B.Y.L.M.

ACT2-scene15

青年の時分、夫は口数の多さと機転の利くこと、その器用さを無為に費やし、カイトを思う存分に弄び、振り回した。

少年は逆だ。

おそらく機転の利くことは同等なのだろうが、年頃ということが邪魔をして、結果、不器用だ。言葉も閊えて口数は少なく、肝心のことをきちんと説明できない。

もちろん、適当なほらを吹いて煙に巻くこともできず、思考内で泥沼に嵌まって挙句、黙りこむ。

そして言うなればこの不器用さにも、カイトは振り回されていた。容貌の愛らしさとも相俟って、苛立つよりも庇護欲が掻き立てられて仕様がないのだ。

今もだ。

あどけなさが過ぎて胸が痛むほどの告白にどうしたものかと、カイトは堪えようもなく赤面しつつ、内心で頭を抱えた。

それも束の間だ。

ほとんどひと息で杯を干したがくぽは、いつまでもだらしなく床に崩れたままではいなかった。自分の体を確かめるようにゆっくりと、しかし素早く立ち上がる。

ふらつきもなく直立できたところで、くちびるが開いた。

「♪」

「っ」

うたにも聞こえる韻律の言葉がいくつか紡がれると、がくぽとカイトの体を風が巻いていった。

――おそらく風だ。が、水も多少、含まれていたかもしれない。なんであれ、冷たいなにかにさっと全身を巻き上げられたかと思うと、刹那の後には、不快な汗がきれいに乾いていた。

風のみならず水もあったかもしれないと思うのは、事後の爽快感のせいだ。

汗が単に乾いただけだと、どうしても肌に特有のべたつきが残る。が、それがない。さらりと乾いて心地よく、きちんと水を浴びて流し、乾かしたときの感覚と同じだ。

やはり呼吸でもするように、がくぽは術を使う。

たとえば西方の人間が布巾や水桶を探すようなとき、歩いて動き、自分の手を使うとき、――そうではなくてまず、がくぽは自分のくちびるを開き、うたう。

そういう環境で育ったのだと、カイトは思いを新たに少年へ目を向けた。

なにごともなく――おそらくそうなのだろう。『体質』と言う以上、彼にとってはごく当たり前の、日常の一部でしかないのだ――がくぽは歩き、小卓に杯を戻す。

途中、下穿きの腰紐が緩かったのを締め直し、踏んで転げそうな長い裾を折り返した。長椅子に放りだしていた上着を拾って、羽織る。

動きには迷いも淀みもなく、手馴れたものだ。そう、彼にとってはきっと、異常なことはなにも起こらなかったのだ。

そうやってがくぽがある程度の身支度を整え終わるのを待ち、カイトはくちびるを開いた。

「がくぽ、こちらに」

「っっ」

概ね想定はしていたものの、呼ばれた幼い夫は過剰なほどにびくりと、肩を跳ねさせた。杯を持っていたなら、もしかしたら取り落としていたかもしれないほどだ。

想定外と意想外を重ねる相手だが、こういうときには予想を覆さない。

自分の読みの正しさを微妙な心地で確かめ、カイトはじっと、すぐには足を動かせないがくぽの背を見つめていた。

『視線がうるさい』という言い方がある。これをより正確に表すなら、気配、意識となろうか。自らに向けられた誰かの思惑を感じ取り、それを端的に表して言う。

イクサにあっては敵意や害意といったものをいち早く察知し、動くに助けとなる感覚だ。ことに歴戦、もしくは優れた騎士などになると、日常であっても敏く反応し、実際に非常にうるさがるし、無視もできない。

ましてやがくぽにとって、カイトが相手だ。夫と称し、妻と呼びながら、未だ敬意を捨てられず、寝台に組み敷こうとも、ひたすら尊び崇め続ける。

「がくぽ」

「……っ」

静かな、決して荒ぶることのない穏やかな二度目の召喚で、憐れな少年は諦めた。

悄然とした様子で、カイトのもとへ歩いてくる。その背に今はもう、あの大きな射干黒の翼はない。が、カイトの目にはその翼まで、力なくしなだれて艶を失っているかに見えた。

どうにか辿りついた相手は、それが当然とまるで疑う様子もなく、寝台の縁に座るカイトの前に片膝をつく。

仮にも夫婦だ。そして夫だ。座る妻の隣に腰かけて悪いことなどなにもないはずだが、がくぽは迷うことなく、ためらいすらもなく、カイトの前に騎士の礼として、膝をつく。

前途が慮られること、相変わらずだ――否、当たり前のことだ。よく考えずとも、未だ夫婦となって十日ばかり、言っていいなら数日のことだった。

そもそも少年の背に呪いを見つけたのがまだ、今日の昼のこと――

それからなにがあったか、唐突に呪いが解けて少年が青年の身となり、カイトにとってはいわば、『義理の親』たるものとの思いもかけない対面も果たし、わずかばかりののちにはまた、あの見慣れた少年との邂逅だ。

同じ日の昼から夕方という、わずか数刻の内に、あまりにも多くのことを詰めこみ過ぎだ。おかげで、少年の背を暴いてからすでにひと月ばかりも経たような気がしているが、だから数刻ばかりのことだ。

数刻しか経ていないものを、変わらず少年ままの夫に多大な変化が起きていたなら、それこそ原因を探る必要がある。

「がく、っ」

「………」

生真面目な様子で膝をついたがくぽは、軽く頭を下げたのち、すぐに手を伸ばしてきた。触れるのは、カイトの足だ。まずは左足を手に取ると、やわらかに、しかし厳然として眺め回し、触れとして、様子を診る。

そう、『見る』ではない、『診る』だ。

たかがあの距離を歩いただけのカイトの足に、大事がないかどうかと案じて――

「っっ」

あるものかと反論したい口を、カイトは噛みしめて懸命に噤んだ。そうしなければ、あられもない声がこぼれそうだった。

男相手には淫奔なのだと思い知らされた体だが、ことにどうも、足が弱い。

がくぽが掴む足首はもちろん、撫でられるそこからびりびりと、全身を震わせるような痺れが走る。痺れはやがて、夫を受け入れることに馴れさせられた場所に波及し、――

「が、くぽ…っ」

大事ないからと、懸命に呼ぶカイトの声は耳に届いているだろうに、その意味もわかるだろうに、がくぽは止めなかった。

左足に異常がないと確かめ終えると、今度は右足だ。こちらも容赦なく、念入りに診られる。

「………っ」

カイトはもはや、こぼれそうになるあられもない声を堪えるだけが精いっぱいだ。せめて身悶えられればまだましだろうに、この状態を悟られたくないと、こちらも堪える羽目に陥っている。いったいなんの拷問なのか。

カイトがなにかしら、ほとほと疲れきったところでようやく、がくぽは両足ともに異常なしと認めた。もちろん実際のところ、そうも長い時間を掛けたわけではない。が、ひどく長く感じる時間ではあった。

そしてこの、妻としたカイトに対する自分の態度に、万事疑いのない騎士たる夫は足を離す前に、その甲にごく自然と、口づけした。

「っ」

カイトがびくりと跳ねたのは、刺激ゆえだ。しかしカイトはなにもかも、知らぬふりで通した。

足の甲への口づけなど、騎士の忠誠ではなく奴隷の、隷属の誓いだ。確かに夫婦などで、夫がふざけた挙句に妻相手にやる場合もないわけではないが――

少年の生真面目にも過ぎる態度は、間違いなく隷属の誓いだ。

ただしそう指摘すれば、必ずろくでもない答えが返る。主に傾き過ぎた騎士にはたまに見られる態度だが、悩ましいことこのうえない。

だからカイトは自らの上がる息も、がくぽのやりようについてもすべて知らぬ顔を貫き通し、ただ手を伸ばした。

「………それで」

相変わらず忠義の騎士として、床に膝をついたままのがくぽの顎に手を掛ける。

「っっ」

「…っ………」

――触れた瞬間に、またも少年が大きく震えて、カイトは唐突に、自分が思い違いをしていたことに気がついた。

痛みではない。

これは違う。

これは怯えだ。

怯えられている――

先にがくぽが、青年から少年の身に変わった直後のことだ。そばに寄ったカイトが案じて伸ばした手にも、がくぽは過剰なほど大きく震えた。

そのときは、未だ名残りの苦痛があって、尖る神経を刺激してしまったのだろうと、こんな微細な刺激ですら反射で震えるほど、まだ痛むのだとカイトは考えた。

そのときにも花色の瞳には怯えが浮かんでいたが、カイトは深く考えなかった。あれほど痛い思いをしたうえに、思いもかけずさらなる痛みを与えられるのは、それはおそろしいだろうと、――

状況からしてそうと判断するのが、もっとも自然だったからだ。

しかし今、すでに状態が落ち着いているはずのところで触れても、やはりがくぽは震えた。

気難しい年頃らしく、常にはことさらに眇める瞳は丸く見張られ、花色が揺らいでいる。揺らいで、見張って、触れるカイトを映している。

凝然としたその表情に言葉を当てはめるなら、それは怯えだ。主人に虐げられるとわかっていて、次の行動を懸命に窺う奴隷の。

騎士ではない。奴隷だ。徹底的に服従を沁みこまされた。

反逆はできない。抵抗もない。ただ、主人の行動の先を読み、せめても苦痛がやわらぐよう、防御姿勢を可能な限り早く取るだけの――

がくぽはカイトの騎士であって、奴隷ではない。

そもそも奴隷であったことはないし、そうと扱ったこともない。そして今や、がくぽは夫でカイトは妻だ。

まして今のカイトにはがくぽを痛めつける気も、苦しめる意図もない。その理由もないのだ。

もしかすれば、問われることそのものが苦痛である可能性はあるが、これまでを振り返ったところで、こうまで怯えられるなにかをした覚えなど――

否、違う。

いったい自分のなににと戸惑い、記憶を探っていたカイトは、わずかに瞳を眇めた。

この『夫』は、初めからひどく怯えていた。夫婦の初め、カイトを迎えに塔へ現れた、あのときからだ。

初めからずっと、怯えていた。

なにかを思いこみ、思いつめた挙句に追いつめられて、カイトを鎖しながら、怯えていた。否、怯えのあまり、カイトを鎖した。

その理由は今日、少しずつ明らかとなってきている。

これからカイトが問うことにしても、きっと同じだ。そして紐解かれていくこれらのことは、いずれ幼い夫の怯えをも解き放ち、その身を自由とする。

――そのはずだ。

思い極め、カイトは震えに、夫の怯えに気がつかぬ態を取った。むしろことさらに顎を掴む手に力を入れ、見張られる瞳を覗きこむよう、体を傾ける。

そうとはいえ、あまりに追いこめば『この夫』は、がむしゃらに逃げようとするだろう。

その逃げ方が、単にカイトへ背を見せることならいいが――騎士という本分を考えればまったく良くはないが――、このまま寝台に押し倒され、なし崩しにというほうが、確率が高い。

実際これまで、少年はそうやってカイトの口を塞ぎ、問われる前に、問われることからまず、逃げてきた。昼に青年となって自分でも言っていたが、拙劣なやり方だ。

わかっていて、それでも『少年』はやるのだろう。

きっと青年の彼であれば、口で説明すればいいだけのことだろうにと、軽く言う。言うばかりでなく、確かにきちんと、口で説明するだろう。多分に余計な話も多く挟まれる気はするが、少なくとも『これしきのこと』で、逃げはしない。

けれど今、この年頃となった彼には、それ以上に最善の策を思いつけない――

がくぽも花色の瞳を極限まで見開き、カイトの動向を注視していたが、カイトもカイトでまた、がくぽの動きの逐一を窺いつつ、そっとくちびるを開いた。

「それで、――おまえのまことの姿は、どこだ?」