B.Y.L.M.

ACT5-scene9

手を伸ばされる。

カイトがはっきりと覚えているのは、そこまでだ。

手が伸びてくる。

手が、夫ではないものの手が、がくぽ以外のものの手が、足に、足に!!

――覚えているのは、そこまでだ。

憎悪の激痛とともに神経が灼き切れ、カイトはそこで意識を失った。

とはいえ『気を失った』わけではない。消えたのは正気とか、理性とか言われるものだ。

以降、記憶は定かではない。『記憶する』とは、正気か理性かが判断して選択し、やるものだからだ。

霞がかった紗幕越しの景色として、起こることは見ていた。南王がなにごとかを言い、カイトを庇って立つがくぽが応える。あるいはがくぽが言い、南王が応える。

見てはいた。

聞いてもいたと思う。

けれど、起こったこと、言っていたこと、その理解ができない。判断もできない。

次にカイトが覚えているものといえば、南王が去ってのちだ。

正面からカイトを貫いた夫が覗きこんでくる、その容貌――

そのときにはずいぶん、紗幕も薄らいでいた。おかげでろくでもない記憶だ。

――ああ、ほんとうだ。おいしそうに食べていらっしゃる。なんとおかわいらしいお顔で、私を貪るのか。

喘ぎ悶えるカイトを仰向けに、正面から自身の雄で貫いて、がくぽは微笑んで言った。

ひと目で正気を失うに十分な、至福に溢れた笑みだった。いったいどうしたらここまでのしあわせを、表情として出せるものかという。

そうでなくとも過ぎ越した美貌だというのに、至福に満ちて笑い、カイトを愛で慈しむのだ。滴るどころか滝のように降り注ぐ色香で、窒息するかと危惧するほどだった。

カイトは思い出すだけで、小娘にも嗤われるほど胸が高鳴り、落ち着かない。

珍しくも、ほんとうにひどく珍しくも、今日の夫はカイトに正面から対した。

いつもはどこかでうつぶせにし、背面から挑んでくるのだが、場所が場所だったからだろうか。がくぽはカイトと正面から対したままで、がくぽからもカイトの表情がよく見えただろうが、カイトも最中の夫の様子をつぶさに見られた。

紗幕越しで――たとえ薄けてきていたとはいえ――、よかったと思う。

同時に、悔しくてならない。

まともに見たらどうなることかわからないから見たくないが、しかしきちんと見たかった。

そうでなくとも異形であることでどうにか救いを得ている美貌ぶりだというのに、雄としての色を最大限に香らせたならもはや、壊滅的だ。破滅だ。

カイトは確実に自分が廃人となる自信があった。もはや夜も昼もなく夫を求め続け、離しもしない――

それほどの美貌ぶりであり、色香だ。どうなるかわからずおそろしいから見たくないとは思うが、同時に、きちんと見られなかったことが悔しくてならないという。

それで、とにかく、カイトの意識だ。

結局、昼の間は戻りきらなかった――が、これは最終的に、昼の夫に責任がある。

なぜといってその後、がくぽはカイトを快楽漬けにし、蕩かし続けたからだ。

あまりに過ぎ越して与えられた快楽に、カイトは今度はほんとうに意識を失った。

正気が理性がということでなく、正しい意味で『気を失った』のだ。いくらどうでも、そこまでやるのはどうなのか。

とはいえこれは、正気の戻りきらないカイトが無自覚に煽った結果という可能性も、非常に高い。がくぽはカイトが――『花』が求めれば逆らえず、盛らずにはおれない体だからだ。

面倒なことにこの可能性も、認めてしまうとカイトの正気が耐えられない。今度は羞恥のあまりということだが――

とにかく、ようやくほんとうにカイトが正気を取り戻し、意識が醒めたのは、だから、夕方も超えて夜の領分に入ってからだった。

ふと目を開いて、まず映ったのが天蓋だ。ほんのわずか、影が揺れていて、室内の明るさは日差しによるものではなく、照明によるものだとわかった。

たとえがくぽが術で起こす光とはいえ、ろうそくを模したそれは律儀に同じ仕様で、点いている間ゆらゆらと、炎独特の揺らめきを見せるからだ。

それで、そう、――だから、照明が要りようとなるような時間帯で、そして体に触れるのは寝台の、寝具の感触だ。

しかしカイトの記憶が途切れた場所が、場所だった。

いったいどうして一瞬で夜となり、いつ、どうやって自分は寝台に転がったものか、カイトは大いに混乱した。

混乱し、懸命に記憶を漁って、――

「………………がくぽ?」

「ここに」

思わずといった感で上げた声に、即座に応えが返った。

はっとして声の方に顔を向けたカイトだが、がくぽもまた、様子を確かめようとしてか身を乗りだしていて、そうそう探す必要もなかった。

夜だ。夕方を超え、どの程度更けたものかは不明だが、夜ではある。

寝台の脇に立ち、覗きこんできたのは幼い容貌の、少年の夫だった。相変わらず、表情に乏しい。それは昼の夫と比べてということだが。

難しい年頃ということもあるし、少年の矜持もある。

『年上』の恋女房に子供扱いされたくないというところから、懸命に背伸びをして、大人びて見せようとして、ますます表情は失われる。

迂闊な意見を言えば子供の考えだと侮られることをおそれ、必要な説明の言葉までをも諸共に呑みこむ。

不器用な、それこそなによりも、少年が少年である証だ。なによりもカイトが愛おしむ――

「……がくぽ」

「はい」

気遣われているのだろう。慰撫するように前髪が掻き上げられる感触に、混乱し、しかめられていたカイトの顔が、ほっと安堵に緩んだ。

その表情を確かめたがくぽの表情もまた、つられたようにやわらかさを宿す。

「お加減は」

「いや…」

訊かれて、意味もない言葉を返しながら、カイトはとりあえず体を起こした。

相変わらず、足が重い。体を起こすだけのことにも足が連動してくれないので、姿勢がつらい。腕の力で引きずり上げるようにして、ようやく上半身が起こせる。

こうなってから何度も、日常の端々で思い知らされた。歩く走るといったことのみならず、使っている意識もなくあれこれと使っていたのだと。

おぼろげな記憶では、昼間、この足は身軽に浮き、がくぽの――昼の、青年の夫だ――腰に絡まっていた。

記憶があまりにおぼろげであることと、今のこの、足の重さ具合とを勘案するに、もしかしたらあれは夢だったのかもしれないと思う。その程度には重いし、自由にもならない。

もちろん夢ではないし、そもそも萎えて動かなくなったわけではない。

条件を満たせば動くだろうという推定はあり、そしてきっとあのとき、条件は満たされていたのだ。

少なくともこれまででカイトが推定していた条件と、当時の状況は――非常に認めるに苦心するので、やはり目を背け気味とはなるのだが――合致する。

つまり意味を『根』に変えたカイトの足、ひとの見た形まま植生と化す『花』の足が動く条件とは、非常に本能的であり、かつ現金だという話なのだが。

とにもかくにも、今は『条件』が整っていない。

苦労して寝台に身を起こしたカイトに、がくぽは座りやすいよう、甲斐甲斐しく枕を当て、布団の位置を直しとしてくれた。

そうしてから自らも寝台へ上がり、カイトの傍らに、寄り添うように腰を落とす。

「え?」

カイトのくちびるから、思わずといった小さな驚声が漏れた。咄嗟に表情も取り繕えず、虚を突かれたというのをありありと表してしまう。

幸いと言うなら、がくぽが見ていなかったということだ。おそらく声も届いていないだろう。

促されるまでもなく自ら寄り添いはしたが、がくぽはどこか気まずそうで、顔をうつむけ、身を強張らせていたからだ。

これまではどれほど促してもがくぽが――夜の少年が、カイトの隣に易々と腰を下ろすようなことはなかった。

寝台であれば、まるで従僕であるかのように脇の床に跪いて譲らなかったのが、夜の夫だ。

がくぽは騎士として節度を持った距離を、主たるカイトとの間に設けている。昼はずいぶん気安いが、夜と比較すればの程度だ。

夜も昼もどのみち、夫婦の距離とは言いきれない。

だから、カイトは妻だし、主でもない。そしてがくぽは夫であって、騎士ではないのだ。

それでも未だ、がくぽはカイトを主として立て、そう振る舞う自分に疑問がない。

それが――

「……………」

がくぽがうつむいており、反応を見られていないというのをいいことに、カイトはぱちぱちと瞬きをくり返した。不思議で、戸惑いがあり、――

すべての不可解を、安堵が凌駕して、潰していく。

カイトがためらったのは、わずかな間だ。体がごく自然と傾き、傍らに座った幼い夫に触れた。

「っ……」

がくぽはびくりと跳ねたものの、拒む様子はない。顔はこちらに向かないが、腕を寄越してくれようとする気配がある。

どうしてか問われると答えに窮するが、カイトは深く考えもせず、寄越される腕に腕を絡め、がくぽの肩に頭を凭せ掛けた。

息が戻る。

――たとえて言うなら、そうだ。胸に満ちていくのは安堵であり充足であり、地上にあるありとあらゆる言葉を尽くしても足らないほどの、そういった感情であり、実感だった。

安堵が過ぎ越して、カイトは隠しもせずにほうっと息を吐き、瞼を落とした。

頭を凭せ掛けた夫の肩の具合は、あまりよろしいとは言えない。よく鍛えられて固いし、なにより緊張が過ぎて震えている。

だからと、離れる気はまるで起きない。がくぽは強張ってもいるし、震えてもいるが、嫌悪や拒絶といった負の情感によってのそれとは思えないからだ。

敬愛する主からの、甘い接触に緊張しているのがひとつであり、あとは罪悪感と――

「……?」

いったいどうして、なにに罪悪感を抱くというのか。

カイトは安堵に緩みきり、そのまま落ちかけていた意識をなんとか起こした。ゆるりと瞼を開き、まずは絡めた腕を見る。

やわらかなのは、カイトの腕だ。なんとなし、蔓か蔦かが巻きつくにも似ている。

巻きつく先のがくぽの腕は強張っているが、これでカイトが腕を退こうとすれば、きっと即座に引き留められることだろう。複雑な胸中そのものだ。

そうだ、複雑だ――だからいったい、なにに?

「……がくぽ?」

「っ!」

脅さないようにと極力気を配ってかけた声だが、あえなくがくぽは全身を震わせた。

カイトがわずかに首を上げてその顔を見れば、ひどく赤い。理由はおそらく、興奮だ。羞恥も混ざっているだろうか。

見つめるカイトを見返すことはなく、がくぽはうつむき、くちびるを戦慄かせる。緊張と興奮とで、息が荒い。

理由は不明だが、なだめるためには腕を絡めるのではなく、抱きしめてやるべきだろうかと、カイトは思案した。

そうすると扱いがあからさまに子供であり、決して夫婦のものとは言えなくなるので、きっと少年には非常に不評だということもわかるのだが――

「ぁ、……っや、ないとと、おも、……ってっ!」

「ん?」

しかし間一髪、募る庇護欲に勝つ気が起きず、カイトが夫の扱いを子供へのそれに切り替えようと腕を引きかけたところで、言葉は吐きだされた。

がくぽは引きかけたカイトの腕、手を、予測していた通りにきつく掴んで引き留め、――

とはいえがくぽが陥っている緊張は、並みのものではなかった。これまでに見たことがないほどだと言っても、過言ではない。

ようやくで吐きだされた言葉もあまりに閊え過ぎ、なにを言ったものだかの推測すら困難な域に陥っていた。

可哀想だとは思え、聞き取れなかったものは仕方がない。

少年の様子から勘案しても、適当にはいはいと相槌を打って流すのは、止めたほうがいいだろう。

ほんのひと瞬き程度の間に考えをまとめ、カイトは一度は引きかけた体をがくぽへ戻した。きつく握られ、そうでなくとも離れようがない腕だが、きちんと自らの意思として、絡み直してやる。

そのうえで、慎重にくちびるを開いた。

「がくぽっ、…」

口調には幾重にも気を配りつつ、どうしたと訊き返したカイトの手を、がくぽはさらに力をこめ、握りしめた。

少年ではあれ、騎士の力だ。相応に痛い。

骨が軋んだ感すら覚えたカイトだが、眉をひそめたのは一瞬だ。

すぐに表情を取り繕うと、縋られる手に、自らの空いている手も重ねた。こちらはやわらかく、被せる程度にがくぽの手に触れる。

慰めるように撫でてやると、がくぽは咽喉に絡ませながら、大きく息を吸った。

吸って、吐いて、吸う。

吐いた。

「カイトさま、に、っ……ぁや、ぁ、……ぁやまらな、いと、と、おもってっ、っ!」

「…………………ぇ?」

今度は聞き取れた。理解も容易い。そう難解な話でもなかった。

が、意想外にも意想外が過ぎて咄嗟に理解が及ばず、カイトはただ、瞳を瞬かせた。

単に、謝りたいというだけの話だ。がくぽから、カイトへ。

謝るという。

がくぽが、カイトへ。

がくぽ自ら思い立って、カイトへ――

謝っても赦されたことがないから謝らない、どうしてもというときには謝罪を求める相手を喰いきることで凌いできたと言うのが、がくぽだ。カイトの夫だ。ほとほと手を焼く性質だ。否、手を焼いている最中だ。

それが、いったいなにを思ったか、自ら謝ると言いだした。

がくぽの様子から見るに、こころ無い、その場しのぎのというものではないし、相手を虚仮にするための、うわべのものでもないだろう。

真実こころの底から反省した結果、がくぽは今、カイトに謝罪しようとしている。

確かに昼の青年と比べれば、夜の少年のほうがまだ、謝罪に馴れてきていた。

否、昼の青年はあの敏さと器用さで、謝罪を求められそうな気配を感じるや即座に逃げを打って、そもそも場をつくらせない。ために、馴れる馴れない以前の問題で留まっているのだが。

だとしてもだ。

年頃の不器用さから逃げられず、これまで何度も、カイト相手に謝罪の練習を重ねさせられてきた夜の少年とはいえ、未だ自ら思い立って謝罪をできるまでの域には達していなかった。

少なくともカイトはそう、判断していた。

それが、自ら――

「………っ」

いろいろな思いが去来し、交錯し、軽く混乱したカイトは言葉も継げず、ただがくぽを見ていた。

自分が年長者として、これまで『しつけ』を担ってきた身として、がくぽが先を続けやすいよう、なにかしら促しの文句を吐いてやるべきだというのは、わかっていた。

わかっていたが、声が出ない。迂闊になにか言えば、少年の決意を無為にしてしまうのではという、おそれが強かった。

それでただ見つめるだけのカイトに、先を静かに待ってくれている妻に、がくぽは懸命に呼吸を整え、自らの意志だけでもって、口を開き、言葉を続けた

「お、れの…おれが、歪んだ心根であったがために、気づく…のが、おく、れ……、くるしい、おもいを、させまし、た。つらい……おもい、を――」

そこまで言って少年は、自分こそまさに苦しくつらいのを堪えるように、くっと歯を食いしばった。食いしばって、強張る全身を震わせ、治まることもなく荒い息を懸命に継ぐ。

顔は赤く、肌も汗ばんでいる。息の荒いのも相当だ。そろそろ倒れるのではないかと危惧し、カイトは眉をひそめた。

しかし、たとえ言いきれずに倒れるのだとしても、案じたカイトが止めて言いきれないのと、自分の気力の問題で言いきれないのでは、あとあとに引くものが違う。

止めたいのはやまやまだが堪え、カイトはがくぽへ寄り添う身に、ともに力を入れた。絡む腕にきつく抱きつき、言葉ではなく、少年の背を押す。

がくぽといえばますますもって繋いだ指に力を入れ、ようやくカイトへ顔を向けた。翳ることは多かれ、揺らぐことの少ない花色の瞳が、揺らいでいる。必死だ。

そして、とうとう、言う。

「あ、あなた――が……、カイトさま、が、おれに、根づいて、いたことに……根づいて、くださった、ことに、気づかなかった。ごめ、っご、ごめん、なさいっ!」