B.Y.L.M.

ACT3-scene1

「………?」

起きて、カイトが初めに感じたのは、違和感だった。

なにかがいつもと違うとは感じたものの、未だ目が覚めきらないせいか、なにをおかしいと思ったのか、由来がはっきりしない。

はっきりしない違和感を抱えたまま、カイトはぼんやりと天井を、寝台の天蓋を眺めていた。

朝だ。日の出から、少々経った程度の時間だろうか。ようやくきちんと、朝に目覚められたと――

ここしばらくの、あまりに乱れた生活ぶりがわかる感想が浮かんで、カイトは早くも疲れきり、わずかに目を閉じた。

すぐに開く。

気がついた。

確か隣で、共に寝たはずの夫、がくぽの姿がない。

昨夜も昨夜で、いったいどういう旺盛さかと思うような、夫の漲りぶりだった――まるで馴れたとは言わないまでも、カイトもカイトで積極的に貪ったような記憶もあるが。

否、曖昧に濁したところで、事実は変わらない。

貪ったし、溺れた。むしろカイトのほうこそ、なかなか夫を離してやれずに――

この爛れた生活への順応の挙句だとしたら、非常に悩ましい話だ。こういう順応は、良くない。

これから先の展望がまるで見えない今、なにが良くて良くないか、ほんとうには断言できないのだが、だとしても良くない。

少なくとも『良くない』と思っていなければ、ひたすらに崩れていく一方だという危惧が、カイトにはある。

「は………」

ため息とともに思考を一度切り、カイトは自分の隣、空白のそこを見た。

それで、夫だ。

カイトの意識はいつも通り、最後のあたりは曖昧だった。ほとんど気を失うに等しい有り様で、眠りについたはずだ。

その体はこれまたいつも通り、無為に清潔だった。

肌には夫の愛撫の名残りである花痣が濃いが、体液などはきれいに拭い取られ、不快なべたつきはいっさいない。

一応、寝間とする羽織りものにも袖を通した状態で、裸体を晒しているわけでもなかった。

つまり整えた覚えがない身支度が、きちんと整えられているという。

誰がしたかといえば、旺盛にカイトを溺れさせた相手だろう。

いくら騎士とはいえ、少なくとも身長では未だ微妙にカイトに劣るような少年だ。ましてや意識を失った相手の着替えなど難渋するだろうに、しかもどうせ今日の昼間だとて、寝台に篭もらせたまま――

「ぁ……」

大分、意識が醒めてきたのだろう。思い至ったことがあり、カイトははたと瞳を見開いた。

靄がかっていたものが、急速に晴れていく心地がある。

そうだった。昨日までと、あからさまに違うことがある。否、今のところまだ、推測の域を出ていないのだが、おそらく明らかかつ、あからさまに違うはずだ。

夫はもはや、ただ少年ではない。

日の出と日の入りを境に、年齢から体格から変じさせる――

「くさり」

違和感の正体がそこで判明し、カイトは思わずつぶやいた。それは意図もせず、ずいぶんと頼りない、いとけない口調だったが、カイト自身は気がつかない。

気がつかないまま、カイトは多少慌てて身を起こした。相変わらず、下半身が重い。否、昨日よりさらに、救いようもなく重くなっている気がする。自重をと思いながら、いっさいしていないどころか、より旺盛にやらかしたのだ。当然の帰結という。

が、とにかく体を起こし、手の力も借りて、足を引き寄せた。感覚が重いという以外の妨げはなく、足はすんなりと、カイトの体に寄る。

そこに、これまで連日、嵌められていた足枷がなかったからだ。

「どうして……」

困惑に染まり、カイトは自由そのものの、自分の足を眺めた。そっと手を伸ばし、触れてみる。

幻でも願望でもなく、そこに枷も、寝台と繋ぐ鎖もない。

隣にがくぽの姿はない。隣どころか、室内のどこを見渡してみても夫の姿はなく、近くに気配があるわけでもない。

だというのに、カイトの足が自由だ。

カイトに自由が赦されている。

「……っ」

くっとくちびるを噛み、カイトはこみ上げるものを堪えた。

ずっと、嘆願してきた。それは止めてくれと。これは厭だと。

『妻』として体を開かれ、しつけられることには耐えられた。けれど枷に繋がれ、鎖されることは到底、受け入れられなかった。

これが幼い夫の、妻とした自分への不信と不安の表れであり、なによりも未熟さの発露であるとわかっていたが、だからこそ諦めることもできず、ひたすら懇願してきた。

これは止めてくれ、それは厭だと。

そして今日、ようやく叶った。

これは歓んでもいいことだ。そのはずだ。

「ぅ……っ」

堪えきれず、カイトのくちびるからは呻きがこぼれた。

鎖されることは、受け入れられない。なにかのきっかけでまた枷を嵌められ、鎖に繋がれるようなこととなれば、きっとカイトは止めてくれと、厭だと言うだろう。

言うだろうが、ようやく解き放たれた今、まるでうれしくない。むしろ不安が突き上げる。その不安がいったい、なにに由来するものかといえば――

「おや、お早い。もう起きておられましたか」

「っ!」

低さと深みを持った声が、反するように明るく響いて、カイトははっとして顔を上げた。

どうにも、考えごとに深く沈み過ぎたらしい。部屋の扉口にはいつの間にか、不在だった夫が――青年の姿を取り戻したがくぽが立っていた。

――これから先、あなたの夫は『夜』と『昼』で年齢が違う。

昨夜に、少年が言っていた。

その以前に、そもそも青年の彼にも会っていたし、少年から青年、青年から少年への、変容の過程も見ている。だとしてもなかなか、実感しきるというのは難しい。

微妙に新鮮な驚きを味わいながら、カイトは青年姿の夫、すでに『昼』の姿へ変じ、明るく笑うがくぽを眺めた。

記憶にあるそれと変わらないはずだが、朝日の下で見るとまた、格別に眩い。たとえばその背に、闇すら明るいと見えるほどの、射干黒の巨大な翼を負っていようともだ。

丁寧に手入れされていると思しき翼は艶やかで、色は黒でも朝日に神々しく、輝いてすら見える。

挙句今は、日課である花の手入れをしてきたあとのようだ。いつものように両手いっぱいに花を抱えているのだが、おかげで空気の華やぎたるや、やり過ぎだと苦言を呈したいほどにまでなっている。

「おまえに早いと言われるのも、どうかと思うが……」

ぼそぼそと言いつつ、カイトはできる限り自然を装って、がくぽから目を逸らした。

正視し難い。

まるで自分がうぶな娘にでもなったような心地だ。制御も利かず動悸が激しくなり、肌が羞恥に染まる。

カイトの微妙感満載な反駁を、がくぽはやはり、明るく笑い飛ばした。

笑い飛ばされるようなものではないと、カイトはわずかにむくれて考える。

だからそもそも、少年であったがくぽが寝についた時間だ。カイトより、絶対的に、あからさまに遅い。

そして起床時間だ。日の出と日の入りを境に体が変わると言っていたし、昨日の様子では当然、寝たまま変わり終えるようなことは望めないだろう。必ず目を覚ましたはずだ。

そうやって日の出で目を覚まして、――おそらく騎士として鍛錬に励み、庭の手入れをも行った。

すべてカイトが、惰眠を貪っている間のことだ。

これで早いと言われるのは、通常、皮肉か嫌味か、その両方でしかない。

しかしもちろん、さまざまな意味で規格外の夫にそういった、いわば常識的な意図はない。

両手いっぱいの花を抱えたまま部屋に足を踏み入れつつ、笑って告げた。

「そも、朝日のうちに起きられるような抱き方をしていないつもりです。少なくとも昼のあたりまでは起きられないよう、加減しているはずなんですがね、どうにも不足のようだ」

「……………『加減』?」

言葉の意味だ。通常使われる、常態としての、言葉の――

普通、こういった場合の『加減』というのは、反対の意味で使われないだろうか。少なくともこれまで、カイトが使うときにはそうだった。もしくはカイトの周辺にいるものが使う場合にもだ。

さらに言うならがくぽの、今のような意味合いで『加減』という言葉を使うのは、どちらかといえば嗜虐の強い手合いに見られる傾向だ。

考えれば考えるほど、二重三重にありがたくない。

カイトがなにかしらに起因する頭痛を覚え、眉間を押さえたところで、がくぽは寝台の傍らに立った。

そうなると、視線を向けないのは不自然だ。小さく息を吐いて腹を固め、カイトはうっそりと――夫の言いように、さも呆れたという風情で、視線をやった。

もちろんがくぽは堪えない。

むしろカイトの覚悟のほうこそ、安かった。

「改めましておはようございます、我が最愛の妻にして花。ご機嫌麗しゅう」

しらしらと言われる。しかもがくぽはカイトがなにか返すより先に腰を屈めて顔を寄せ、ことさらに覗きこんできた。

これで視線を逸らせば、後ろめたさを白状したも同じだ。この、口の減らない、気の回る夫を相手には、決してやらかせない。

が、だからとさらに腹に力を入れるまでもなく、どころか全身からふんやりと力が抜ける心地で、カイトは覗きこむがくぽから、目を離せなかった。陶然と見入って、動けなくなる。

昨日はなんだかだと慌ただしく、しかも状況が状況で、ほとんど全裸か半裸の姿しか見ていなかった。

鍛え抜かれ、均整の取れて成長しきった体ももちろん、ひたすらにうつくしかった。ただし同時に、濃厚な情事を想起させられて、落ち着いた心地で眺めていたとは、言い難い。

今朝は違う。あれこれと作業したせいもあるだろうが、きちんと上下ともに、衣服を身に着けている。

どうにもこの地方の特有なのか、薄めに織った白い麻を、ゆったりした身幅で、開口部も大きく仕立てたものだ。少年は上に、革製で袖なしの胴着を合わせていたが、青年は翼のこともあるのだろう。胴着などは身に着けず、最低限の身支度で仕上げている。

とにもかくにも、昨日の状況より余程にましであることは、間違いない。

ましだが、そうなると今度は別のところに目がいく。つまり、成長した夫の顔貌だ。

もはや少女とは見紛うこともなく男臭さを増して、しかしそれがいいふうに色香に転化され、まといつく。

そのうえこの夫、なにを考えているのか、頭に花飾りまで差してきた。

先には最低限の身支度と言ったが、ほんとうには違う。最低限というのは、あくまでも着つけたものだけの話だ。

着つけたものは最低限であるというのに、がくぽは頭の両脇にある巻き角のうち、左の側にだけだが、隠すというより引き立てるよう、花飾りを差してきた。

大輪の生花をいくつか組み合わせた豪奢なもので、容貌によっては負けそうなほど、華やかな拵えだ。

無論、むざと負けるような手合いではない。むしろ互いに引き立てあった挙句、不要に色香を増して、おかげでカイトは目が離せない。

あえて言うことがあるとするなら、カイトの生国、哥の国では、男が頭に花飾りをつける習慣はないということだ。

つけるとしても、年端もいかない子供くらいで、それも祝いの席だけだ。日常ではない。

成人して以降の唯一の例外といえば婚姻の、誓約式のときか。あのときだけは哥の国の男も、これでもかと全身を飾る。

それでも、男の飾りは葉が主体だ。

頭に被る冠にしろ、胸元を飾るものにしろ、男向けには、力強さや末永を象徴する葉を主体に組み上げる。そこに彩りとして、小花をごくわずかに加えることがある程度だ。

だから男であるがくぽが、まるで違和感も抱かず頭に花飾りを――それも女でも滅多にはしないほど豪奢な逸品を日常に差しているという光景は、カイトにとっては異様に映る。

だが目を離せない理由は、異様さゆえではない。

似合っている。

異様さも忘れて見入るほど、もはや評するに絶望的と言うしかないほど、おそろしく似合っている。

両手に大量の花を抱えているだけでも、華やかさの補填としては十分過ぎるほどなのだ。なにが不足だと、こうまで飾ったのか。

まるで年頃の少女にでもなったかのような、高鳴る胸には心底から情けない気分だが、あまりにうつくしく、カイトは目が離せない。離したくない。

これを存分に観賞し、堪能してよいというのは、なるほど、『妻』の特権であり、ならばなってよかったと――

「んっ?」

陶然と見入った挙句に明後日な方向へ飛びかけたカイトの思考を戻したのは、屈んだ夫の所作だった。

がくぽは両手で抱えていた大量の花を手早くまとめるや片手を空け、その手を伸ばしてカイトの顎を掴んだ。さらに顔を寄せると、ちゅっという軽い音を立て、くちびるを吸っていく。

離れる名残りにちろりとくちびるを舐められ、くすぐったさにカイトの体は竦んだ。

カイトのその反応になど、がくぽはまるで構わない。屈めていた腰を伸ばした夫は、なにかの味見でもするように口のなかを転がし、頷いた。

「ふむ。なんとか持ち直しましたね。顔色にしろ、昨日より多少はましだ。朝の内に起きるようでは、不足も過ぎたかと案じましたが……」

「………なに?」

不穏な言葉が聞こえ、今度こそカイトは我に返った。

爛れた生活の代償か、足腰が立たず、歩くに不自由はあった。

昨日の、『青年』と別れる寸前といえば、長湯のし過ぎで湯あたりし、気分を悪くしていたというのも、確かだ。

昨日を思い起こすに、カイトがわざわざ案じられる理由といえばその程度だが、がくぽの言いようはそうではない。なにかもっと別のところで、カイトが重篤であったような――

「どういうことだ」

「餓えておいででしょう」

「………」

目を据わらせて問うたカイトに、がくぽは軽く答えた。答えはしたが、理解は及ばない。餓えていた記憶はないし、そう、――

空腹の記憶だけは、まるでない。

だが、そうだった。

昨日からがくぽはしきりと――青年のときから、日の入りによって少年に変じてまで、ずっとだ。ずっと、カイトが餓えていると言っていた。

――あなたに貪られるなら、本望だ。

口の減らない青年と、言葉に詰まる年頃の少年とが、まるで同じことを告げた。

けれどカイトには、自分が餓えていたという感覚がない。

食べたいものはないかと訊かれて、なにひとつとして思い浮かばなかった。ここしばらく、まともに食事を摂った記憶もないというのにだ。

まともに食事を摂っていない以上、空腹は極限であるはずとわかっていても、食べたい気が起きなかった。

否、唯一頭に過ったものが、なかったわけではないが――

「今、お早く目が覚めたのも、空腹に負けてのことかと」

「っっ!」

相変わらずの空とぼけた調子でしらしらと続けるがくぽに、カイトはふわりと朱を刷いた。目元が染まり、瞳がきつくなる。

ひとをなんだと思っているのか、この、やたら年長風を吹かす夫は。

おそらく今のカイトとそう変わらぬ年であろうに、夜になれば自身こそがまさにそうであろうに、ひとのことを成長期の食欲魔人扱いとは。

どこか恨みがましい思いを抱き、カイトはきっとして、がくぽを睨みつけた。

「そんな年ではないっそもそもおまえが隣にっ……っ!」

――言いかけて、カイトはごくりと音を立て、続きを飲みこんだ。飲みこんだが、欠片で十分だった。

頬に刷いていた程度の朱が、堪えようもなくカイトの全身へ、爆発的に広がる。

今日も朝から、結構な陽気だ。さすがにまだ、多少の動きで汗ばむほどではないが、だとしても寒冷だとは決して言えない。

肌を赤く染めるだけでなく、羞恥のあまりにうっすらと汗ばみつつ、カイトはきゅうっと布団を握りしめ、うつむいた。情けないの重ねがけというものだが、涙まで滲む。

やらかした。

案の定だった。

「――つまりこうも早く起きてしまわれたのは、空腹に耐えかねてのことではなく、私の不在に耐えかねて、…と同衾していたはずの夫たる私が、先に寝台を抜けたことを、寂しがって、……」

がくぽは先までの、空とぼけたものとは違う、異様に淡々とした口調でそこまで言って、――

次の瞬間。

屋敷を揺るがすほどの、爆発的な大笑を轟かせた。