B.Y.L.M.

ACT4-scene4

「……っ」

話を戻したカイトに、がくぽはやはりくっと、くちびるを咬んだ。睨みつけるにも似た、恨めしい視線を寄越す。

この場合、カイトが寝台に腰かけたままで、がくぽは立っているというのも、印象的に悪い。

通常、並び立つか、隣り合って座るかして同じような姿勢を取れば、成長期の途上にあるがくぽは、すでに成年であるカイトより、目線が下にくる。

微妙な差ではある。昼の姿から想定しても、あと少しすれば逆転するだろうとカイトは踏んでいるが、だとしてもだ。

カイトが上から見下ろすならまだ、年長者が年少者に訓戒を垂れる姿勢だ。

しかし下から見上げてどうこうとなると、頑是ない幼子に言い聞かせるときの、親の姿勢だ。

カイトは子供を設けたことなどないが、それでも無駄に庇護欲が刺激されて、意図する以上にがくぽを子供扱いしてしまう。

子供扱いをなによりも厭う、年頃の少年を相手にだ。余計にこじれる。

取り返しようもなくこじれる前にと、カイトは寝台を軽く叩き、促した。

「座りなさい、がくぽ。立ったままでは落ち着けない」

「…っ」

「こらこら……」

――気難しい年頃の少年だ。誇り高い騎士でもある。

やはり子供扱いが腹に据えかねたらしく、がくぽは無言のまま、ぷいっと横を向いた。

だからとカイトが怒りに駆られることはない。なぜといって、子供扱いを嫌ってしたそのしぐさがもう、子供以外のなにものでもない。微笑ましくて、つい、顔が緩む。

とはいえこのままでは、埒が明かない。そうでなくとも夜の時間は短い――ことにカイトが快復し、昼の時間に起きていることが多くなった、最近は。

微笑ましく綻ばせた顔は束の間で、カイトはすぐに表情を呑みこんだ。憤然と横を向く相手を、少々わざとらしいまでに感情を消した真顔で見つめる。

「私を見下ろす気か?」

「っっ!」

本来的に、妻から夫へ投げる言葉ではない。特にカイトの生国、哥の国のように男権が強ければなおのこと、仲の良い夫婦のちょっとしたじゃれ合いのときですら、あまり言わない。

カイトは男だが、だとしても『妻』と置かれた以上、この言葉を『夫』相手に言うのは複雑なところだ。

対して、言われたほうだ。効果は覿面だった。カイトが少しばかり、罪悪感を抱く程度には。

がくぽははっと瞳を見開き、顔を戻したかと思うと、愕然とカイトを『見下ろ』し――

驚くほどの素早さで、床に片膝をついた。その素早さたるや、追いつけなかったカイトはしばらく残像に焦点を当てていて、結果、束の間とはいえ、夫の行方を見失ったほどだ。

カイト自身、効果を上げるためにわざと真顔にして、表情に相応しい、冷徹な声でやりもした。

これがわずかでも、微笑ましいという感情が残っていて、しかもそれが伝わってしまうと、気難しい年頃の少年は折れることができなくなるからだ。

ますます子供っぽく膨れて、時はひたすら無為と費やされることになる。

それが気難しい年頃ということだが、もうひとつ言っておこう。

選択した言葉はともあれ、カイトが取ったしぐさとしては、自分の横、寝台に腰かけるようにと、促したつもりだ。夫婦がよくやるように、並んで座ろうと。

しかしてがくぽは一瞬のためらいもなく、迷う素振りすらなく、床に片膝をついた。軽く頭も下げて、直視の不敬を避ける徹底ぶりだ。これは略式ではあるが、紛うことなく騎士の礼だ。

相変わらず、主従の気質がまるで抜けていない。

おまえは私のなんだと問えば、こちらも迷うことなく即座に夫だと答えるくせに、態度が甚だしく、言葉を裏切る。

「は………」

微妙に兆した頭痛を堪え、カイトは反射的に額を押さえた。どうしたものかと悩んで、すぐに思いきる。

無視だ。

昨日今日に始まった問題ではない。折に触れては指摘しているが、いっこうに改善の余地が見えてこない習慣だ。

くり返すが、夜は短い――二人ともに、主たる睡眠時間を夜にしているから、起きて過ごす時間がということだが。

これでさらに、どこにどう座るのかという、くだらないにもほどがある問答を始めると、明日の朝までかかっても足らない。

しかも朝までかかったとしても、解決する目途もない。

そして日が昇れば、そもそも少年は消える――

「それで、がくぽ……」

「く、ちで、……っ」

いい加減、話題を進めようと、三度目となる促しをやったカイトに、がくぽは頭を下げたままようやく、答えをこぼした。否、こぼしかけた。

口を開いたと思ったら、始まりと思われる一語で止まって、あとが続かない。

肩が大きく喘いでいる――蘇らせた記憶に、またも激したものらしい。

どうやら今日はそこそこ面倒そうだと、カイトもまた、この沈黙の間に気を引き締め直した。

青年期の自分のやりように対し、頻繁に憤慨している少年のがくぽだが、『激怒』とまでの日は、そうそう多くはない。

幸いなことにと言っていいのか、少しばかり気に入らなかったという程度の日のほうが、まだ多い。

そういう、少しばかり気に入らないという程度なら、対処は容易い。カイトがただ話を聞いてやるだけで治まるし、あるいはカイトがなかったことのように振る舞うだけでも、がくぽはその程度のことかと安心して、鎮まる。

これが激怒とまでなると、なだめるのは厄介だ。

しかも実のところ、今こぼされた一語だけで、今日の少年の逆鱗の、大方の見当がついた。

カイトが類推から高速で思考を組み立てる間に、がくぽのほうも、口が利けないほどの気の昂ぶりをなんとか、抑えたようだ。再び口を開く。

ただし、激昂は完全に鎮まってはいない。迸ったのはほとんど、悲鳴のような声だった。

「カイト様にっ口でっ!!させたでしょうっ?!よくもカイト様に、カイトさまをっ……っ」

「あー………」

――やはり、想定した通りだった。

予想と予測とをよくよく裏切って意想外を積み上げてくれる夫だが、こういうときは外さない。だからと、自分の判断の確かさに対する喜ばしさは、いっさいどこにも浮かばないわけだが。

想定通りであったし、対処の思考も組み立てていた。

だとしても、それで面倒さが減じるわけではないのだ。

カイトは慨嘆とともに、小さく天を仰いだ。

カイトとがくぽはそもそも夫婦であり、がくぽが夫を名乗り、カイトを妻として成り立っている。

だからと妻から夫へ、口での奉仕が一般的かどうかは意見の分かれるところだが、全霊を懸けて怒り狂うほどの事態ではない。

――と、少なくともカイトは、思う。

大体にして、がくぽだ。

がくぽは妻としたものの、本来は男であるカイトのそれを、よく口でしゃぶっている。花の蜜をこぼすなどあり得ないと不明なことを言っては、カイトが極めて吐きだしたものを飲みもする。

残すなどもってのほかと、じゅるじゅると音を立て、最後の一滴まで啜ることも厭わない。

確かにがくぽは花に力を依存する身だが、言うならカイトが『与える気』にならない限り、その体液を啜ろうがなにをしようが、得るものはなにもないはずなのだ。

対してカイトだ。カイトは違う。がくぽの気分など関係ない。『花』であるカイトは、がくぽの精を飲めば、それで腹が膨れる。

字義通りだ――空腹が満たされるし、力も戻る。

得るものが必ずあるのだ。無駄になっていない。

しかして夜の、少年に変じた夫は、赦せないという。

なにが赦せないといって、まさか崇敬する主たるカイトを床に侍らせた挙句、その口に、しもべたる自分のものを咥えさせ、奉仕に務めさせるなどもってのほか、不敬の極みだと。

くり返そう。カイトとがくぽとはもはや、主従ではない。夫婦だ。

実のところカイトは、自分たちの関係について頻繁に疑いを持たざるを得ない状況に追いこまれるのだが、つまりがくぽの、こういった言動によってということだが――

「挙句、カイト様は異常を覚えていらしたのに、あん、あんなっ……っ」

「がくぽ……」

顔を真っ赤にし、わなわなと震え、がくぽは憤る。

聞いていたカイトの頬も染まったが、それはがくぽの怒りに感化されてのものではない。

自分が晒した痴態を、まざまざと思い出してしまったがためだ。

――なにが、正気に返ったらこわい、か。

こぼされた戯言を再び思い返し、カイトは明日の朝まで会うことはない青年を恨めしく思う。

もっともこわいのは、彼自身だろう。もっとも怒り狂い、もっとも糾弾し、もっとも厳格にして厄介なのは、毎夜現れる、少年期の彼に他ならない。

カイトの羞恥もなにも、これに及ばない。

先に憤激されて、なだめることに時と精力を費やしている間に、消えてしまう程度のものだ。なんとまあ、自分の鷹揚にして、寛容なこと――

ほんの束の間だけ逃避して、カイトは気を取り直した。その間にがくぽが少しでも鎮まっていてくれればいいが、もちろんそう都合よく、ことは運ばない。

「畜生、どうして昼はああだカイト様がお優しいのをいいことに、好き放題しやがってっ」

「ぁあー………」

口角から泡を飛ばす勢いで尽きせず罵倒をこぼすがくぽに、カイトの面は微妙な笑みを刷く。

美貌の少年だ。少女とも見紛うようなうるわしい容貌で、そうも口汚く罵るものではないと、カイトは残念に思う。

そもそも、生まれ育ちのこともある。

たとえばカイトは哥の国の王子として生まれ、王太子として育った。王女ほどではないにしても、その言動は王族として、相応に厳しくしつけられたものだ。

それで、がくぽだ。

カイトへの恋慕の情も相俟って、偏向と傾倒の著しい、忠誠心篤き騎士となったが、実際は南方を治める王、人智を超えるという意味で、『魔』の冠を与えられた南王の子息だった。南王が生した十二人の子のうちの、もっとも末の十二番目だという。

番数ともあれ、王子は王子だ。言ってみればカイトと立場は似たり寄ったり、となればその育ちたるや――

過酷も極める。

そもそも親たる南王が、自らの子を食糧の一種としか認識できていないらしい。

がくぽには上に、十一人ものきょうだいがいたというが、それもこの年までに、がくぽがずいぶん幼いうちには、すべて南王に喰いきられ、喪われたという。

末の子たるがくぽが未だ生き残っていたことも、深い理由のあるものではない。今はまだ幼く、力弱く喰いでがないから、もう少し大きくなり、喰いでが出るのを待っていただけという。

王が王なら、臣も倣うものだ。

だからがくぽはこれまでに、王子としての、王子らしい教育をまともに受けた記憶など、いっさいないと言う。がくぽの学識のほとんどが、自らの努力による独学だと。

臣などの他人からとなれば、少しでも王にとって喰いでが出るよう、『力』を鍛えられた程度の記憶しかないと――

口汚い罵り言葉も、覚えるというものだ。

むしろカイト相手には礼節を保った言動を取れることを、大いに褒めるべきなのかもしれない――それが夫婦として正しい態度かどうかは、判断を置くとしてだ。

とにもかくにも今日の少年は、自分ひとりでこの憤激を鎮められそうにはなかった。

それだけ見て取って、カイトは気がつかれないよう小さく、ため息をこぼす。

よくよく少年の逆鱗に触れる青年だが、あちらもあちらで、少年期の自分のやりように頭を抱えている。

いったいどうしてああも柔軟性がなく、拙劣なことをやるのかと。青年期の自分の記憶も思考法も継いでいるのだから、もう少しうまくやれただろうに、どうしたって四角四面にまずいほうへと転がしていくのか――

「がくぽ」

呼びながら、カイトはがくぽへ手を伸ばした。両手を肩にかけると、引き寄せながら顔を埋める。首元に寄ったところで、ここ最近の癖でつい、すんと鼻が鳴った。

心地よい香りだ。

煽られることは減ったが、夜にしろ昼にしろ、がくぽの香りはひどく心地よい。この香りを嗅いでいると、すべてのことは万全にして、瑕疵もないという気分になってくる。

ただ、体格や性格、思考などと同じく、体臭もまた、夜と昼とで微妙に違う。子供らしい、大人らしいと言ってしまえば、身も蓋もないだろうか。どのみち心地よいとは思うが――

「か、カイ、ト、さまっ……」

突然に抱えこまれたがくぽのほうは、狼狽えるばかりだ。動揺著しく、抱き返すこともできない。

昼であれば、『おや、どうしました、おかわいらしいしぐさなどして。甘えたくなりましたか』などと、余計なことを三つも四つも言いながら、きっとすぐに腕を回してくるだろう。

けれど、夜になるとできない。余裕がまるでなくなる。

だからどうということもない。カイトは夫のこの、夜の不器用さが愛おしく、かわいらしくて仕方がなかったし、言うなら、甘やかしてやりたくて仕様がなくなる。

これで評価が減じるというものではないのだ。

「あの、かい……」

「ん」

おろおろとした声を上げるがくぽに構わず、カイトはまず、自身の落ち着きどころを探した。

跪く体に半ば伸し掛かるように抱きつき、頭を擦りつけるように肩に預けとして、場所を決める。

「それで、おまえは」

落ち着いたところで、カイトはようやく口を開いた。

「悪いことをしたと、思うのか私に、してはいけないことをしたと――」