B.Y.L.M.

ACT4-scene3

昼の夫は戯言が過ぎるのが難点だというのが、カイトの評価だ。

頭の両脇に捻じれた巻き角を持ち、背には闇すら明るい射干黒の巨大な翼を負う、絶世の美貌を誇る異形の青年――

よく気が回って口も舌も回り、ついでに軽業も回せて、調理に造園、呪術、薬術、剣術と、数多複数のわざをも器用に回す、もはやできないことがわからない、まさに万能感溢れる有り様の夫だ。

しかしとにかく、戯言が過ぎるのが難点だと、嫁してから二月の間にカイトはまとめた。

誰が、こわいかという話だ。

正気に返ったらこわいとは、誰の話かと。

「ん………?」

屋敷のどこかでなにか、罵声めいたものが轟いた気がして、カイトは目を開いた。

暗い。

「……くら、い?」

未だ醒めきらない、湖面のように揺らぐ瞳をさらに揺らがせて、カイトは茫洋と周囲を眺めた。

暗い――が、完全に闇に落ちているわけでもない。

どうやら日が沈んだばかりのようだ。よく見れば、壁一面に大きく取られた透明硝子製の窓の外は、名残りの緋赤を宿している。

そうとはいえ、暗いことは変わりない。

それにどういうわけか、この時間こそがもっとも闇が濃いと、カイトは感じる。

日残りはあるというのに、明るく見えない。むしろその残りの陽色から、どこよりも濃く深い闇が滲みだしてくるような――

「ん………」

ふるりと首を振り、カイトは片手を上げて額を押さえた。

他愛もない会話がどう流れたか、もはや経緯の詳細を思い出すのも億劫だ。

ために結論だけ思い出せば、結局のところ昼日中から、夫とねんごろに過ごす羽目に陥った。挙句、途中で意識を飛ばしたと――

そしてようやく意識が戻った今は、日が沈んだ直後という。

カイトががくぽのもとへ嫁いで二月が過ぎたが、ここ最近は、昼日中にそこまで羽目を外すことはなくなっていた。

初めの一月、一月半ほどまではともかく、ここ半月ほどは、そうまでではなくなっていたのだ。

理由は簡単だ。

がくぽ曰く、瀕死とまでに追いこまれていたカイトの飢餓が、ようやく埋められ、治まったことに因る。

二月が経とうとも、『花』としての体感覚の変化が、カイトには把握しきれていない。

飢餓が治まっただろうと言われても、そもそも肝心の飢餓状態を認識していなかったから、なんとも答え難い。が、言われてみればここのところ、がくぽの香りで理性の飛ぶことが減った。

『花』としての栄養摂取、ないし力の補充には、幾通りかの方法があるらしいのだが、カイトはがくぽ――夫との性交によって栄養を摂るよう、しつけられた。

おかげで曰くの飢餓状態の間、がくぽが雄を香らせるたび、もしくは肌を晒すたび、『とってもおいしそう』と涎がこみ上げ、我を忘れて『食べさせて』と強請りと、散々だったのだ。

そう、花として咲き開いたカイトの体感覚は、飢餓自体はまるで意識できないというのに、『おいしそう』には顕著に反応した。

どういう感覚かと、たまに喚きたくなるカイトだが、その、散々な状態が、ここ半月ほどは落ち着いていた。がくぽが雄を香らせても、我を失うことはない。嗅いでいると落ち着くとすら、思うようにもなった。

否、時間帯諸々によっては相変わらず、いわば、『おいしそう』だと思う。それでもやはり、我を失ってとまでではなくなってきたのだ。

対するがくぽも同様だ。以前は飢餓に陥ったカイト――『花』の、食餌を求める香りに誘発され、生物の限界を超えて盛らされていた。

しかしがくぽもまた、ここ半月ほどは、カイトの香りを嗅いでも顕著には反応しない。

――どうやらようやく、落ち着いたようですね。非常に残念ですが、だからとあなたを飢えさせておくのも、忍びない……やれやれだ。ことほど左様に、世界の均衡とはむつかしい。

昼の夫はそんなふうに、カイトの飢餓状態に終息宣言を出した。

なにが残念だと、カイトはそのときも、戯言が過ぎると、昼の夫をたしなめたのだ。

くり返すが、がくぽは生物の限界をはるかに超え、無理やりに反応させられていたのだ。心身ともに相当な負担であったはずだし、もはや苦痛以外のなにものでもなかっただろう。

カイトの飢餓が治まらなければ、もしくはもう少し時間がかかっていれば、がくぽの体が壊れる可能性も大いにあったのだ。

だがたしなめられた青年といえば、ひどく意想外なことを言われたとばかり――

「違う、まずい……!」

醒めきらない意識まま、茫洋と思考を遊ばせていたカイトだが、はたと我に返った。どこか蕩けていた瞳がかっと見開かれ、上半身が起きる。

「……っ」

下半身が閊えて、カイトは小さく、奥歯を軋らせた。上半身のやりようにいっさい連動してくれない下半身の閊えぶりのせいで、まるで寝台に押し戻されるかのような感覚に見舞われる。

だからと再び寝台に沈みきることはなく、カイトは上半身の力を尽くして下半身を引きずり、座る姿勢へと変わった。

そうやってカイトが座る姿勢を整えられるのと、ほとんど同時だ。

「カイトさまっ!!」

――金切り声が、寝室へと飛びこんできた。

喧しいのは声だけでなく、足音もだ。余裕もなく床を踏み鳴らして、走る。

いつ如何なるときにも平静たれ、こころは熱しても頭と態度は冷やしおけと訓戒される騎士として、まったくあるまじきだ。

眉をひそめたカイトだが、声の主は構わない。否、構えない。

「ご無事で……っ!!」

「おまえはいったい、自らの為しようをどう、案じている………」

大袈裟としか言えない言葉と態度に、カイトは頭痛が兆して額を押さえた。

飛びこんできた相手は、そんなカイトのしぐさを見ても気が鎮まらないらしい。息を切らし、相変わらず足音も高く荒々しく、室内へ踏みこんでくる。

先にカイトが目を覚ましたときより、さらに暗さは増した。すぐ傍らに立たれてすら、相手の状態をつぶさに確認することは難しい。

それでもわかる輪郭の変化というものがあり、醸される空気もまた、まるで違う。

へたりと座るカイトの前、寝台の傍らに立ったのは、暗闇にも明らかに少年だ。負う翼も戴く角もなく、明るいところで見れば、その優れた容貌は未だ少女と見紛う。

が、確かに男であり、そしてカイトの夫だ。

日の出と日の入り――夜と昼とで成長の速度が合わない特異体質であるとかで、日の出入りで少年期と青年期を行きつ戻りつするのが、カイトの夫の日常だ。

成長が早いのは昼であり、すでに青年期だ。対して夜は成長が遅く、未だ気難しく、すべてが途上の少年期にある。

論より証拠、百聞は一見に如かず、万の言葉を費やすよりも見たほうが早いと、初めのときには自身の変容するさまを、つぶさに見せたがくぽだ。

しかし以降、時間となるとカイトの前から姿を消し、変容の様子を見せることはない。

姿を消す際にも、あからさまに、変わる時間ですのでとは、言わない。なにかしら適当な口実をこしらえて一時的に退いたかと思うと、次に現れたるは――という具合だ。

初めに見せた際にも、言っていた。本来、見せるようなものではないと。見苦しいものであると。

少年と青年の、体格の差がある。成長によって青年が得た、少年期にはなかった角や翼といったものも。

なかったものを短時間に現し、あるいはあったものを短時間のうちに無きものとする。

毎日まいにちの変容には酷い苦痛が伴い、他人事たるカイトから冷静に、客観的に見たとしても、もはや拷問の域にある。

いかにがくぽが優秀な騎士であり、肉体や剣技のみならず、精神性から鍛えていたとしても、まるで堪えきれず悶え足掻き、苦鳴を上げてのたうつほどには。

――言ってもこうまで激しい痛みは、ここしばらくの辛抱というものかと。

日の出と日の入りと毎日必ず二度、逃れようもなく惨たらしい拷問にかけられているも同然だ。

案じないではいられないが、呪いではなく生まれ持った体質であるというから、こちらがあまり気を揉むのも礼を失した態度となる。

ので、明確にはしないよう注意深く、しかし案じずにはおれないカイトに、当の本人はそう、軽く言い退けた。言い退けるだけでなく、実際、さほど苦にしている様子もない。

――たとえば夜も昼も、ともにまだ幼かったころは、さほどでもなかった記憶があります。あれ、今なにか変だったなとか、その程度で……きっと、夜昼の体格差が小さかったからでしょうね。だからか、この体質にはっきり気がついたのだって、そこそこの年になってからでしたよ。そう考えれば、夜が成長し、昼に追いつけば、また痛みが減じるでしょう。生涯のことではありませんから。

むしろカイトを慰めるように説いてから、笑って続けた。

――利点もありますよ。どれほど大傷を負っても、半日で治るんです。瀕死というほどのものであってもね、とにかく日の出か、日の入りまで持たせれば……ほら、肉とか骨とか、結構な捏ね直しぶりではありませんか。あのとき、諸共に傷も埋めるらしくてね。おかげで痛い思いや不自由が、長続きした記憶がない。

この間の背の傷はだから、ほんとうは結構堪えていたのだと、昼の青年はやはり笑って打ち明けた。薬や力を用いて痛みを散らしてはいたものの、相応に焦りは強かったと。

ならば早く言えと――青年に言うのは無駄だから、カイトはただ、ため息で終わらせた。

隠したのは、少年の矜持と視野の狭さからだ。青年ならきっと、言った。カイトに、力を貸してくれと。

そして青年へと変じられるなら、ああまで大事となることもなかった。変じた時点でだから、傷は埋められているはずだからだ。

利点と言われれば、そうなのだろう。逆に、半日なんとか持てばいいと、ろくでもない無茶もしそうで、それはそれでカイトには案じられたが。

とにかく概ね万事そういったふうに、がくぽがこの体質について深く考えたり、思い悩む様子はなかった。夜も昼もだ。

だからと言って、自分がのたうち回るさまを見せることも、良しとはしない――

「……それで今日は、なににそう、腹を立てた」

「……っ」

なだめるように訊くカイトに、がくぽはくっと、体を固めた。おそらく、くちびるを咬んだだろう。うすらぼんやりと見えることは見えるが、なんにしても暗い。

今日も今日とてカイトの幼い夫は、なにかに気を取られた挙句、明かりの必要性を忘れている。

青年期となれば回せる気が、まるで同じ体、記憶を引き継ぎながらも、少年となると余裕を失って、不足する。

生活上にもっとも不便や問題があるとすれば、それだ。

たとえ大きさは変わっても同じ体であり、記憶も途切れることなく続いている。考える頭も同じだ。

それでも体が変じることで精神、考え方や感じ方もつられて、同じできごとへの判断が分かれる。

なによりも事態をこじらせるのはそういう、つまり、『自分がやった』ということだ。

自分が思考し、判断し、自らやった――いったいどうしてそんなことをやらかす気になったものか、少年は青年期の自分が、青年は少年期の自分が、自分でありながらもっとも理解できず、募る憤懣はやる方を失って、激しさを増す。

そして、日の出と日の入り、この、夜と昼の入れ替わりの時間――特に、日の入りのあとだ。

青年から少年に変わった直後、高確率で、屋敷には罵声が轟く。誰でもなく、今まさに失われたばかりの『自分』へと向かって。

青年は、そこまでではない――言ってみれば、成長期を終えた身にとっては、すでに通ってきた道というものだ。

すべてが理解できないにしても、そういう年頃であったよなという、諦念にも似た、なんとない理解がある。こういった諦念含みの理解をして、世間では『大人の態度』などと言ったりするわけだが。

少年は違う。青年期とは、未だ到達していない領域、思考であり、経験だ。ために、青年期の自分がまるで理解できずに混乱し、あるいは恐慌を来して叫ぶ。

記憶を継いでいる。思考の経路もつぶさに覚えている。兆した感覚も感情も、まったき自分のもの。

昼が少年期を経て青年となっている以上、夜だとて本来、少年期から青年へ、中身だけは遂げているはずなのだ。

しかし『追いつかない』。

それこそがまさに、この体質の厄介なところで、中身まで含めて夜と昼とはまったく、成長がずれているのだ。

それで結局、まったき自分自身でありながら、もっとも肝心な、思考と行動のすべてに対する理解が、共感が、『追いつかない』。

どうしてこれに対してそう思いつき、どうしてそう考え、どうしてその筋道でいいとし、そしてやらかしたのか――

必然的にカイトは、日が沈んでから現れる少年の夫に、なにが今日は気に障ったのかということを訊く習慣ができた。

あとは、そう、幼いがゆえに不足する気遣いだ。

「がくぽ、暗い。灯りを」

「……」

求めに対し、がくぽはしばらく、黙って立ち尽くすだけだった。難しい年頃の少年だ。切り替えがうまくいかないことが多い。

理解しているので、カイトも急かすことはない。ただ、じっと見つめて待つ。

ややして小さな吐息がこぼれ、がくぽの体から、わずかに力が抜けた。

「♪」

「っ……」

うたが――否、うたに聞こえる韻律の言葉がこぼれ、次の瞬間、室内は爆発するように明るくなった。設置されている照明という照明、すべてに光が宿ったのだ。

つぶさに景色が見えなくとも、相応に闇に馴れていた目だ。束の間痛んで、カイトはきゅっと、目を閉じた。

痛みが減じてからおそるおそると開けると、少しの呆れを含み、がくぽを見上げる。

「がくぽ」

「飾りです」

「聞いた」

「………」

部屋中、すべての照明が灯された結果、昼間のように明るくなった。揺らぐろうそくの灯りは不安定さもあるが、この場合、数が力だ。互いに補いあい、暗闇を駆逐する。

確かに暗いと言ったし、灯りを入れてくれるよう頼みもした。とはいえ、夜にこうまで明るくするのは贅沢だ。たとえカイトが以前は王太子であり、よほど恵まれた生活に馴れているとしてもだ。

否、だからこそなおのこと、これは過ぎ越した贅沢だと言う。

庶民からすれば、常に贅を尽くしているように見える王宮であってすら、ひと部屋あたり、夜に灯すろうそくはひとつかふたつだった。

こうまで明るくするのは、余程の賓客があって、もてなすときくらいのものだ。もしくは余程に重要な式典に付随する夜会かだが、そこまでの必要があるものは、年に数度しかない。

そして今、ここにいるのはカイトとがくぽ、夫婦ふたりだけだ。なにかの記念であるということもない、なんとない日々の、なんとない夜――

ますますもって明かりの量は、贅沢以外のなにものでもない。

しかしがくぽ曰く、これは見た目だけの話だから、まるで贅沢ではないらしい。

幻火というのか、妖火、幽火といえばいいのか、とにかく実際の『火』が灯っているわけではないという。呪術によって生じさせた光球を、ろうそくを基点に宿らせて芯上に安定させただけのものであって、実際のところ、芯もろうも使っていない。

結果、消費しているものはなにもないので、贅沢もなにもないと。

――部屋のどこにどう『光』を置けば効率よく明るくできるかなんて、検証も調節も面倒でしょう。適当に浮かせておくよりも『置いた』ほうが安定もしますし、力もさほど使わず済む。だから、もとより建築士が設計しておいたところに、予定されていただろう量の光を置けば、それがいちばん手っ取り早いかと。

夜の口足らずな少年と、昼の口達者な青年の説明を合わせると、そういうことになる。

そして夜と昼で成長が合わず、日の出と日の入りを境に毎日、少年と青年とに入れ替わる夫の、その夜と昼が口を揃えて同じ説明をしたからには、これはほんとうのことだと信じていい。

くり返すが、同じ体でありながら夜と昼で成長が違うという厄介な体質の夫は、夜と昼で考え方の反りも合わず、概ね常に、軽い紛争状態だ。言い訳ですら反りが合わずに、まるで違うことを理由と述べる。

その、合わないのが基本である夜と昼の意見が合致した場合、それは争うまでもない、いわば一般常識なのだと判断していい。

ここしばらくで、カイトはそう、夫を見極めていた。

ただ言うなら、これであっても消費しているものはあるはずだ。

つまり、術を使ったがくぽの『力』だ。使えば体力などと同じく、消耗すると言った。消耗した力を補うに、花へ依存するのだと。

しかしこれに関しても、夜と昼は口を合わせた。口を合わせて、どこか非難するようにカイトに答えた。

――ご自分がどれだけ過ぎ越して力を与えたか、ほんとうにわかっておられないのですねこちらは力余りが過ぎて、少しは消費しておかないと、かえって体が痛むほどだというのに……

諸々、自らにとって都合のよろしくない夫の非難と愚痴とを記憶の奥底に押しこみ、カイトは改めて、光のなかに少年の夫を見た。

「……それで今日は、なにが問題だった?」