B.Y.L.M.

ACT2-scene8

髪先のひと筋、その最後が呑みこまれ消えた次の瞬間、さあっと風が吹き抜ける。

風も止まっていたのだと、カイトはようやく気がついた。

夜間はともかく、日の燦々と照る昼間は、たとえ寝台に重なって淫事に耽っていようと、窓は開けてある。そうでなければ、とてもではないが過ごせない。それほど暑いのだ。

だからといって、常に風が吹き抜けるわけでもないのだが――

人智を超えるという意味で『魔』の冠を与えられた南王の訪れに、風すらも息を潜めた。

そしてその存在が完全に消えるや、滞ったものを取り返すかのように吹き抜けた。

正直、救われるような気がしながらも、カイトはまだ、強張るものを抜けきれずにいた。

嵐のように――嵐そのものである南王の訪れは、切り抜けた。

だがここにはまだ、問題がある。否、むしろここからが、本題だ。

少なくともカイトにとっては、今からこそが本戦であり、結果の次第によっては将来が大きく変わる可能性を持った、重大な分岐点とすら言えた。

なんのといえばもちろん、誓約式も行わずに体だけで繋がりを持った、カイトとがくぽ――このいびつにも過ぎる『夫婦』のだ。

未だ掴んだままだった髪のひと房を、きゅっと引いたカイトに、油断なく気配を探っていた相手も、ようやく顔を向けた。

言っても、カイトは髪を掴んだままであるという意識がない。どこか縋るにも似たしぐさなのだが、掴んだままだということすら認識していないカイトは当然、気がつかなかった。

ただ、すっかり大人の風体となった、騎士にして夫たる異形を、緊張とともに見上げる。

それまではずっと、険しい表情を浮かべていた相手だが、笑みを――ひどく甘ったるい笑みを浮かべ、そんなカイトを見返した。

握っていた剣を素早く鞘に戻すと、寝台に立てかける。空いた手はカイトへ伸ばし、髪を絡めたままの指に触れた。

壊れものでも扱うような丁寧なしぐさだったが、カイトの指は束の間、反射の抵抗を示して強張り、震えた。けれど反射であって、明確な思考に因る抵抗ではない。

結局、髪は放たれ、繋がりはほどかれた。

変わってカイトの手を恭しく捧げ持った騎士は、ためらう素振りもなく、その指先を口に含む。

「んっ、ゃ……っ」

――どうしてもしつけられた快楽があり、走る感覚がある。

指先を含まれるだけのことでも快楽が背筋を駆け上り、カイトは咄嗟に腕を引いた。

もちろん、膂力の差がある。やわらかに捧げ持っただけのように見えて、実際はがっちり掴みこんでいる騎士の手から逃れることは叶わず、カイトは相手の気が済むまで、指先をしゃぶり尽くされた。

いったいなんでこんなことをと、すでに腰砕けの様相で情けなく瞳を潤ませたカイトだが、相手はそれで終わらなかった。もう片手も取ると、こちらも指先を口に含む。

「待て、がく……っなんっ、っ」

また、力の差と快楽に押しきって、ことを有耶無耶にされるのかと、含みしゃぶる舌に抗議の爪を立てて、カイトははたと気がついた。

紅を塗らずとも朱を刷くくちびるが、含む指――

先に含まれたほうも、そうだ。

乾いてこびりついていた黒朱の血が、きれいに清められた。

「………がくぽ」

「あなたが私のことで負債を抱えるなど、絶対に赦さない」

口から指を抜き、浮かべる表情は甘い笑みであり、言い方は穏やかでやわらかい。

しかし変わらない。

内にある意思の強さと頑迷さと、なによりも、カイトに対する絶対的なまでの忠誠――

ややしてカイトははあと、ひどく疲れたようなため息をこぼし、力強く立つ騎士を見上げた。

「――それで?」

「あー…」

なにとは明確にせず促したカイトに、青年は多少、困ったように眉尻を下げた。わずかに考え、視線を泳がせてから、肩を竦める。

「とりあえず、真面目に話をするにしても、これです。この有り様です――なにとは言わずとも、お分かりいただけるかと思いますが……。ですから、そうですね。まずは風呂でも浴びましょうか?」

――そう、この有り様だ。

どの有り様だと言って、ふたりしてほとんどまったく全裸であり、そして単に裸であるのみならず、べったりと体液をこびりつかせているという――これはことに、カイトに顕著だが。

「ひ、っぅっ?!」

一度は思考の片隅に追いやった羞恥を無慈悲に呼び戻され、カイトは堪えきれずに全身を赤く染めた。かろうじて下半身だけを覆っていた寝具を掴み、肩まで引き上げる。

大したこともない動作だというのに、カイトはひどく手間取った。あまりの羞恥に震え、強張った手は、なかなか思うように動いてくれなかったのだ。

が、カイトの夫とは、たとえ長じたところで、そういったことを斟酌してくれる相手ではないらしい。

床に散らばしていた服を適当に掴み、腰に巻いて下半身を隠すという、最低限のこしらえをしただけのがくぽといえば、なにかしら呆れたというような視線をカイトへ投げた。

「いちいちそう、色めかないでいただけないものですかね……誘われて仕方ないのですが」

「なっ……っ!」

言うに事欠いて、なんということを言うのか。

さらに爆発的に朱に染まり上がり、睨んだカイトだが、口の軽い相手が懲りた様子はなかった。どころか、まるで悪びれたふうもなくにっこりと笑い返されては、絶句するしかない。

これが少年のときであればきっと、カイトの機嫌を損ねたかと、非常にあたふたしただろうに――否、そもそもこんな軽口など、叩きはしなかっただろう。

「……っ」

過った考えに複雑なものが入り混じり、カイトはきゅっと、くちびるを引き結んだ。瞳は自然と伏せがちとなり、異形へ成長を遂げた『幼い』夫を、視界の隅に追いやる。

だが、視線はまたすぐ、青年へと戻った。

なんのことはない、がくぽのほうから寄ってきたのだ。それも、余計なひと言とともに。

「拗ねないでください。愛らしさが増すだけですよ」

「おまえはっ……っ!!」

「ははっ!」

もはや羞恥も極まり過ぎ、涙目とまでなったカイトだ。それでも懸命にきっとして睨みつけたが、がくぽは反省の色もなく笑うだけだ。

愉しげで、生き生きとしている。

その瞳は変わらず花色だが、少年の頃にずっと翳していたものはない。力強く煌き、そのあまりな光の強さゆえに、ふとすると正気が吸いこまれそうな危惧すらある。

うつくしい少年だった――だからといって、長じてのちも美丈夫とは限らないのが世の無常だが、例外はどこにでもある。

そして今、カイトの目の前にこそ、その例外があった。

たとえばその頭に角があり、その背には、闇すら明るい射干黒の翼を負っていたとしてもだ。

複雑にも過ぎる感情から言葉を失いがちなカイトに、おそらくこの青年なら気がつく――気がついていることだろう。

だが拙速に、触れてはこない。だからといって少年のときそうしていたように、積極的に誤魔化そうとするでもない。

異形となった夫は穏やかな微笑みを浮かべ、戸惑う妻へと手を伸ばした。

「このうえさらに、隠しごとを続けるような愚は犯しますまいよ。あなたの問いには、誠意を尽くして答えましょう――問われないことについても、私に思いつく限り、能う限りは」

声も口調も穏やかであり、まさに『大人』の余裕を持った態度だ。同時にどこか、なだめる調子もある。まるで先と逆転し、カイトのほうが子供となったかのような。

戸惑ってはいるが、カイトはそこまで頑是ない態度を取っているつもりもない。

内心の複雑さがさらに増したカイトだが、開きかけた口からは反論も反駁もこぼせなかった。伸びた夫の手が腰に回り、蓑虫よろしく寝具にくるまったカイトを、軽々と抱き上げたからだ。

「ぁ……っ」

カイトがようやく上げたのは小さな驚声で、そんな妻の反応にも構うことなく、すっかり丈夫と育った相手はごく当然とばかり、夫らしい、妻らしい抱き方をしてくれた。

つまり両の腕に半ば寝かせるような形で、横抱きにして運ぶという、一般に女性向けとされるあれだが。

「下ろせっ!」

一度は鎮まりかけた羞恥が、あられもなく戻ってくる。

カイトはもがきながら叫んだが、――言うなら、カイトはすでに成人しており、相応の体格の男だということだ。もちろん、鍛え上げた騎士と比べればはるかに劣ることは確かだが、骨組みの華奢な少女では、決してない。

だというのに、そのカイトに暴れられても、この鍛え上げた騎士はびくともしてくれなかった。多少、困ったという様子は作ったが、その程度だ。

変わらず軽々した様子でカイトを抱えたまま、構わずのっしのっしと歩き出す。

「がくぽっ!!」

「歩けやしないでしょう」

ひとの話を聞けと、再び叫んだカイトだったが、あっさり返されたこの言葉にはぐっと、くちびるを引き結んだ。

正鵠を射るにもほどがある。確かに、歩けない。

――と、思う。

試してはいないが、ほとんど確信だ。理由はなにかといって、だから今からふたりして風呂に向かうのと、ほとんど大体、概ねで根本が同じだ。

初めてのときは痛みと相俟って歩ける気がしなかったが、ここのところ、痛みはない。

ないが、腰砕けは相変わらずだ。回数にしろなんにしろ、もう少し加減を覚えてくれればいいものを――

恨めしく思うカイトが黙りこんでも、元凶のほうは飄々としたものだった。舌鋒、舌禍を収める様子を見せない。

「それともまさか、這って移動することをお望みですかで、あなたが床を這っていかれるさまを、私が看過すると……それこそまさかまさかというものですが、もしも私があなたに対し、そういったやりようを見逃すと思われているのなら」

「言っても思ってもいないっそうではなく、抱え方があるだろうと」

「他にどう?」

「どうって、……だから」

なんの気もない様子で返された問いに、カイトは口ごもった。

たとえば、荷を担ぐように肩に乗せるという手がある。とはいえこれは、運ばれる身も腹が苦しいし、重みが増せば増すほど、運ぶ側の肩の負担も相当だ。

それにこうなっても忠節を失わない騎士が、主を肩に荷担ぎしろと言われれば、――反応はあまり、積極的に想像したいものではない。ましてやこうも口が回る相手には、特にだ。

では他になにがあるのかといえば、男同士で一般的なものとしたら、背に負うことだろうか。

思って、自然と視線を流し、カイトはもがくことを止めた。

どうやればこの背にこれ以上、なにかを負わせることができるのか。

成人した男であっても軽々と抱えられるまでの丈夫に育ったがくぽだが、さらに余計な成長というもので、その背にはすでに、体格に相応しい立派な、隆々とした翼が負われている。

これを避けて背に負われるのは、ずいぶんと難易度が高そうだということは、試してみるまでもなくわかる。ふたりで協力し合えばなんとかなるという次元では、もはやない。

そうとなれば消去法でいって、確かにこの方法が――

「………もう、痛まないか」

カイトは軽い足取りで進む夫に大人しく凭れかかり、遠慮がちながら、首に腕も回した。

そうやって運びやすいよう、協力の姿勢を取りながらこぼされたカイトの問いに、翼がわずかにそよいだ。どうやら思うことが、翼に表れるようだ。鳥には詳しくないのでよくわからないが、犬やねこなど、獣の尻尾に似ているのか。

「ええ、まるで」

がくぽの答えといえば、これまでから考えればあまりに言葉少なに、声音も素っ気なく、返ってきた。

まあそうだろうなと考えた程度で、カイトはその態度を咎めることはなかった。ただじっと、闇すら明るい射干黒の翼を、羽根の一枚いちまいを、丹念に眺める。そして、その翼と体とを繋ぐ、――

ようやく、わかった。

あの傷は、破れかぶれに背の肉を削いだものではない。翼を削ぎ落した、それだったのだ。

おかしな傷だとは思ったのだ、見たときに。

惨たらしい、ひどい傷だという思いが勝ったが、同時に不自然さがあった。時を経ても乾かず、生々しく新しいという、異質さだけではない、違和感が。

こうなってようやくカイトは、他ごとを優先し、曖昧に流した違和感の正体を見た。

骨だ。

肉を削ぎ取ったかのような傷口からは、骨の断面も見えていた。平面を削ったというのではなく、骨の継ぎ目を斬り落としたという。

そこの部分をことに削いだ傷など見た覚えもないから、今ひとつ自信がなく、はっきりとしなかったというのがある。

が、普段、肉と皮ごしに推測する体構造、もしくは完全に白骨化したそれらの背面像から考えるに、あの位置の、あの幅の隙間から、骨の継ぎ目が断面として、カイトの側に向かって見えるのはおかしいのではないかと。

もしも骨が見えるとしても、少なくとも、継ぎ目の断面だけはあり得ないはずだと。

だがこうなって、納得した。

確かにひとであれば、あの切断面は絶対的にないものだ。しかしこの翼があるならむしろ、ああでなければおかしい。

まさか翼のなかには骨が通っていないという道理もなし、ごく自然の様態だったのだ。

もちろんカイトはこれまでのところ、少年の背に翼が負われているのを見たことなど、夢想以外には一度もないのだが。

「――これがおまえの、まことの姿か」

背を見下ろしたまま、ぽつりと言葉をこぼしたカイトに、闇すら明るい射干黒の翼はばさりと、羽ばたいた。身を浮かせるほどではない。身震いに似ているだろうか。

わずかに体を起こして表情を確かめれば、カイトを軽々抱えて淀みなく歩く青年は、どこか困ったように笑っていた。

「その半分。――というところでしょうか」

「半分?」

なんだそれはと、不審に眉をひそめるカイトを、がくぽは変わらず困ったような、穏やかな笑みで見返した。

「先にも申しました。あなたに対してはこれ以上、騙りも偽りも隠しごとも、する気はありません。が――言葉だけでは、説明し難いことも多いのは、事実です。実際に見たほうが、万の言葉と時間を費やすより、よほどに」

「………」

黙ったまま、肯定も否定もしないカイトに、がくぽは器用に肩を竦めてみせた。

「だからと、まるで言葉を尽くさないとまでも、申しません。もちろん見るほうが、なによりも確かではありますが――たとえば私のこの風体など、いくら説明したところで、こうして実際、目の当たりにしなければ、あなたには到底、理解できなかったでしょう?」

「………」

この風体というのはつまり、頭には曲がり角を生やし、背には翼をという、この異形のことだろう。ついでに、実際はすでに成人を済ませた年頃のという――

世に呪術や呪法、呪式というものがあるのは知っているし、カイト自身、呪い避けのさまざまな護符やなにかを持たされたり、身辺に配されたりとしていた。

だから多少の、日常に毛が生えた程度のことなら聞いただけで受け入れる余地もあるが、ここまでのものとなると――

「そうだろう、な」

カイトが静かに肯定したところで、浴室に辿りついた。

どこまでも器用な丈夫に育った青年は、片手にカイトを抱き直し、もう片手で把手を掴んで扉を開くという動作を、誇るでもなく当然とこなしつつ、小さくため息をこぼす。

「なにより夜では、あなたにまともに説明できるものかどうか――誠意の在り処とこれとが、いつもうまくかみ合わないのが、私の悩みの常にして、最たるところなのですがね。どうしたってああも面倒な年頃を、二度もやらなければいけないものか……」

「……」

ため息とともにこぼされたぼやきは意味がよく取れず、カイトは流すことにした。

なにを判断するにしても、今は圧倒的に情報が不足している。なにをどう判断しても誤る可能性があり、ましてや逐一の断片にばかり反応していると、肝心の本題を失う。

そしてなにより、間近に迫った問題があった。

風呂だ。