B.Y.L.M.

ACT5-scene4

「……………………………………………………………は?」

カイトの渾身の告白に、がくぽが返した第一声といえば、そんなものだった。抱える鬱屈から横を向いてしまっていた顔が、思わずといった感じで、カイトへ戻る。

まじまじと見られて、カイトは全身が火照っていくのを感じた。いたたまれなさが募り、今度はカイトがうつむいて、がくぽの視線から逃げる。

「『とおい』、?」

「…っ」

ぽかんとくり返され、カイトはきゅっと、くちびるを引き結んだ。

声に出すなと喚きたい。一度は治まったと思った涙腺がまたも活動を再開し、瞳が潤んできた。顔から体から逃げ場もなく熱いし、外気もまた、昼に入るにつれて暑さを増していくし、挙句に瞳まで潤んで熱く、――

こうまでみじめな思いをするなど、させられるなど、なにが悪いといって、夫だ。

すべては察しが悪い夫のせいだ。

もうなにもかもすべてにおいて、夫が悪い。

自棄を極めて八つ当たりにためらいがなくなったカイトは、涙がこぼれても構うものかと、火照りきった顔をきっと上げた。

声と同じく、理解が及ばないとばかりにきょとんとした表情を晒す夫を、厳しく睨み据える。

「嗤い、たいなら、嗤え」

「い、ぇ…っ」

涙を堪えているせいもあるが、据えきった眼差しと、抑えて潰れた声での誘いだ。よく知らぬ間柄であってもおそろしいが、カイトとがくぽとは夫婦だ。

夫婦で、妻が夫にこういう態度を向けているのだ。

まさか嗤えるわけもなく、だからと咄嗟になだめる言葉も浮かばなかったのだろう。がくぽはぎこちなく、首を横に振るのが精いっぱいのようだった。

実際、憐れなのはがくぽだ――カイトもまた、わかっていた。

カイトは遠いと言う。遠いと言って、夫を詰る。

なにがという話だ。

いったいなにと、どれの距離をして、遠いと言っているのかと。

少なくとも――カイトとがくぽとの距離ではない、はずだ。

そのはずなのだ。二人がいるのは、そう広くもない庭に建てられた、こぢんまりとした四阿のなかであり、間には小卓が挟まれているが、だから『小』卓だ。王族や貴族の屋敷に見られるような、二、三十人が一度に座れるがごとき、長卓を挟んでいるわけではない。

ほんの二人がくつろぐのがせいぜいという四阿の大きさに相応しいもので、卓上にはくつろぐ二人のための茶器ひと揃いを置けば、もういっぱいだ。

手を伸ばせば相手にはすぐ届くし、わざわざ伸ばすまでもなく、うっかりすれば触れ合うこともあるだろう。

額を合わせることも簡単なら、ちょっと足を伸ばせば、相手の足を踏んだり、向う脛を蹴ることも可能だ。たとえばカイトの足が自由だとして、たとえばいつものように夫が少しばかり、言葉を過ぎ越したとして――

この距離をして『遠い』とは、どうあっても評さないはずなので、となるとカイトが訴えた『遠い』というのは、ではなにとなにの距離を言うのかという。

「そ、もそも、おまえはっ!」

「はっ!」

ぐすりと洟を啜り、盛大に恨みがましい目を向けてのカイトのお説教は、まだ終わっていなかった。否、始まったところだった。

――と悟ったがくぽが、さっと姿勢を正す。背に負う翼はふわりと羽根を立たせ、最大級の警戒を示した。

おそらくあれは、なにか都合が悪いとはっきりすれば、きっと羽ばたく。この場から逃げようとしてだ。騎士としてあるまじきも甚だしい。

未だ起こっていない、先の予測で決めつけて、カイトはさらに目を据わらせた。

そう、騎士としてあるまじきも甚だしいというのだ――今やがくぽは騎士である以前に、夫であるべきなのだが。

「おまえは、私の飢えが治まったと、満たされたと見るや、態度を翻して」

「えいえ、かいっ」

こぼされるのは、繰り言だ。それもがくぽからすれば、ずいぶん的の外れた、誤解の多い。

慌てたように腰を浮かせたがくぽだが、すぐにまた、椅子に落ちた。なぜといって、カイトの眼差しだ。

口にしているのは埒もない繰り言だというのに、眼光の鋭さ、かけられる圧たるや、イクサの前線に立って指揮を執る王太子のそれ、そのものだった。

血気に逸って御し難いはずの一兵卒まで、残らず規律に従わせる、あの真なる支配者の。

がくぽはまさに、激怒する指揮官から叱責を受ける新兵の様相だった。

だからなにをそうまで、カイト相手に怯えるのかと――

がくぽは新兵ではない。

否、確かに、カイトのもとで叙勲されてからの年数は少ないが、それでも新兵ということはない。人智を超えるという意味で『魔』の冠を与えられた南王を斃しまでした、英雄と言っても差し支えのない勲功を誇る騎士だ。

この怯えようはない。この怯えようは――

「夜は、まだいい。夜はまだ、私に触れもする。会話は変わらず不自由もあるが、補って余りあるものを、おまえは私に与える。けれど昼だ。今だ」

「っ」

糾弾に、がくぽはあからさまに表情を引きつらせた。自覚があるのだ。意識的に、意図的に――

がくぽは、否、昼の青年は、カイトから距離を取っている。

カイトががくぽに娶られて、二月が経った。

諸々の事情が重なった結果、娶られた当初のカイトはほとんど、瀕死というほどに衰弱した状態だったという。

しかしそれも夫が手を尽くした結果、二月も経った今ではすっかり、快復した。

快復して、問題はそのあとだ。

夜の夫は年頃の不器用さゆえに、未だ馴れない様子でカイトに接する。けれど、距離を感じることはない。壁や溝、そういった、目に見えないがために厄介ななにかを間に感じることは、ほとんどなくなった。

対して、昼の夫だ。

難しい年頃をすでに過ぎ越し、器用になんでもこなすがために、いっそ万能感を醸している青年だ。

育ちきった少年ののちの姿として、頭の両脇、耳の上あたりに捻じれ曲がった巻き角を持ち、背には闇すら明るく見えるほど昏い射干黒の巨大な翼を負う、異形の美丈夫――

たまさかなにかのきっかけで盛ることはあれ、そうでもなければ昼の夫はほとんど、カイトに触れない。

触れなくなった。

朝の起き抜けに体調を見るため、ほんのわずかに触れていく程度、ないしは移動で持ち運ぶため、抱き上げるときだけが、触れる例外とすら言える。

否、触れないだけならまだしも、顔を背けもする。目を合わせられることが、ほとんどない。なにかに誤魔化しながら、すっと目を逸らす。カイトから顔を背け、あらぬ方を眺める。

カイトと、がくぽと――ほんの目の前にいるはずなのに、隔てるものが深く分厚く立ちはだかって、遠い。

そう、『遠い』のだ。

目の前にいながら、目に見えない分厚い溝だか壁だかに隔てられ、相手がひどく遠い。いっそ寒気を覚えるほどだ。これほどの温暖な、熱帯の気候にありながらだ。

この状況で悪寒に背筋を震わせるなど、もはやカイトには病気であるとしか思えない。異常だ。

そして確かにカイトは、正常とは言い難かった。

なぜといってカイトは『花』だ。どう見えようともその感覚はもはやひとのものではない、『花』の。

「私に、なにか――言いたいことがあるなら、言え。黙って隠す性分では、ないだろう。私に不満や不足があると言うのなら」

「違いますっ!!」

今度、叫んだのはがくぽだった。ほとんど悲鳴だ。偏向と傾倒著しく忠誠を捧げる主からの、あまりな誤解ぶりに狂乱を来した。

だがほんとうにそうだろうかと、カイトは考える。

今、目の前にいるのは夜の少年ではない。昼の青年だ。カイトとの間に、分厚い隔壁を置く。

彼はほんとうに、カイトへ偏向と傾倒著しい忠誠を捧げる騎士だろうか。

恋ごころ昂じて手に入れた妻に、尽きせず愛慕を募らせる夫だろうか。

先にカイトがただひと言、『違う』と言っても伝わらなかったように、がくぽが叫ぶひと言もまた、カイトにすべてを伝えることはなかった。

「違います、違う、ちがう………っ」

がくぽは狂乱した様子で、ひたすらその言葉をくり返す。喘ぎながら、恐怖に怯え震えて、花色の瞳を大きく見張り、カイトを揺らぎ映して。

カイトはくすんと洟を啜り、そんながくぽをじっと眺めた。

芝居ではない。小手先の誤魔化しのなにかでは――

この狂乱は、本物だ。

ならば彼は、自分の騎士だろうか。

カイトに愛を捧げて飽きることもない、溺愛気質の夫だろうか。

カイトが三度ほど、くすんと洟を啜ったところで、がくぽはがっくりと肩を落とした。上げた手のひら、未だ見ただけでも鋭く硬いとわかる鉤爪の出た指で前髪をくしゃりと掴み、顔のほとんどを隠して、うつむく。

聞こえるほどのため息が、吐きこぼされた。

「違います。ただ、私は――危急性も失せた以上、あなたが私を厭うであろうと……あまり、眺めて心地よい思いをしないであろうと、ただ、そう」

「………………………は?」

がくぽの二言目は、少なくともカイトよりずっと、言葉数を費やしたものだった。抑制された、大人の振る舞いだ。ますますもってカイトを年下の、幼い扱いしたときに文句が言い難くなる。

が、まるで理解が及ばず、ために、カイトが返した言葉といえば、先のがくぽと同じだった。瞳をきょとりと瞬かせる、そのしぐさもだ。

これが夫婦は似てくるというものかと、妙なことが思考を過り、カイトは眉をひそめて首を横に振った。

前髪を掴んで顔を覆った指の隙間から、そんなカイトの様子を見たのだろう。がくぽのくちびるから乾いた、弱々しい笑いがこぼされる。

「そもそもの、発端が発端です――私はあなたを、誠意を尽くしたとは言い難い状態で、妻とした。あなたの、『花』としての特性に付け入ったと、悪用したと謗られても、まるで言い訳はありませんね。だからと、それを理由に離縁を申しだされたところでいっさい、応じるつもりもありませんが」

告白に、カイトはますます眉をひそめた。がくぽが喘ぎ、言葉を切った間に、そっとくちびるを開く。

「折れる気がないなら、迷うな。一貫性を持て」

「ありがとうございます」

「………………」

しらりと答えられて、カイトは思わず、眉間を押さえた。頭痛が兆したような気がしたのだ。

そしてそうやってしらりと答えながらも、がくぽは相変わらず、手のなかに自分を隠したままだ。これこそ、誠意に欠けるというものではないのか。

ぶすっと膨れた表情で先を待つカイトに、がくぽはわずかに顔を上げた。手の隙間から、嗤っているのが見える。自虐の、自嘲のそれだ。あまりよろしいと言えない類の。

「夜ね。夜…――『夜』は、ね。まだ、いいのですよ。未だ成長前です。成長途上の身で、いずれ『こう』なるでしょうが、それでも今はまだ、『ひと』だ。『ひとにしか見えない』」

「……?」

続いたがくぽの話の先こそ見えなくなり、カイトはわずかに首を傾げた。

不審な気配を感じているのか、感じられないほど追いこまれているのか、どちらにしてもがくぽが構うことはない。ただ、冷えきった声で淡々と、告げる。

「昼は、『私』はね、違うでしょう。違う。もはや、どうあっても、ひとではない。ひとの地たる西方出身のあなたには、馴染みのない形でしょう。否、物語のなかでなら、馴染みがありますか。教義や、昔語りのなかでなら、見たことや聞いたことがあるでしょう。あるはずだ。捻じれ曲がった巻き角に、黒い翼、鉤爪――私はよく知っていますよ。南方の出ですけれどね。西方、哥の国にいた時分に、覚えました。これはね、悪鬼の形、そのものだ」

「……っ」

ひと息にそこまで言われ、――与えられた結論に、カイトは瞳を見張った。ぴたりと、動きを止める。

おそらくこれはあまり、いい反応ではない。

わかっていたが堪えようもなく、取り繕いようもなかった。

強張ったカイトの姿に、がくぽは笑う。嗤う。今、動揺から爪が鉤型へと変形したように、そのくちびるから牙すら覗きそうな、獰猛なそれだった。

嗤って、がくぽは顔から手を離した。牙はない。だが、表情は凶悪だ。険悪を通り越して、凶悪だ。以前、少年が翳りを宿していたときのそれなど、まだやさしい。

きっと嗤っていると思うのだが、はっきりとわからないほど、闇に染まって昏い。

「そうでしょうあなたの夫は、哥にあって考えもなかった同性であり――挙句、悪鬼なのですよ。だからと厭われ、たとえ枯れられようとも、………もはやあなたから手を離す気は、まるでありませんが」

どちらかといえば自分に言い聞かせるようにくり返し、がくぽは嗤いを消した。呆然と固まるカイトを、きつい眼差しで見返す。

「だからと、あなたから嫌悪に歪んで見られる、――その表情を、眼差しを、常につぶさに見ていたいとまで、見られるとまでは、思いきってもいません。それだけの、ええ、まさに、優柔不断な話です。思いきりの悪いね。軟弱で柔弱な、恥を知らない話だ」

「ぁ………」

言い捨てて、がくぽは黙る。カイトは呆然覚めやらぬまま、ほとんど無意識で自分の顔を撫でた。

外交にしろ内政にしろ、カイトは王太子として、繊細な問題に携わることも多かった。感情の制御もそうだが、表情の制御もまた、幼いころからこれでもかと、仕込まれたものだ。

常人の如く、逐一に鏡を確かめずとも、カイトは自分が今、どういった表情を浮かべているか、ほとんどわかる。

わかるが、それは王太子時代のことだ。今はがくぽという、自分でもいろいろ言っていたが、この男の『妻』であり――

夜はいい。

夜の少年の前ではまだ、カイトは自分を保つことが容易だ。相手はかなり年若の見た形であるし、振る舞いもそうだ。自らを年長と意識し、規範とならねばと姿勢を正すことに、意識もいらない。

けれど昼はだめだ。昼の青年の前だと、感情の制御が難しい。

自分をうまく保ててもいないし、制御できてもいない、自覚がはっきりと、ある。

挙句、この青年はやたらと年上ぶって、すぐにカイトを年下扱いし、幼い子供にでも対しているかのように振る舞う。偏向と傾倒著しい騎士であることも一因だが、概ねは青年の趣味であると、カイトはもはや見切っていた。

いったい自分をいくつだと思っているのか、いくつに見えているのかと、胸座を掴んで問い質したい気分になること、数知れず――

そうやって憤懣を募らせながらも、自分がさほどにその扱いを嫌がっていないことを、カイトは知っている。

夜の少年がやったなら、おそらく全力を懸けても阻止することだろうが――昼の青年にそう扱われ、ならばと甘ったれることは、嫌いではない。

否、まったく言いたくはない。認めたくもないが、――きっと、おそらく、好きだ。

そんなことを認めるなど、ひと月ばかりも寝こみたいほどの敗北感だ。が、おそらく早晩に諦めざるを得ないだろうという気はしている。

そういった状況で――

感情の制御もうまく利かず、おろそかになりがちな、青年の前で――

表情の制御だけが、これまで通りにうまくできていたはずがない。

表情だとて、崩壊著しかったはずだ。

「………つまり、私はそういった顔で、――おまえを見ていた、のか?」

愕然と訊いたカイトに、がくぽは険悪な瞳をさらに尖らせた。

「知りませんよ。だから、そうであったら嫌だから、見ないようにしていたと言っているでしょう。そんなものをひと目でも見てご覧なさい。正気を保てる気がしないどころか、なにをやらかすことか、自分でも自分がおそろしくて、想像もしたくない」

つけつけとした口調で、非常に情けないことを堂々、言い放つ。

偏向と傾倒だ。偏向と傾倒だ――いい加減、優秀な騎士であるだけに、残念さが底なしだ。

ただ、おかげでカイトは多少、持ち直した。

ならば、なにもどうこうなっていない以上、カイトがそういった表情や感情をがくぽに向けたことはないということだからだ。そう、自信を持っていいということだ。

否、カイトの自覚するところ、おそらく『初めて』のときには多少、怯えた。驚きが大きかったが、まるで恐怖しなかったと言えば、それこそ誠意がない。

けれど以降、類似のものをがくぽに、夫にぶつけたことはない。

そしてそれであるなら、自分の認識ともずれていない。ますますもって、自分に自信を失わなくていいということだ。

――そうやってカイトのほうは持ち直したのだが、がくぽのほうは、そうはいかなかった。苛立って、吐きだす。カイトから目を逸らして。

「誰がこんな醜悪な、異形の悪鬼に触れられたいと思うものですか。たとえ私たちが恋情によって結ばれた番だとしてもです、この姿を見た瞬間に百年の恋も醒めて、片割れは逃げだすことでしょうよ。こんな、醜い、醜悪にもほどがある、人外の異形など、っ!」

がくぽの繰り言は、響いた鈍い音によって遮られた。

はっとして向けられた顔を、カイトはきつく睨み据える。

再び石造りの小卓を力いっぱいに叩いた両の拳から、全身までが震えている。先とは違う。羞恥ではなく、怒りからだ。

震えるのみならず、肌という肌を過ぎる怒りに赤く染め、カイトは怒声を発した。

「愚弄するなっっ!!」