B.Y.L.M.

ACT5-scene3

小卓に茶器を置いたがくぽは立ったまま、茶を淹れた瓶と、空の杯とをカイトに掲げて見せたうえで、小首を傾げてみせた。

「熱いほうか、冷たいほうか、どちらが?」

「ああ、では」

「はい。では冷たいほうで」

「なっ、……っ決まっているなら、なぜ訊く?!」

「はっはっはっはっはっ」

――茶番めいた、このやり取りまでは良かった。しかしそのあとだ。

持ってきた茶を杯に移したがくぽは、ひと声うたってそれを冷やした。共連れで凍らされる空気が鳴る、あの、きんとかん高い音が響き、霜ついた杯が小卓の上、カイトの前に置かれる。

そしてがくぽは小卓を挟んで、カイトの前に置かれた椅子に座った。

それだけだ。

「……え?」

カイトがこぼした声はあまりに小さく、対面に座ったがくぽはおろか、カイト自身にすら聞こえたかどうかというものだった。

けれどカイトは、愕然として――束の間、自分をまるで取り繕えないほど、愕然とした。

愕然としたが、ではなににそれほどの衝撃を受けたのかという話だ。いったいなにがあって、これほど動揺したのか――

「…っ」

堪えきれず、カイトはきゅっと、拳を握りしめた。

対面の、涼しげに座る美貌を、直視することができない。だからとうつむくのもおかしいような気がして、無闇と視線を泳がせる。

一見、庭を眺めている風情だが、焦点がぶれている。景色など、まともに見えていない。こころここにあらずであると、敏いものならすぐに気がつくだろう。

そう、敏いものならすぐ、気づく。

がくぽがすべてのことにおいてそうかはともかく、少なくとも彼は、夫となって二月を経ても未だ、カイトに尽くす騎士としての姿勢を崩していなかった。

おまえは私のなんだと肩書きを問えば、迷いもためらいもなく夫だと答えるくせに、言動のすべてが相矛盾して従僕、下僕だ。

しかも目の前に座っている。

小卓を挟んではいるが、『小』卓だ。距離がさほどに離れるというものではない。ほんの少しも傾けば、互いの額を合わせることすら容易い。

この至近距離にあってカイトが挙動不審に陥れば、たとえ心理的余裕があってうまく隠したとしても、おそらく早々に見破られるだろう。

そして今のカイトに、心理的余裕はまるでなかった。

足が不自由でなければ衝動のままに駆けだして、この場から逃げたことだろう。そんなことをすれば、ことはさらにややこしくなるし、実際ほんとうに足が動いたなら、きっとやることは正反対で――

それでも、そういったことをやらかしたくて仕様がなくなるほど、カイトはいたたまれない心地だった。

幸いにしてと言うべきか、不幸にしてと言うべきか――『花』として完全に咲き綻んだカイトの足は、こういった場合には自由に動かなかった。

植生の、根だ。

がくぽも言ったように、なにあれ、ほいほいと根を掘りだして気ままに走り回る植生など、いはしない。

――だからと、まるきり『根』であるとも言いきれないのがこの足だというのが、当事者たるカイトの見解なのだが。

もちろん、明確とはなっていない未だ仮定の話で、だからがくぽには告げていない。

が、動かそうと思えば、おそらく動かすことはできるだろう――『歩ける』だろうという、確信めいたものがあった。

ただしそれには、一定の条件を満たす必要があるようだというのが今のところであり、そして今、現状、その条件は――仮定であり、推定であっても――まるで満たされていない。

それで、それら推測を確かなものとするがごとく、足は動かない。

カイトは逃げられず、だからただ、愕然と、呆然として、身を強張らせているのが精いっぱいであるという。

立ち直るにも、立ち直り難い。握った拳の力は強まっていき、朝から昼へ、明るさを増す一方の昼日中に、表情は暗く翳っていく。

そして再三言うように、忠誠も篤く、偏向と傾倒著しい騎士が、目の前にいて、ここまであからさまな主の異常に気がつかないわけもない。

それでもがくぽはしばらく、忍耐を発揮し、カイトの回復を待ってくれたのだ。

思い余って『妻』とは為したものの、カイトの元は王太子だ。不調や内心を悟られるようなことは、矜持をひどく傷つける。

案じるあまりとはいえ、矜持を踏みにじるようなことは極力、控えなければと――

がくぽにも、その程度の配慮はできないこともない。ことに直情径行の強い少年期ならず、抑制の強い昼の青年期となれば、なおさらだ。

ただしそうそう長いこと、持つものでもない。結局のところ、偏向と傾倒著しいことに変わりはないからだし、そういう手合いであればこそ、偏向と傾倒著しいと、当の主にすら頭を抱えさせるのだから。

しかしとにかくがくぽも、まずは辛抱した。

それでも、どうにもカイトが自力で回復しきらないと見ると、小さなため息をこぼした。

昼の青年が背に負う射干黒の巨大な翼は普段から、闇すら明るく見えるほどに昏い。けれどどこか神々しく輝いているようにも見えるものだが、完全にくすんで、堕ちた。

もはや負うものの形状も怪しくなるほど、黒々と昏い。

がくぽがカイトへ向けたのはあやすような、例のあの、年上をかざした笑みだったが、吐きだした声は苦く、ひび割れていた。

「カイト様」

「っ」

呼ばれて、カイトはびくりと肩を震わせた。

震わせた肩を隠せず、また、取り繕うこともできなかった。挙動不審に落ち着かず、茫洋と彷徨わせていた視線をうつむかせると、硬くかたく、体を閉じる。

不審に不審を重ねるやりようだと、こうやっているカイトにもわかっていた。が、表情にしろ態度にしろ、まるで制御が利かないのだ。

がくぽのくちびるから再び、ため息がこぼれかけ――呑みこむ。

カイトとても、この距離だ。がくぽの気配の変容は、つぶさに感じている。騎士の――『夫』ではなく、『騎士』だ――なにかを刺激したと、まずいのではないかと、理解もしている。

が、咄嗟に応じられない。理由が理由だ。理由が理由なのだ。どうせ『敏い』騎士なら先にそこに気がつけと、追いつめられたこころが八つ当たりに沸く。

ひどく当たりまえのことだが、カイトの内心をつぶさには悟れないが、とにかくひたすらな偏向と傾倒をもって異常だけは感知する騎士は、苦い言葉を続けた。

「お気に召しませんか。私の設えた庭が、さほどに居心地が悪いとおっしゃられるなら……」

「違うっ!」

皆まで言わせると、ろくでもない結末しかないということだけは、余裕を失った今のカイトにもわかった。わかったから、とにかく強い声で、がくぽの言葉を張り飛ばす。

張り飛ばすが、先が続くわけでもなく、取り繕うだけの余裕が戻るわけでもない。

喘ぐだけで言葉が続かないカイトに、がくぽも滅多になく苛立った様子を見せた。がりりと、頭を掻く音がする。

はっとして顔を向けたカイトを、やはりがくぽは初めて見るような――否、初めて会ったときの少年に似た、険しい目つきで睨めつけていた。

「なにが違いますか。それだけ落ち着かず、不快に浮ついた様子でありながら、いったい、っ!」

つけつけと放たれるがくぽの言葉を、今度はカイトは、握った拳を小卓に打ちつけることで止めた。両の拳を力いっぱい、石の小卓に叩きつける衝撃で止めて、――

なぜといって、言葉で説明する勇がまだ、持てない。

誤魔化す、うまい言い訳も思いついていない。大体にして、こともここまでこじれると、下手な誤魔化しはさらなる事態の悪化を招くだけだ。

素直に白状してしまうことが、場を治めるにもっとも最良の手だ。

わかっている。

わかっているが、いたたまれない。

いったいどうして今日に限っては、カイトが言うこと言わぬこと、有無も関係なしに勝手自儘に裏を読んで動く機敏な夫が、こうまで鈍いのか。

いつものように、適当にカイトの内心を読んで動いてくれれば、そもそもこじれるようなこともなかったというのに――

そうされた場合、カイトのいたたまれなさは相変わらずか、さもなければ悪化するだろうことは容易く予想されるが、だとしてもだ。少なくとも今の、この状態は避けられた。

「ぅく…ぅっ」

概ね追いつめられ過ぎた結果というもので、カイトはがくぽに八つ当たりでしかない責任を押し被せ、きっとして睨んだ。

睨む、瞳が潤んでいる。羞恥と屈辱だ。小卓に叩きつけた拳が痛い。石造りだ。固く、そしてこんな陽気でも日陰で、朝でもあれば、あえかに冷たい。

そこになんとか理性をしがみつかせながら、カイトはぷるぷる震える拳をさらにきつく、握りこんだ。

「……カイト様?」

未だ険しさはあれ、ふっと訝しく眉をひそめたがくぽに、カイトは小さく洟を啜った。

ますますもって、こうまで追いこまれた自分がみじめだ。たかがこれしきのことでこうまで追いつめられるなど、矜持もなにもあったものではない。

みじめで、悔しく、恥ずかしく、なによりも――

かなしい。

口を開けば諸共に、瞳からもこぼれるものがきっとある。堪えることは至難の業だ。だからカイトは自分がいくつなのかと、自分で自分を詰問したくなるのだ。

これだから昼の青年が幼い扱いをしてきても、うまくあしらえないのではないか。

「カイト様、とりあえず、お手を……」

未だ疑念は晴れずとも、がくぽには多少の余裕が戻ったらしい。なめらかに磨かれているとはいえ、カイトが拳を叩きつけた先は石だ。

力いっぱい叩きつけた挙句、きつく握りしめられたままのカイトの拳を案じて、手を伸ばしてきた。

――触れられる。

寸前、カイトは伸ばされた手を、拳のまま弾き飛ばした。

「っ!」

正確を期すなら、がくぽに叩きつけられたのは、拳ではない。明確な拒絶の意志だ。カイトからがくぽへの、最愛の妻が、夫たる自らを――

瞬間、がくぽがはっと、瞳を見開いた。ほとんど同時に、弾かれた、中途半端なところで不自然に止まった手指の、節が軋み、血管が浮く。

非常に間近なところにあって、つぶさに見える指先が引きつり、節が太くなり、爪の形が変わった。

日々、剣を操り、庭をいじるものに相応しく、無骨に切り揃えられていた爪が厚みを増し、先を尖らせ、伸びていく。

似ているのは、猛禽のそれだろうか。鋭く、厚く、硬い。

そういえば夫はこんなものも持っていたなと、逃避を望むカイトの思考の片隅が考えた。

確かカイトの前で初めて青年へと変じたとき、爪の形はこうだった。それが、呼んでもいないのに現れた南王へ対するため、剣を掴むとともにもとの、ひとの爪の形へと変じたのだ。

一部の猛禽や獣には、狩りや縄張り争いなどといった必要な際にのみ、この鋭い鉤爪を表に出すというものがいた。常に出している猛禽や獣もいるが、特に上位種となるほど、この爪を奥へおくへと大事に隠し仕舞う。

がくぽもそうなのだろう。普段、出したままの角や翼にしても、やる気になれば隠せるというが、苦労するので滅多にはやらないという。

が、爪のほうはもともとの生態として、気楽に隠せるものなのかもしれない。

ことに上位の、頂点に立つような種であれば、もとの生態として爪を隠すものがほとんどなのだから、この強いつよい夫の爪もきっと、そうなのだろう。

彼らしい話だと――

それでこれが今、表に出てきた理由だ。

おそらく、カイトとの諍いと拒絶に動揺し、滅多になく気が昂ぶったからだ。主たる身へ反逆の意はなくとも、思いもかけず拒絶を向けられれば咄嗟に、ひどく凶暴な衝動に駆られる。

戦いの力を磨いてきた騎士ともなればその傾向は顕著で、特におかしな反応であるとは言えない。偏向と傾倒著しい騎士であればなおのこと、むしろ致し方ないこととすら言える。

それで爪が変形するかどうかというのはさておき、総体として、ことに取り立てるべき事象ではないというのが、カイトの結論だ。

――といったふうに、重ね過ぎた自らの失態から一時的に逃避を極めたカイトは、爪の変容していくさまを、つぶさに眺めてしまった。

それが、異形の夫からはどう見えるものなのか、思いを馳せることもなく。

「っっ」

「ぁ…」

くっとくちびるを噛むと、がくぽは弾かれた手を引いた。なにかを抑えこもうとするように反対の手で――こちらは通常の、ひとの手の形ままだった――手首を掴み、小卓の陰にして、カイトの目から隠す。

そのうえで、顔を逸らした。横を向いてカイトと正対しないまま、口を開く。

「とにかく、カイト様」

「ちがうっ!!」

話が進みもしないうちに初めに戻る予感に、カイトはまたも、同じことを叫んだ。

そう、違う。

これではだめだ。このひと言では、夫は察してくれない。今また、新たに動揺を抱えたらしい青年は、いつものような敏さを発揮することはできないだろう。

だからカイトが言うしかない。カイトから、観念して説くしかないのだ。なにがいったい『違う』のかということを。

「ですから、カイト様…」

当然のように諭そうとしてくるがくぽに、諭そうとしながらも横を向いたままカイトを見ようともしない夫に、カイトは再び、きっとした目を向けた。

束の間、逃避を極めて思考を逃がした成果か、先ほどには潤んでいない。これならぎりぎり、最低限の言葉は出せそうだ。

考えても、カイトの咽喉は閊えた。

閊えても、カイトは懸命に声を、言葉を絞りだし、叫んだ。

「とおいっっ!!」