B.Y.L.M.

ACT2-scene5

端的に吐かれた言葉は、カイトの想定の内ではあった。

いつまで経っても瑞々しいまま、膿みもしないが治りもしない傷など、通常であればあり得ない。ならば理由など、ひとつだ。

わかってはいたし、先の、傷を見る前と違って、これは想定の範囲に落ち着いた。

が、カイトが受けた衝撃は先と同じか、勝るほどだった。

想定していたことを、はっきりと肯定された。もはや逃げようもなく、無視のしようもなく――

「あれ、と――………南王と、戦いし、とき………最後の、さいごで」

ぼそぼそと、がくぽは続ける。

相変わらず言葉少なで、声も小さいが、必要なことは伝わる。

がくぽは南王と戦い、斃したは斃したが、振り絞られた最期の力を避けきれず、呪いを受けたのだ。

術者が誰であれ呪いなど、厄介以外のなにものでもない。

それを、よりにもよって、人智を超えるという意味で『魔』の冠を与えられた南王、それ自身から、今際の、渾身の力をこめたであろう、呪いを――

カイトは砕けるばかりの力で奥歯を噛みしめ、拳を握った。

想定していたにしろ、これは最悪だ。

そもそもカイトはそういった、術式というものにことさら詳しくないし、操る力も持たない。しかも相手が相手だ。

人智を超えるという意味で『魔』の冠を与えられたほどの南王が施した呪いに、果たして賢者と称されるものであれ、ただびとでしかないそれらが、解呪の式を組めるものなのか。

人智を超えるがあまりに『魔』の冠を与えられたものが、最期の力を振り絞った。

それがただびとに、容易く解ける程度のものであるのか。

もちろん諦めることなく、片っ端から伝手を辿ることはしよう。わずかなれ可能性のあることならなんでも試そうと、少年のため、生涯を懸けても力を尽くしきろうと――

少なくともカイトは、思う。

けれどそう思うのはおそらく、カイトだけなのだ。

初めから解く気もなく、諦めきっていればこそ、がくぽはこうして不健康に耽溺していたのではないか。

あの、異常としか思えない性欲の日々が、凄惨な呪いからの、懸命の逃避であったとするなら――

「わたし、は……っ、嫁して途端に、寡婦になるのは厭だと、いった、っ」

こみ上げるものを堪えて食いしばり、戦慄くくちびるからなんとか言葉を吐きだしたカイトに、がくぽはぴくりと肩を揺らした。その背がきゅっと強張って、――鉄面皮を装う表情を読むより、翳る花色の瞳を窺うより、体のほうが余程に素直で嘘がつけないのだと、カイトは思考の片隅を逃がして考えた。

そうやって気を逸らしでもしなければ、激昂のあまりに意識が飛びそうだ。

強張った背が示した通り、がくぽは相変わらずの強情を取り下げる気が、さらさらないようだった。同じほどに強張った声が、絞りだされる。

「案ずることはないと、答えました。これは死に至る呪いではありません。せいぜい、時を止めているだけです。血も流れるわけではないし、大したことなど」

「痛みもないと?!」

「……っ」

怒鳴るように返したカイトに、がくぽは咄嗟にくちびるを噛んだ。素直な少年だとカイトは思い、それから思い直した。

逆だ。少年がゆえに、こうまで素直なのだ。

痛みはある。

先のように掻き毟りでもしなければ、新たな血は流れない。膿んで悪化することもない。

けれど治らない。傷を受けた瞬間、その痛みもともに、引くことなく、ずっと――

表皮を薄く斬られた程度の傷ではない。そこにあった肉を、完全に削がれている。肉のみならず、骨までも掻き取られているのだ。

こうまでの傷となれば、どれほど痛むことだろう。

この痛みを、傷を、このまま――がくぽは生涯、味わい続けるのだ。まるで解放されることもなく。

ひとが傷を負って痛みにのたうち回るとき、それを耐えるときには、必ず先に希望が必要だ。今は痛むが、きちんと手当てをしたならきっと治る、癒えて痛みが消える日がくるからと。

がくぽのこの傷には、それがない。

呪いが解けない限り、傷は癒えない。痛みも消えない。軽減することすらない。

新たな血は流れないかもしれないが、膿んで悪化することもないかもしれないが、決して癒えもしなければ消えず、軽減すらしない――

こういったものが、日を追うごとにどれほどひとのこころを蝕むものか、カイトは知っている。

がくぽは死に至るものではないと言ったが、違う。これはこころを喰って病ませ、狂いに至らせる呪いだ。

そして狂いの先には、死がある。厳然と、絶対的に、避けようもなく。

単純に死ぬのではない。激痛に苛まれ、悶え苦しんだ挙句に、狂って死ぬのだ。

まさに人智を超えたという意味で、『魔』の冠を与えられるような南王が施しただけのことはある。おそろしく、おぞましいにも過ぎる呪いだ。こうまで性質の悪い呪いなど、ちょっと思いつかない。

「なぜ、これを………こうまでして、私など」

「あなたを得る対価がこれなら、まだ安い!」

苦しい心情を呻いたカイトに、少年は反射的な素早さで振り返り、勢いまま叫んだ。淫欲に溺れていないときには翳っていた花色の瞳が、今はまるで燃え立つように輝いて、項垂れるカイトを映す。

「まさかあれと対して、斃せる保証もなかった。あなたを得られず、あれの手に堕ちるさまを歯がみして見ているしかないと、――だが、斃せた。首を掻き飛ばすことができた。そして俺の手にあなたがいる。俺の手で咲かせることができる、あなたという稀有を。ならば犠牲は小さい。たかがこればかりだ。これだけのことだ!」

珍しく饒舌に、がくぽは話した。話したというより、喚き立てるに近かった。それも、なにかの怯えに駆られて。

相変わらずこの少年は、なにかに追いつめられ、追いこまれて思いつめている。そのために、必死に、懸命になってカイトを求める。手を離されることを、ひどく恐れる。

南王は求めた。カイトは花であるから、己がもとにて咲けと。

そしてがくぽだ。この、隠しごとの下手な、けれど騎士団の内偵を、ことごとに躱してみせた、――

「安いわけが、ないだろう……これだけなどと、よくも」

「あなたはあれを知らない!!」

燻るものをこめたカイトの、怨嗟に満ちる言葉を、がくぽは金切り声で遮った。常に低めて、大人びた声を出そうと腐心する少年が、あまりに子供じみた。

それほど必死なのだ。カイトを自分のもとに繋ぎ止めることに、失わないことに、なりふりも構えないほど。

激昂のただなかにも、カイトには困惑がある。なぜそこまで、と。

おそらくがくぽが言うのは、南王とほぼ同じ意味だ。

がくぽは、人智を超えたという意味で『魔』の冠を与えられた南王の言うことを理解しているし、同じ意味でカイトを求めている。

確かにがくぽのほうがきっと、南王を知っているのだろう。

ことの初めは違ったのだろうが、同じ意味で同じように求めるがために、決定的なところで南王と違えた。

結果、カイトを巡って対することとなり――

「これだけで済んだ。あなたを得るに、むしろ失礼なほどの安さだ」

「がくぽ…っ」

どうやって疎通を図ろうかと、激して狂う思考で苦心するカイトに、がくぽは言いきった。ようやくにして落ち着いて声も静かに、けれどまるで迷いもためらいもなく。

「あなたの価値は、俺が決める」

それは『カイト』という人間の価値それ自体を、がくぽが決めるという意味ではない。カイトを得るに払う犠牲が安いか高いか、その価値判断は自分にあるという意味だ。

「……っっ」

わかっていても、カイトは堪えきれずに拳を握った。募って暴れだしそうな憤激を堪えるため、うつむかせた瞳で見るのは握った拳だ。

握った拳の内に折りこみ、寝具も掴んでいるからしかとは見えないが、その指先はどす黒く朱い。感覚を追えば、指先の皮がかさりと引きつるのがわかる。

乾いてこびりついた血だ。

思うだけで、吐き気がこみ上げる。あの傷に、自分は爪を立てた。縋りつくふりで、抉りこませたのだ。

「俺の勝手に、あなたが憤ったとしても」

「私が憤るのは」

過ぎる怒りに、戦慄くくちびるから絞りだすカイトの声も震えた。抑えてもおさえても、ともに吐きだしそうになるものがある。いっそ吐きだしてしまいたいほどのものが。

だがこれは、吐きだしてはいけないものだ。吐きだして自らを楽にするようなことは、してはならない。

それが自分の愚かさへの罰だ。カイトが支払うべきと決めた、対価だ。

カイトは握る拳にさらに力をこめ、怨嗟に満ちた瞳を上げた。思った通りに、――思っていたよりずっと、『主』の怒りをおそれ、気弱に翳る花色の瞳と見合う。

なんと情けないざまかと思っても、見つめる花色の瞳が揺らぎ、ぶれて、流れた。

「私が憤っているのは、――私自身にだ、神威がくぽ」

滂沱と溢れる涙を止めるすべが見つからず、カイトはひたすら泣きじゃくった。そんなことは、ほんとうに幼い時分にも、一度か二度ほどしか覚えがない。ましてや長じてからなど、なおのこと――

いい年をした大人の振る舞いかと内心で叱咤しても、止まらないものは止まらない。

なにが壊れて挙句こうなのかと悩みつつ、カイトはせめてと、乾いた血のこびりつく手で泣き顔を覆い、隠した。

「か、かぃ、さ……っ?!」

「おまえは私をなんだと思っているまるで情もなく、ほだされるものすらもなく、もの思い感じ入ることもない、冷血だとでもなんだと思っているのだ、私を!!」

「かぃ……っ」

案の定で、がくぽは盛大に狼狽えた。これは当然のことだと、泣きじゃくり喚き散らしながら、カイトはとても冷静に、少年への同情を抱く。

自分の立場に置き換えれば、わかる。自分より遥かに年長のものが年甲斐もなく大泣きし、そのうえぐずったりしたら、どう考えても困る。困る以上に、迷惑極まりない。災害と言っても過言ではない。

そうとまでわかっていても、カイトの涙は止まらなかった。年若の夫相手に、先には酷い傷をさらに抉るまねまでして、今度は泣きじゃくり喚き散らしての八つ当たりだ。

いい加減、こんな妻など見限り、離縁してくれないものかと思う。こんな至らないにもほどがある、ものの役にも立たない自分など――

「私は自らの不幸にかまけて、気がついていたおまえの代償に目を向けることを拒んだ。怠惰に流れて、放埓に耽った。私は私の臆病さが呪わしく、疎ましい。私の愚鈍さと冷酷さとが厭わしく、おぞましい。なによりも、逃避をためらわなかった私の卑怯なることと卑劣さとが、悔しい。恥ずかしい。赦せない!」

「そんなことはないっ!!」

自身への怨嗟を吐きだすカイトに、がくぽは愕然と叫んだ。普段は翳らせて眇める花色の瞳を、大きく丸く見開くさまは、戦慄しているようでもあった。

「どうして、あなたが……なんのゆえをもって」

少年の戦慄き吐きだすくちびるはなにを塗らずとも朱色で、健康的であるとも言えるが、なまめかしいとも言える。

うつくしい少年だ、自分の良人は。

うつくしく、気高く――

「神威がくぽ」

「厭だ」

家格まで含めた名をすべて呼ぶのは、親が子供を、年長者が年少者を叱るときの定石だ。改まって、相手を糾すと覚悟をさせるための。

そう、改まって――

相手に、大事なことを告げる際の。

「厭だ――否だいやだ!!」

予測する答えに惑乱して喚く少年に、カイトは手を伸ばした。乾いてこびりついた血の、赤黒い指先で、引きつって後退り、耳を塞ぐ少年の手に触れる。

抉りこんだ傷の感触を思い出して震える手に懸命に力を入れ、がくぽの手首を掴むと、耳朶との間にわずかな隙を開けさせた。

「カイトさま!」

容赦を求め、怯え見張られる花色の瞳を覗きこみ、カイトは微笑んだ。くちびるは震え、目尻は引きつりと散々ではあったが、先までの、泣きじゃくり喚き散らしていたすべてを呑みこみ、抑えこんで。

「私は」

出した声は、呑みこみ抑えるものに圧されて無様に潰れ、掠れた。

そもそも花色の瞳が映す自分の笑顔がもう、余裕がまるでなく、みっともなくていただけない。たとえば映す花色の瞳が、怯えに震えて定まらないということを差し引いたとしてもだ。

今さらどう虚勢を張ったところで無意味だと思いながら、カイトはそれでも懸命に微笑み、がくぽの手首を掴む指に力をこめた。

「神威がくぽ――私はおまえが、誇らしい」

「?!」

信じられない言葉を聞いたと、少年があからさまに固まった。そうだろうと、カイトは頭の片隅で思う。

そもそもがくぽが予測していたのはきっと、カイトからの拒絶の言葉、別離を求める訴えだ。

こうして自分が負った、おぞましく厭わしい呪いが明らかになった以上、カイトからはきっと、見捨てられるに違いないと。

なにかに追いつめられ追いこまれ、挙句ひどく思いつめてカイトを求めるこの少年騎士にとって、それ以上につらく、怯える言葉もない。

だからひとのことをなんだと思っているのかと、カイトはそれをこそ問い質したい気持ちではあったが、耐えた。

つまり、誓約式もまともに行わず、体だけで強引に繋がった自分たち『夫婦』とは、未だその段階でしかないということだ。それだけのことでしかない。

この先に進めるものか、あるいは破綻するか――

そんなものの予測は、誰にも立て難いものだとしても。

「おまえは私の誇りであり、誰にも貶めるを赦さない、自慢の騎士だ。おまえほどの騎士を得たことを、私は嬉しく思う」

「お……れ、は」

「ああ」

なにかしらの衝撃に固まっていた少年が、ゆるりとほどけていく。ゆっくりと、少しずつだ。

けれどまず開口一番に言いたいだろうことはわかっていたので、カイトはやわらかに頷いてやった。一度は力を緩めた、少年の手首を掴む指に再びわずかな力をこめ、言葉を継ぐ。

「そういうおまえが、私を見初めるまでに想ってくれたことも」

「………」

曖昧に濁された感もある言葉に、力が抜けていたがくぽの花色の瞳がまた、翳っていく。

徐々に翳る瞳を真正面に見つめ、カイトは耳塞ぎから離れて下ろされたがくぽの手首を、それでもしつこく掴んだままでいた。

「私には、私の育った環境というものがあり、そこで身についた考え方というものがある。おまえに想われることは嬉しいと思うが、妻とまで望まれることを、手放しに歓べるまででは、まだ、ない」

「………」

がくぽにも、よくわかっていることではあるだろう。わかったうえでこれまで、聞きたくないと手を尽くし、塞いできた言葉だ。

翳り、沈む花色の瞳は、それでもうつくしいが、憐れで哀しい。

ほだされただけのことだ。

なにより、少年はあまりにうつくしかったし、不器用過ぎて目を離せないほど、一途に純粋で、純情だった。

――それでもいい。否、それでいい。

カイトは瞳を伏せ、一度きつく、くちびるを引き結んだ。

夫婦の形はそれぞれで、その始まりの感情もさまざまだ。最終的に深く愛し合い、これ以上なく信頼し合うまでになる夫婦もあれば、完全に冷めきり、相手の死を呪い待つだけとなることもある。

夫婦の先を読むことは国の行く末を見通すより、はるかに難しい。

ただ、今のカイトは、この少年と憎み合いたくない。憎しみ合い、怨嗟の果てに過ごしたい相手とまでは、思わない。

むしろどうか、この不器用極まりない幼い騎士が、いずれ報われることがあるようにと――

その、報われることの先が自分であるのなら、それでもいいと。

ほだされることが始まりで、悪いこともない。

ただ、わかっていればいいだけだ。これは確たる愛情から始まったものではなく、未だその域には達していないことを。

これが恋情であり、愛情であると勘違いさえしていなければ、溝は浅い。いずれ埋まることもあるだろう。

引き結んだくちびるを緩め、カイトはあえかなため息とともに言葉を吐きだした。

「けれど、がくぽ――私はおまえが誇らしいし、だからこそ、そのおまえに相応しくない行いをした自分が憤ろしく、赦せない」

「相応しくないなど」

反駁しようとした少年に顔を上げ、カイトは花色の瞳と逃げることなく見合った。微笑む。

「おまえの価値判断はおまえのものだ。そして私の価値判断も私のものだ。私の価値判断に於いて、私の行いはおまえの誠意に対して相応しくもなければ、気高くもなかった」

「…っ」

――言い方はやわらかであったが、これは先にがくぽが言ったものをそのまま打ち返したに等しかった。

自分が負った呪い、払った犠牲の対価が安いか高いか、決めるのは自分であってカイトではないと。

それに対する、いわばカイトの答えだ。

その考え方は尊重してやるが、ならば私の価値判断にも物言いをつけるなと。

表情にしろ声にしろ、やわらかな返しである分、むしろ手酷い。少年が混乱の挙句に破れかぶれで叩きつけたそれと、意味の重さが異なる。

案の定で、咄嗟にうまい反論を紡げなかったがくぽは、非常に不本意そうに口を閉じた。未練に口をもごつかせながら、花色の瞳が壮絶に恨みがましくカイトを映す。

やはりこの真直ぐな抗議は堪えるものだと思いつつ、カイトはそっと瞳を伏せた。ただし以前からのように、逃げただけというわけでもない。

「妻と望まれることを、手放しに歓べはしない。まだ。まだ――………けれど、がくぽ。私はおまえの誠意に応えられなかった自分を愧じる程度には、おまえの献身に応えたいと願う程度には、すでにおまえにこころを預けている。この先も私を妻と呼び求めるなら、これを否定するな」

「……っ!」

翳りながらも強く自分を見つめる花色から逃れるため瞳を伏せたまま、カイトはそっと、がくぽへ顔を寄せた。

触れる寸前、見えたのは翳りを忘れて無垢に輝く花色だ。純粋な煌めきを宿して見張られる、花色の瞳。

ああ、やはり、なんと自分の良人はうつくしい。

思えば今度は、羞恥から見入ることが耐えられず、カイトは伏せるだけでなく瞼を落とした。

それでももはや、目算を違えるような距離でもない。

カイトは妻として望まれ、嫁してから初めて、自分の夫のくちびるに、自らの意志で口づけた。

体を繋げる快楽のなかでの、忘我の行為でもなく、互いの関係性のゆえに、義務として与えるそれでもない。

未だ言葉にはし難い情愛と、感謝と、――どうかこれらのものが、この幼い夫の頑なに閉ざされたこころに、わずかなりと届くようにと。

切実な、祈りを捧げるにも似た、それはカイトから夫へ与えた、初めての口づけだった。