B.Y.L.M.

ACT6-scene1

カイトが少年の背に翼の萌芽と思われる瘤を見つけ、諸々あって翌朝だ。

青年へと変じたがくぽとカイトとの間では多少、悶着があった。否、悶着と言うと大仰か。じゃれ合いの範疇だろうか。

つまりカイトは朝も早くから、昼の夫の例のあの、爆発するような大笑を浴びる羽目に陥ったのだ。

朝、いつものように花の束を抱え、寝室に戻ってきたがくぽだ。

しかし挨拶もそこそこ、寝台に身を起こして待っていたカイトを見るやといったぐらいで、ひどい笑いの発作に罹った。おそらく整えたばかりであろう、角の間際に挿した花飾りすら無惨に乱れるほどの、全身を痙攣させての大笑だ。

原因はなにかといえば、昨夜のカイトの仕打ちだ。嫌がる少年の背を暴いた挙句に、思う存分、瘤をしゃぶり倒したという。

「いえ、助かりました。助かりましたよほんとうですともここのところはずいぶん、痛みが強かったですからね。そろそろ中身が出るかという頃合いではと思うんですが、いい加減、『私』からあなたに頼もうと思っていたところで……ええ、まさに機は絶妙でしたよ。こういうのを、なんと言いましたっけ。渡りに舟以心伝心ですかまあとにかく、仲の良い夫婦じみた、心温まる話ではありませんか!」

――概ねそういったようなことを、がくぽはあの、抑えるにも抑えがたい笑いの発作に紛らせながら、告げた。

なにがそれほど青年にとって愉快だったのかといえば、やはり『しゃぶり倒された』ということらしい。

そうやってひとの顔を見るなり吹きだすという、非常に失礼な態度を取った青年だが、それなりに急を要する件であったことは確かだという。

ことに際し、昼の夫のほうではカイトの手を借りなんと、機を窺っていたという。これは夜の少年の油断を待っていたということではなく、未だ皮膚の下にある翼の成長具合を測っていたということだが。

案の定というもので、夜の少年のほうとなると、ひとりきりで耐えるつもりだったらしい。

なぜといって昼の自分が過去、成長期に入って同じ痛みに見舞われたときには、ひとりきりで耐え凌ぎ、乗り越えたからだ。

これはある程度、笑いを治めたのちに青年が語ったことだが、いわゆる『成長痛』だとはいえ、肉を突き破って皮膚を裂き、骨が飛びだし伸びていくという翼は、痛みぶりが生半なものではないという。ほかの痛みなど、あっても忘れたほどだと。

過去の昼の青年にしても、今の夜の少年にしても、頻繁に力を使って痛みを散じさせる必要があり、おかげで二重三重に消耗させられる。

力が不足して散じきれなければ今度は、常用すれば体を壊しかねないほど強い薬に頼りと――

「要らぬ矜持というものです」

少年の依怙地を、青年はそう、あっさり切って捨てた。

「『私』のときは、そうするほかなかったから、そうしたというだけのこと――今はあなたがいて、なにより私が守らねばならぬのは自身の矜持ではなく、あなただ。となれば、ひとときの恥など忍び、あなたの力に頼るのが最善、至極当然の結論というものでしょう」

夜の自らの行いをそう腐した青年だが、カイトは応とも否とも答えなかった。

もちろん、そうであってほしいという願いは、カイトにも強い。ひとりではなく夫婦で生きるというなら、妻とした自分をもう少し、頼ってくれと。

だから青年の言うことに、基本的には賛同する。

しかしそう割りきれるのは、いわば昼の夫やカイトが『大人』であり、気難しい年頃を終わらせているからだ。

昼の青年も夜の少年も同一人物であれば、当然、この思考は共有されている。

共有されていても少年の行動に結びつかないのは、それこそが少年が気難しい年頃のただなかにあるという、なによりの証左だ。

わかりきった、自明の理であっても、身動きが取れなくなる――

なによりもこれをして、『気難しい』と評するのだから。

それで少々、話を戻すが、青年だ。

もとよりカイトに助力を乞う意図であったとは言うが、彼の想定は『口づけ』に止まっていた。

夜になり、少年が現れたなら、とにかくなんとかしてカイトに説得してもらい、背を晒させる。カイトはその晒された背に、軽くくちびるを落としでもしてくれればと。

もちろん、くちびる同士を触れ合わせたそれで力を得ても、効くことは効く。直前の話し合いの最中、カイトがなんの気なしにやらかしたものも相応に効いたと、夜の少年も言っていた。

が、もっとも効率を上げるなら、やはり患部そのもの、あるいはその間近が望ましい。

だから――

「それが、ねまさかああも、こってりねっとりと、ええ、いっそ皮下の翼も融けるのではないかと思うほどでしたよ。ええ、ええもちろん、二重の意味で、です。下半身は完全に蕩けましたね。そうでしょう?」

「ぅっくぅう……っ!」

なんということの同意を求めてくるのかと、カイトはくちびるを噛んで呻いた。

そうやって下半身を『蕩けさせた』挙句といえば、興奮しきった少年が伸し掛かって以降の話だろう。

下卑て、赤裸々にも過ぎる話だ。諫めたいが極まる羞恥に言葉が浮かばず、カイトはひたすら赤くなって呻くしかない。

これはカイトに分の悪い話題だった。

なぜといって王太子たるカイトに対し、こういった下卑た話題を振ってくるような盲勇の輩は、これまでついぞなかったからだ。

同性の友人がいたにしてもやはり、ある程度の節度が常に守られていたと思う。

つまり不慣れなのだ。カイトにとって、初めての経験と言ってもいいかもしれない。

ために、どう対応したらいいものかが、カイトには咄嗟にわからなかった。

神経質に止めろと諫めるようなことはなにか、うぶな娘のやりようである気もする。それは嫁いでからというもの、カイトをたびたび悩ます夫に対する自らの反応でもあり、言うなら劣等感を刺激するものだった。

無為であり無意味であるとわかってはいても、強いそれに苛まれてしまい、身動きが取れなくなる。

いったいどうして朝も早くからこんな目にと、恨みがましく思ったカイトだったが、言ってみれば青年はそれほど上機嫌だったのだ。

昨日に『誤解』が解けていたということもあるだろうが、夜になって負う痛みは、相応に昼にも影響を及ぼしていたのだろう。

それは逆も考えられるということではあるが、とにかくだ。

「ええまあ、しかし――ほんとうに、助かりました。ほんとうです。ありがとうございます」

「……ふん」

ようやく笑いを治められたがくぽは、目尻に浮かんだ涙を拭いながら礼を述べた。

治めたとはいえ、表情は明るく、区分けるなら笑みだ。やはり上機嫌だ。

対してカイトといえば、拗ねきっていた。目元から頬からうなじから、全身の肌という肌を羞恥に染め上げ、がくぽとはまったく違う理由で瞳を潤ませて、くちびるをきつく、引き結ぶ。

そんなことは子供の、それこそ幼い所作だとは思うが、堪えられない。

まったく堪えたい気にならない、それほどの、がくぽの大笑だった。

とはいえ対する相手はだから、がくぽだ。昼の、青年の夫だ。

カイトが普段、大人らしい振る舞いをしていてすら、平然と幼い扱いしてくるような手合いだ。

今さらカイトの振る舞いが稚気じみたところで、もしかしたら思うつぼというだけなのかもしれない。

やはりというもので、拗ねきったカイトの様子にもまるで悪びれるふうもなく、がくぽは話を続けた。寝台で身を縮こまらせるカイトへ、腰を曲げて顔を寄せ、にっこり笑う。

「それで、今晩もしていただけるんでしょう今宵はとりあえずと、昨晩におっしゃっておられましたものね翼が出て、痛みが治まるまでは、毎晩、面倒を見ていただけるのですよね?」

「……っ」

カイトはすっかり拗ねていたし、むくれていた。いっそ布団に篭もり直したうえで、もうしてやらないと言ってやろうかという気がもたげたが、辛うじて、耐えた。

そこまでやるのはさすがに、後を引いて挫けるほど、振る舞いが幼過ぎる。

――そういうふうに、咄嗟に応とは答えられなかったものの、否やも突きつけられなかった。

敏い青年にとってはそれで十分で、がくぽはやわらかに目を細め、カイトを見た。それこそ、幼い子を愛でる目つきだ。

言っておくが、妻だ。子ではない。おとうとですらない。妻だ。

やたらに念を押したい気分が突き上げ、募って堪え難く、カイトはますます偏屈そうな表情で、くちびるを噛みしめることとなった。

カイトの態度がそこまでとなると、ようやくがくぽも多少の悪びれた様子を見せた。軽く肩を竦め、ため息とともに慨嘆を吐きだす。

「我がことながら、ままならず――あなたのお手を煩わせるとわかっていながら、如何に誓おうとも無為というのが、なんとも切ないものですが……きっと、『夜』の抵抗は激しいでしょう。もう明らかとされたのだから、往生際が悪いという話ですがね。毎夜など必要ないとか、今宵は耐えられるだとか、――ああ、なるほどむしろこちらなら、間違いなく誓えますね?」

「がくぽ…」

カイトの不機嫌の責任を微妙にずらしたうえに、誓おうとする内容だ。

先とは別の意味で顔をしかめたカイトへ、がくぽはこれに関しては反省した様子もなく、笑った。同時に背でばさりと、視線を呼ぶように翼が羽ばたく。

朝のもっとも明るい光のなかですら黒々と昏く、闇すら明るい射干黒の、巨大で隆とした翼だ。

どこに出してもこれは美事だと、誇れる――少なくともカイトはという話だが。

しかし今、カイトは翼の美事さにそうそう、見惚れることもなかった。続くがくぽの言葉だ。

「が、なに、抵抗が激しいと言っても、所詮は『夜』です。あなたがいつも通りの、あの調子で命じてくだされば、それで挫けないほどでは」

「待て、がくぽ。私の『いつものあの調子』とは、どういう調子のことを言っている」

なにを指して言われているのかも理解できないが、それと同等か、より以上に、微妙な危機感がある。

目を据わらせて訊いたカイトだが、がくぽはこれに関してはきれいに聞き流した。あっさりと話を進めていく。

「どのみち、見せるも地獄で見せぬも地獄となれば…」

「だから待て、がくぽどちらだ?!」

「いえ、………え『待て』って、『どっち』って、――まさか本気で訊くんですかね、この方は?」

不機嫌を極めたというより、慌てた様子で問い返したカイトに、がくぽは心底から驚いたというふうだった。瞳を瞬かせ、口をもごつかせるのみならず、屈めていた身が仰け反りまでする。

そう言われても、カイトにはまるで意味がわからない。

本気で訊くかと問うなら、その通りだ。本気で訊いている。そうとしか答えようがない。

そもそもカイトがしてやりたいのは少年を、夫を、がくぽを楽にすることだ。地獄など、決して与えたくない。そうでなくとも毎日必ず二度、日の出と日の入りに地獄を味わっている夫だ。

彼をこれ以上いたぶることに、カイトは価値を見出せない。

だというのに――

「育ちきるまで継続して、毎日やれということかそれとも、あれだけの時間では不足で、一晩中やれとだが、それでおまえの……」

「いえ、あの、カイト様ほとんど感動的な献身だとは思いますが、ええ、本気なんですね本気なんですね……まさか」

「がくぽ?」

どういうことかと焦れるカイトへ、がくぽは一度、天を仰いだ。長くはない。

ほんの一瞬程度で戻ると、がくぽは再び腰を屈めた。間近となった真顔が、きっぱりと言いきる。

「先にも言ったではありませんか。いいように下半身まで煽られると」

「…っ!」

昨夜に経験したばかりだろうと含められ、カイトははっと、身を固めた。

やらかした、そうだった。まさに直前に、『地獄』を味わったばかりだったというのに――

そんなカイトにも、がくぽが容赦することはなかった。呆れた様子で続ける。

「最近となっても私が背を舐めてやると、あなたは馴れることなく、相応に啼いて悶えられるでしょうに――私だとて、同様ですよあなたの意図がどうであれ、その愛おしいくちびるで食まれて慈しまれ、邪な気持ちを抱かずにおれるかと問われれば、まあ、そうですね。あなたに頂いた剣に懸けて誓いましょう。無理です」

「なっ、ちか…っ……っ!」

なんということを剣に誓うのかと、カイトは絶句した。先とは別の意味で泣きそうだ。それも、二重の意味でだ。

ひとつにはもちろん、夫の今の、無体にもほどがある誓いだ。

無体にもほどがあるし、そういう情けない誓いに剣を持ちだすような手合いを、まさか騎士に叙勲した覚えはない。騎士の訓戒を一から覚え直せと命じたいところだ。

だがもうひとつ、もっとも大きな理由は違う。

つまり、――つまり、自分はどこの、うぶな小娘なのかという、それだ。

言われてみれば当然ではあるが、それこそ誓って淫らがましい思いで触れるつもりはないが、やっていることを冷静に見れば、そうだ。

あれは愛撫とまるで変わらない。それもどちらかといえば、濃厚めな。

くり返すが、誓って――神でも剣でもなんでもいい――、誓って、淫らがましい、浅ましい振る舞いをするつもりは、カイトにはない。

ないが、そもそも相手は夜にしか現れない。そしておそらく、カイトは常に寝台にいる。

やましい気などない証に、椅子に座って行うなどということは、決してない。否、できない。

なぜなら夜の少年の体格では、寝台上のカイトの体を転がすことはできても、担いでほうぼう歩き回ることは、未だ困難だからだ。

自力での移動が難しく、夜の体での運搬が困難である以上、昼の青年は必ずカイトを寝台に置いてから消える。そして置かれたなら、よほどのことでもない限り、カイトがそこから自力で動くことはない。

夜の、寝台だ。

そして、夫婦だ。

くり返そう、なぜなら大事なことだ――主従ではない、夫婦だ。

そんな気はなかったと言ったところで、ここまで二月ばかりの、燦然たる実績というものがある。もしくは、惨憺たる積み重ねというものが。

急に振りきるには難しい期間、悪しき習癖だ。それこそ昨夜だ。やらかしたばかりだった。記憶が新し過ぎる。

――だとしてもだ。

「私の騎士なら、耐えろっ」

耳朶にうなじにと、見えるも見えないもすべての肌を赤く染め上げて詰ったカイトへ、がくぽは肩を竦めた。呼応するように、翼までもばさりとひとつ、羽ばたく。

「では、夫なら?」

「ふくぅ……っ!」

むしろ淡々と問い返され、カイトは言葉に詰まった。

この男ときたら、都合のいいときだけ夫面をしてと腹が立つが、これは少しばかり違う。

がくぽは常に、カイトの夫のつもりだ。問えば常にそう答えるだろうし、なぜそんなわかりきった問いをとばかり、あれこれ誤解を重ねた挙句、機嫌を損ねもする。

ただし『カイトの夫』というのはあくまでも、がくぽの意識の表層でしかないというだけのことだ。深層は未だ『カイトの騎士』であり、『カイトは主』という――

それで、どちらかといえば深層を投影する些細な態度や行動が、未だ頻繁に騎士へと傾きがちになるだけだ。

――ということをわかってはいるカイトだが、しかし腹が立つ。

なににもっとも腹が立つといって、一連を理解したうえで、この腹立ちは八つ当たりだとまで理解する自分自身にだ。

そこまで理解すると、腸は煮えくり返るのに、当たるに当たれない。ことに、カイトのように自分を律することに長けていると、なおさらだ。

追いつめられた風情でぷるぷると震えるカイトだが、口達者な昼の青年はまるで容赦してくれなかった。

「それに『まるで耐えない』とは、言っていませんよ。ええ、気持ちとしてはね誠意のありようと申しますか。あなたの意図も理解しておりますし、なにより私の面倒ですし。ええ、しかし、まあ――……………想像しただけで、もう、げっそりしますねえ……。だから申し上げたんじゃあ、ないですか。『地獄だ』と」

「っくぅう……っ」

これでもかと述べたてつつ、芝居がかったしぐさで悩ましさを訴えるがくぽに、カイトはひたすら呻いた。

自分の鈍さが招いたこととはいえ、こうまでやってくれる青年が少し、憎い。

そうでなくとも、過ぎ越して美麗な容貌だ。

これだけで威力は十分、十二分であるというのに、なんのハレの日かと思うような花飾りを髪に挿し、今日も今日とて華やかさと煌びやかさが度を越している。

いっそどこぞの舞台で踊ってこいと、カイトは言いたい。腹が立っている今は特に、言いたい。もうどこかで踊って発散してこいと。

そういう、なんの企みかと疑うほどに自分の威力を倍増させたうえでだ、こういうことをやるのだ。それもカイトが思うような意図など、いっさいまるでなく。

少しどころでなく、非常に憎たらしい気がしてきた。

「ふ…っ!」

「っ…!」

恨みがましさを増していくカイトの視線に、ふいにがくぽは吹きだした。身を震わせ、くつくつくつと咽喉の奥で笑いつつ、曲げていた腰を伸ばす。

「そう愛らしいお顔をされても……懲りる男はおりませんよますます図に乗ります」

「なにを…っ!」

戯けたことを言うなと叱りつけながら、カイトは絶望的な気分に陥っていた。

顔が熱い。

否、顔どころか全身が熱い。確かめるまでもなく、きっと肌という肌がすべて、赤く染まっていることだろう。

たかが夫から、たかがかわいいと言われた程度のことで、これだ。だから自分はいったい、どこのうぶな小娘なのか。

情けなさと極まる羞恥で潤んだ瞳を隠そうとうつむいたカイトだが、がくぽは構わず覗きこみ、額にくちびるを当てていった。

それだけでなく、手が伸び、身を硬くしているカイトをあっさり抱き上げる。

単に腕に抱くだけでなく、ことさらに上へ上へと掲げられ、もはやどううつむいても、恥じらう表情を隠すことなどできない。

「……がくぽ」

容赦を乞うようでもある、潤む瞳で見返すカイトから視線を逸らすことなく、がくぽは小さく首を振った。横だ。それは否定であり、非難だった。誰へといって、過去の自らへの――

「惜しいことです――この愛らしいご様子を、昨日まで私はほとんどすべて、逃していたのでしょうまったくもって自分の勇のないこと、赦すよすがも見えないとは、このことだ」