B.Y.L.M.

ACT2-scene10

ひけらかすべき、突出した推理や仕掛け、裏事情といったものがあるわけではない。

すべての事象をあるがまま、起こったまま、なにひとつ疑いせずに受け入れれば、答えは簡単に出る。

そういった意味では、『幼い夫』は誠意があったと言えるかもしれない――なにひとつとして、謀ることも隠すこともしていなかったのだ。

ただ、ひととして、王太子として培ったカイトの常識からすれば、あまりに非常識な、あり得ないことが多過ぎた。

とてもではないが、あるがまま、起こったまま、疑いもせずに容れることなどできない。

まず、がくぽが今、もしくはときどきに口ずさんでいた、うたにも聞こえる韻律の言葉だ。

あれがそもそも、南方の土着語のひとつだった。

カイトが学んだ限りでは、神代詞に類され、祈りや呪術といった神秘の文言に多く用いられる。

とはいえ神職や呪者といった専門職が扱うばかりでなく、民草の日々の、食事時の決まり文句などにも混入していて、なかなか幅広い。

とにかく南方人にとっては折々に口ずさむ、非常に身近な言語なのだという。

詳細な文法や用法はさすがに、外ツ国には秘匿されている。ためにカイトも『そういった言語がある』と、知識として覚えていた程度だ。

ただ、たまさか耳にした、あの響きは忘れがたい。

鳥がさえずるにも似た、うたにも聞こえる、独特な韻律の言葉――

生まれたときから馴染んでいる南方人以外には発音の難しいそれを、がくぽは易々と操っていた。

どこかで聞いたようなという、おぼろげな記憶が知識と経験に結びつけば、南方人にしか操りえない言語を折々に、易々と操るがくぽが南方人であるという推測は、ごく当然と成り立つ。

それに、気候だ。

がくぽが自分の屋敷だと言って連れてきたこの地域の気候は、乾いて雨の少なく、砂の香る西のものではなかった。

湿気が多く、気温も高い。どこかといえば――この判断も多くは、知識のみに拠るところとなるのだが――、南方、南国のそれだ。

あるがまま、起こったことをそのままに受け止め、受け入れれば、もとより南方人であったがくぽはカイトを連れ、故郷たる南方へ帰参したと。

考えるまでもないそれが、しかしなかなか確信し難かった理由もまた、単純だ。

角と翼持つ異形の夫にとってはごく当然の、日常の一環でしかない『呪術』というものが、カイトにとっては子供向けのお伽噺か、眉唾ものの詐欺まがいという程度の認識でしかなかったからという。

たとえば西方、哥の国の、自分がいた場所から、南方への移動距離だ。

西と南の端境――哥のなかでも、より南方に近い場所からであったとしても、馬車でほんの数刻走った程度で辿りつくような距離では、ないのだ。徒歩ではもとより、たとえ馬車を使おうとも、長期を見こんだ万全の旅支度を整える必要がある。

それをがくぽは、カイトがほんのわずかにうたた寝しただけの間で移動してみせた。

おそらくはカイトが眠りこむ前に聞いた、子守唄にも似た韻律、あれが移動距離を縮めるか、馬車の速度を上げるかする呪術だったのだろう。

そして、あり得ない距離をあり得ない時間で走破してみせた。

今となって、いくつもの術を重ね見たあととなれば、納得は容易い。

が、そうでなければやはりカイトには、『あり得ないことは起こり得ない』として、未だに自分の考えに確信が持てなかったはずだ。

もうひとつの『あり得ない』といえば、がくぽの『身の上』だ。

再三くり返せば、カイトという、次期哥王、王太子の騎士団に所属するに当たっては、それこそ徹底的に背景、背後を調べ上げられたはずなのだ。

そこになんの瑕疵も異様も見当たらないと結論すればこそ、がくぽはカイトの騎士として叙勲もされた。

その『瑕疵』には、たとえば出身が外ツ国であるということも、入る。これが『王太子の』でなければ、外ツ国出身であるという程度のこと、瑕疵ともされないが――

がくぽは外ツ国、南方の出身であるのみならず、南王の子息だった。

外ツ国の王子の体験入団をまったく受け入れないというものではないが、前提には必ず相互の国の関係性があるし、布告もある。

前提をもってすれば、南方は難しいはずだ。なによりがくぽが南王の子息であるという話など、まるでどこにも出てこなかった。

まるで南方、外ツ国びとであるというにおいをさせないまま、がくぽはカイトの騎士団にあって、騎士として剣を享け、働いた。

「いずれ、密偵だろう――私の様子でも探れと言われたか、機を見て略取せよとまで言われていたかは定かでないが………南王の力が働いての詐称なら、ただびとに見破るすべもあるまい」

カイトの結論はむしろ、端然と吐きだされた。悔しい、恨みがましいといった感情もなく、単なる事実を列挙しただけの。

実際、今のこの状況となれば、カイトにとってはそれだけのことでしかなかった。

しかし当然ながら、受けるがくぽの方は気を遣う。なにしろまったく、無辜の身ではない。むしろ南王の企みに積極的に荷担し、カイトの将来を大きく撓める原因の一端となった。

最終的にはなにかしら、もの別れとなったらしいが、カイトが王太子位を失い、もはや哥王となれることはないという、事実は変わらない。

がくぽは相変わらず、大人らしい、鷹揚な笑みを浮かべてはいたものの、複雑な苦みはどうしても混ざった。

「そうまで卑下することもありませんが、否定の根拠も、ことにありません。あれを知らなければなおのこと、力は増して見えることでしょう」

「っ、……っ」

言いながら、がくぽはくちびるをカイトのこめかみに当て、ちゅっと音を立てて吸っていく。

こちらの扱いのほうにこそ物言いが溜まっており、カイトは目を据わらせた。

相変わらず浴室、そして湯のなかだ。

屋敷に着いた日とは違い、相応に広い浴槽であり、たとえばがくぽほどの体格の男が四、五人ばかり入ったとしても、それぞれ十分に体を伸ばし、触れ合うこともなく過ごせる。

が、カイトはがくぽに背後から、がっしりと抱えこまれていた。

確かにカイトの足腰は立たないが、浴槽内で座位を保てないというほどではない。上がるときに手伝ってくれさえすればいいのであって、浴槽内にあるときに、こうまでがっしりと抱えこまれなければいけない理由はない。

――と、入った当初、迂遠に伝えたのだが、流された。

流されて問われたのが、どういった原因でいつ、自分を南方人であると判断したかということだ。あからさまに話を逸らされた。

しかもカイトにしてみればだから、ひけらかすべき凄まじいたねや仕掛けがあるわけではない。引っかかっていたのはあくまでも、自らの偏狭な常識のゆえであり、それでも何度かがくぽに向かい、指摘しようとしたことはあったのだ。

しようとするたび、敏感に察知した幼い夫が力技で、有耶無耶に押しきった。

そう、少なくとも幼い時分には、夫には罪悪感があった。カイトを騙し、誤魔化し、謀っているということに対し、後ろ暗く思い、苛まれる良心、ないしは誠意というものが。

今の夫からはまるで感じられない、それらだ。

そうでなくとも不器用な年頃だというのに、過ぎる罪悪感まで重ねて負った幼い夫は言葉を濁さざるを得ず、あるいは力技で押しきるしかできなかった。

その態度は立派とは言えないし、勇あるものとも言えない。

けれど誠意のない、良心の死んだとまでも、責めるようなものでもない。

今の、大人となった夫は違う。

誠意をもって説明に尽くすとは言うが、逆に胡散臭い。余裕に溢れた大人らしい態度ゆえか、なだめるような物言いのせいか、――

原因の思い当たるところは多過ぎ、これと絞れないが、なによりも。

「っ、っ……!」

微妙に逃げるように離したカイトの体を、がくぽは容赦なく自分の胸に戻す。戻したうえで、ほのかに染まる耳朶にくちびるを当て、形をなぞっていく。くちびるはこめかみに、瞼に、また戻ってこめかみに――

抱えこむ腕の力は強く、痛みを与え過ぎないよう加減してはいるが、逃げだすことを赦しもしない。

互いに裸、なにも身に着けていない同士だ。ぴたりと密着するのは素肌の感触であり、筋肉の躍動が遮ることなく伝わる。

筋肉と、温かい湯にわずかに早まる鼓動、血管の動きと、

「当たっているっ!」

とうとう堪えきれず、叫んだカイトだが、詰られたがくぽが腕の力を緩めることはなかった。むしろ逆で、抱く腕に力をこめ、『当たっている』と非難されたそれを、さらに押しつけるようにしてくる。

「仕方ありません。あなたとこれだけ密着していれば」

耳元にあった鼻が、意識的にか無意識にか、すんと鳴ってカイトの香りを体に入れた。入れた香りの量だけとばかり、すでに膨張し始めているがくぽの雄がどくりと、生々しく脈打つ。

密着して、遮るものもないのだ。しかも、当たっている場所が場所だ。もうほんの少しばかりもずれれば、妻としてしつけられ、雄を呑みこむことを覚えさせられたカイトの洞に――

「ほんとうにおまえは、どうなっている?!」

わずかに身を捻ったカイトは、なんとか距離を稼ごうと無為にがくぽの胸を押して離しつつ、きっとした瞳を向けた。

「連日、あれだけしておいて……如何に旺盛でも、ほどがあるだろう?!」

ほとんど惑乱して喚くカイトを、しかしやはりがくぽは離さない。わずかに距離を稼ぐことは赦したが、あくまでも自分の腕のなかに囲っておける範囲に止まり、そして膝の上だ。あまり意味はない。

そのうえで、湯あたり寸前というほどに全身を赤く染めるカイトへ、なだめるような笑みを向けた。

「先にも申しました。仕方がありません。私は南方でも花と関わる方で、そしてあなたは花です。旺盛か旺盛でないかなど、瑣末な問題だ。花の香を嗅ぎ、求められるものを知れば、私の体は反応せざるを得ない」

「………っ」

困ったようではあるが、説く言葉に迷いはなかった。謀る気も誤魔化す気もなく、ただそれが当然のことわりであると、たとえば日が昇る方角が東であり、沈む方角は西であるとでも説明するかのごとく――

あまりに当然とした態度に、瞬間的に沸いたカイトの頭のなかだったが、すぐに冷静さを取り戻せた。言っても未だ、カイトには王太子として培った自己制御能力が強い。

束の間だけ、毛を逆立たせて気勢を上げるねこのような有り様となったカイトだが、ふっと毛並みを落ち着かせると、自分をしつこく抱いて離そうとしない相手を、じっくりと見た。

異形だ。

あまりにうつくしい――過ぎるがゆえに、異形であることが逆に救いとなるような、そういう美貌の青年だ。

だが今、その異形は先と多少、形を変えている。

頭の両脇、耳の上あたりにくるりと巻く角はそのままだ。しかしなによりも、このうつくしい夫を異形たらしめていた、無視しようのない存在感を醸す巨大な翼が、背に負われていない。

――油膜がありますから、多少の水なら弾きますが……浴槽で、しかも湯に浸かるとなると、ね。たまさか水を含むと、これがまた、ひどく面倒なのですよ。とにかく重いし、ために痛いし、乾かすにも手間がかかるわ……

ひどく現実的なことを言って、なにかしらの幻想を無惨に打ち砕き、がくぽは翼を『畳んだ』。

見たものを見たまま素直に表現するなら、そうだ。射干黒の翼は広がっていた羽根を『折り畳んだ』。小さく、ちいさく、ちいさく、どこまでも小さく――

結果として、今のがくぽの背には肩甲骨が見える。まるで常人、カイトとも変わらない。

正直、意味がわからないどころの話ではないが、これも術の一種なのだろうと、カイトは見たものを見たままに判断した。まるで鉛でも飲みこむような気分で。

あまりにカイトの常識から外れたことばかり起こる、起こす相手であり、これがつまり『夫』だ。

いわゆる『気難しい』年頃は乗り越えたが――そもそもその『乗り越え』方すら、非常識もいいところだった――、もともと常識としていたことが、違う。

しかし言うなら、そんなものはどこの夫婦でもあることだった。同じ国の同じような家格同士での婚姻であってすら、慣習の違いからしばしば戸惑い、あるいは諍うのだ。

違う国の生まれ育ちならば、その慣習の差異たるや、同国人同士のそれと比べようもなく大きくて、不思議はない。

が、逆々というもので、諍う前に話し合う余地がある。

もとより『違う』ことは大前提として夫婦の間に蟠り、話し合わないことには疎通などとてもできないと、ふたりともにわかりきっているからだ。

少なくとも『同じ』であると思いこんで怠惰に流れる夫婦より、自分たちは円満な関係を築ける可能性が高い。

――だろうと、カイトは自分に言い聞かせた。どうもそう信じるよすがが、今のところ非常にか細く、存在しないも同じほどなのだが。

くり返すが、常識的であれ非常識であれ、夫は今、心理的要因からどうしても言葉に詰まりがちになる『年頃』ではない。むしろ口も舌もあまりになめらか過ぎて、少年期のあの寡黙さが恋しくなってくるほどだ。

もちろん幻想だと、カイトは知っている。

もしも今、これでなにかあってまた、夫が少年に戻るようなことがあれば、あの頑なな寡黙さに非常に手を焼いて、きっと青年期の夫を恋しく思う。

ともあれ、今の夫は話すに長けている。単に無駄口が多いわけではなく、端々に思慮の深さも垣間見える。

訊けば答えると、確約もしている。

だからカイトは緩く微笑む夫を見据え、口を開いた。

「『花』とは、なんだ」