうして改めて思い巡らせると、どうやらがくぽは相当に花に詳しいようだ。庭の手入れついでの土産として摘んでくるのだろうが、きちんとカイトの調子を考えて選んでいる節がある。

少なくとも、今、あの花のにおいを嗅がされると胸やけがしそうだというときに、そういう花を持ってこられたことはないし、逆もしかりだ。

あの花の香りが恋しいと思えば以心伝心とばかりに持ってくるし、合わせる花の香りも混ざって不快にならないよう、注意深くすぐっている。

だからこの瞬間が、カイトは好きだった。

目が覚めるときれいな花が降ってきていて、うたにも似たやわらかな韻律が周囲に満ちている。

うたう、花を降らせる少年の表情は憐れなほどになにかを思いつめたまま、花色の瞳に翳すものも晴れる様子はないが、だとしてもやはり、うつくしい。

体に怠さはあるが苛まれているわけでもなし、静かで、穏やかで、波立つものがない。しんしんと、満たされていく――

おそらく、このひと時の安らぎがあって、カイトは正気を手放さず、未だなんとかいられるところがある。

少年が意図しているかどうかは不明だが、ある意味でもって、連日連夜の快楽責めよりも惨たらしい時間だ。否、あれがあるからこそ、このうつくしいひと時が無惨となる。

手放せば楽な正気が手放しきれず、カイトはあるかないかもわからない希望を抱き続けるのだ。

すべてわかったうえで、カイトはこの、刹那に似た時間に浸りこむ。飢え餓え、不足していたものが満たされていく感覚はこれ以上ないご馳走であり、贅沢で、快楽だ。

花がすべて降り、少年の腕が空になれば、今度抱かれるのはカイトだ。与えられるのはまた、気が狂うほどの、日々刻々と悪化していく一方の快楽で悦楽で、堕落だ。

きっと話すなら、今なのだ。この、なにかに追いつめられ追いこまれた挙句、思いつめたなにかでがんじがらめとなった幼い夫と、意思の疎通を図るべく、なにかしらでもいいから言葉を交わすのなら――

それもわかったうえで、カイトはただくちびるを綻ばせるだけで、開かない。咽喉は塞がり、閊えて、思考は疲弊し、鈍く、回らない。

言葉を思いつかず、発することもできないから、カイトは黙って、――

「♪」

最後の韻律が終わり、最後の一輪が落ちる。ふわりと漂ったのはどこか懐かしい、けれど具体的ななにとは言えない香りだった。

具体的ななにとは言えず、それでもこころを掻かれたような。

それは、望郷に似ていたかもしれない。もしくは幼い日を思い起こし、覚える感情に。

肺腑を握り潰されるような感覚があり、咽喉にせり上がるものがあり、瞳が熱くなって、――

だからと、黙ったまま茫洋と過ごしたカイトの瞳に明朗なる光が戻ることはなく、ただ、そう。

けれど、そう――わたしをわれる、と。

「かい、っ?!……っ」

「ん…」

その日――カイトは初夜から辿って初めて、自分からがくぽへと手を伸ばした。

このとき、この瞬間に、カイトになんらかの考えが具体的にあったわけではない。

考えることに疲弊し、考えるともつかない考えだけを過らせるのが、ここ最近のカイトだった。正気はあれ、希望も手放せずにいるが、道筋をつけることもできないという。

だからことになにか、はっきりとした言葉に直せるほどの思うことがあったわけではなく、ただまず、手が伸びた。

そうしたかった、欲望の産物であり、本能的で直観的ななにかだ。本能的で直観的であるために、明確な言葉にはならない。なれない。

ただ体だけが、ことわりをこころ得て動く。思考が追いつくのはその、ずっとずっとあとという――

「………っ」

「……ん」

がくぽは驚きに強張り、身を寄せることも、まともな言葉を発することもできない。

ひたすら息を詰めるだけの少年の首に腕を回して抱きしめ、カイトはその肩口に顔を埋めた。力ない腕で懸命に幼い夫の体に縋りつき、鼻をすり寄せる。

香るのは、日の下にあった少年らしい香りだ。健康で、健全な。

日の香りと土の香り、あとは、抱いていた花のそれと――