B.Y.L.M.

ACT6-scene9

少しばかりのお灸を据えてやった程度のつもりだったカイトだが、がくぽは思ったよりも堪えてしまった。

カイトとしては、欲しい説明が山ほどある。そうでなくとも一日の時間の限りが微妙である夫だし、復活するまでを悠長に待ってやれる気分でもない。

だから立ち直りを促すために、今度はほんの欠片ばかりの飴をやるつもりで、命じたのだ。主としての威厳をもって、つまり、そう。

『だっこ』と――

もはやカイトは、自分の語彙力にも発想にも、まるで信が置けなかった。不幸なことだ。

二十代にもなった青年が、それも王太子として育った自分が、まさかである。歩けるようになったばかりの幼子ででもあるかのように、頑是なく腕を伸ばし、夫に強請ったのだ。『だっこ』と。

もうこれからは、昼の夫がいくらカイトを幼い扱いしても文句を言う筋合いなどないし、否、そもそもは昼の夫があまりにも実年齢を無視してカイトを幼い扱いするから、こういうときにこういうことになってこういう――

足が動いたなら、カイトはこの場から走って逃げていただろう。それで、どこかに穴を掘って埋まったか、否、穴を掘るのは面倒なので、きっと寝台に潜りこんだか。

暑い時間帯であり、たとえ薄掛けとはいえ布団に篭もれば地獄だが、それくらいでちょうどいい。大量に掻く汗とともに、このどうしようもなく根づいた甘ったれ根性も、すべて絞り流して枯れてしまえばいいのだ。

が、もちろんカイトの足は動かない。

カイトの足は意味を『根』に変えており、そして『根』である以上、根づく先と定めた『大地』たるがくぽのそばにこそ、いたがる。

カイト本体がどう考えようとも、『足はがくぽを選ぶ』。

「ぅ、っくぅう……っ!」

「――ああ。そうでした」

ほとんど絶望的なまでの羞恥に潰されそうになっているカイトに対し、がくぽはむしろ、冷静だった。否、それで平静に戻った。

はたと夢から醒めたような顔となり、改めてといった様子で、そんなカイトを見る。

至極まじめにだ。からかう色もなく、ひたすら真剣だった。

間断を置かずがくぽの腰は浮き、同時に、うずくまりかけているカイトへと手が伸びた。

「失念しました。昨日の今日であるというのに、私の至らぬこと――さぞ、ご不安であったことでしょう、ただいま…」

「ぁ…え?」

言いながら、がくぽはカイトを抱き上げた。

まずは腕に抱え、空いた椅子に自分が腰かける。そうやって座ったがくぽの膝の上に、カイトはすとんと落とされた。

『だっこ』である。

まさか完成してしまった。

「えぁ、え?」

「少し――」

膝に乗せるだけではない。がくぽはくるむように、カイトを抱きこんだ。ぴたりと身を寄せながらも力のやわらかな抱き方は、慰撫する際のそれだ。

それでとどめとばかり、耳朶に、こめかみに、くちびるが触れる。これも慰撫のしぐさではあるが、今の場合、言葉としては発せないものの、あからさまな謝罪の態度だ。

ここに、思った以上に完璧な、完全なる『だっこ』が実現したのである。

「え、――」

混乱に拍車がかかり、カイトは言葉を失って呆然とした。

いっそからかわれたり、茶化されたりとしたほうがまだ、正気が早かったかもしれない。夫に負けてなるものかという反発心から、カイトは力づくで羞恥をねじ伏せ、克服したことだろう。

おそらくがくぽのこの、疑問のなさや思いやりは、昨日までにカイトが見せた不安定さに由来している。

カイトにとっては、がくぽが自覚し、『意識』が変わった今日となれば、小卓を挟んだ程度の距離を『とおい』と詰ったような不安定さは、すでに解消したものだ。

加えて昨夜のうちに、夜の夫が自ら思い立ち、謝ってもくれた。

その意味でも、もはやカイトの気は済んでいるのだが、夫へはっきりそうと、告げたわけでもない。

告げなければいけないものだという、意識もなかった。きっとわかっているだろうと、漫然と思っていたのだ。

いかに敏くとも、さすがにそこまでわかりはしないので、がくぽとしては昨日のカイトの不安定さは、今日に地続きのものとして認識されている。

そういう齟齬もあって、昼の夫は茶化すようなこともなく、どころか悔いる風情で、すぐさまカイトを『だっこ』してくれたのだ。

――こういった内実は、カイトが少しでも冷静さを取り戻せば、すぐに推し量れたことだ。

それで、これを好都合と自らの失言を誤魔化すこともできたし、あるいは失言は失言として容れて、夫に自らの快復を改めて伝えるといったことも、できた。

が、あまりに想定外に想定外を積んで重ねた事態に、カイトはまるで冷静さを戻せなかった。ひたすら混乱を極めていた。

夫の誤解をうまく利用すれば、自らに好都合にことを流せると、思いつくことができなかったのだ。

すでに必要もなくなっているというのに、なんとか誤魔化さなければという一念のみが渦を巻き、カイトの思考を埋め尽くしていた。

つまり、溺愛と盲愛の傾向をもって妻を愛おしむ夫を誤魔化すなら、どう振る舞うのがもっとも適しているかという。

「ぁ、くぽ」

「はい。んえ、かい…っ」

固まっていたカイトはぎくしゃくと顔を上げると手を伸ばし、がくぽの首に掛けた。伸びるのは手のみならず、首もだ。

もたげた首ががくぽの顔へと寄り、くちびるを目指す。

「ちょ、カイトさ、えぇ、かぃ……ん、んぐっ?」

「んっ……っ」

ほとんど必死というほどの懸命さで、カイトはがくぽのくちびるに触れ、舌を伸ばし、強請った。

夫婦の約束というものがある。未だ力の制御が覚束ないカイトをこそ守るための、口づけに関する制限だ。

ために、がくぽは初めカイトを止めようとしたが、結局止めきれず、容れた。

なにより今は、いわば叱責の最中でもあった。流れから考えても、急にカイトががくぽへの、なにかしらの情愛を募らせたと見るのは不自然だ。

情愛をもって触れるなら、カイトから力を与えるだろうが、叱責中、憤りとともに触れるならむしろ、がくぽから力を奪う。

奪われるなら構わないと、おそらく夫は判断したのだろう。『不安に晒したばかり』のカイトの、必死で、懸命な様子もある。

緊急性を認め、最終的にはがくぽはカイトからの口づけを容れたのだ。

しかし結論を言えば、今回、力の受け渡しはどちらの側であれ行われず、それはひたすら単純にしてごく普通の『口づけ』に終始したのだが。

ただ、逆にそれでかえって、がくぽの戸惑いは増すこととなった。与えられなかったのはいいとしても、奪われもしないという、この口づけは、ではなんなのかという。

戸惑いが強いがために、最愛の妻から与えられ、乞われる口づけに対しての夫の反応は、ひどく鈍いものとなった。

「ぅ、くぅう…っ」

「っああ、いえ、カイト様」

鈍い反応に、誤魔化しきれないのかと焦ったカイトは、ぐずるように表情を歪めた。きっと反射の動きだろう、がくぽは慌てた様子で、そんなカイトを抱えこむ。

「それほどご不安で…ええ、だっこって、『こちら』の意味で求めるほどああいえ、私はむしろ歓んでというものですが――そう愛らしく、ぐずるものではありませんよ。つい、虐めたくなるでしょう?」

「ぁ、く……っ」

混乱しているとはいえ、しかしもし混乱していなかったとしても、夫がなにを言っているものか、カイトにはひどく難解だった。

『こちらの意味の』というが、『だっこ』にいったいどういった、多岐に渡る方面が存在すると言うのか。

挙句、いい年をしてぐずるような、みっともないまねを晒しているものに愛らしいだとか、いかに無為に口の回る昼の夫とはいえ、言うに事欠くにもほどがあるというものだ。

ともに、カイトは混乱の片隅で考えた。

ここまでろくでもないことをすらすらと述べ立てられるなら、夫はもう大丈夫だ。効きすぎたお灸の効果も薄れたようで、立ち直れたと言っていいだろう。

夫が立ち直ったというなら、――

「ぁ、くぽ…っ」

「大丈夫ですよ、カイト様……私は至らぬ夫ですが、あなたが求められたときに、求められたものを差しださないほど、薄情な夫のつもりはありません。ええ、あなたが欲するなら欲するだけ――どうぞ我が身、我が力、貪られよ」

「ぁ、んん………っ」

――夫は完全に立ち直ったようだが、今度はカイトがだめだった。

しかも誰かのせいでというより、自滅だ。失態に混乱して失態を重ねてさらにという、悪循環を断ちきれずに落ちた。

がくぽはカイトを慰めながらくちびるを与え、肌を辿る。身幅が広く、ゆとりがあって着やすいが、逆に脱がすことも容易い南方の衣装が、やはりするすると解かれ、開かれた。

「ふ、ぁ…っ」

くちびるから首へ、首から胸へ、がくぽは丁寧に舌を這わせていく。舌が辿ったあとに残る唾液が、外のあえかな風も捉えて束の間、ひやりと肌をくすぐった。

夫の、ぬめらかで生温かい舌の感触と、本来、ぬるいはずの今の時間の風の、意外で心地よい涼やかさと――

「ひゃ、ぁう…っ」

惑乱して自制が甘くなっていることもあり、カイトが上げる声は嬌声は嬌声でも、どこか幼気な風情を帯びて弾んだ。

幼気なのは声のみならず、カイトははしゃぐにも似たしぐさで、夫の頭をきゅうっと抱きこむ。

女のものとはまるで違う、丸みもやわらかみもないカイトの胸を、それでも執拗にしゃぶり、愛おしんでくれる夫――

昼の夫だ。背には翼を、頭には捻じれ曲がった巻き角を持つ。

もうひとつ言うなら、夜の夫は、あとは寝るだけということであまり飾り立てないのだが、昼の夫は必ずと言っていいほど、角の近辺に花飾りを挿している。

「ぁ」

「ん?」

惑乱も極め、滅多になくはしゃいで頭を抱きこんだカイトだが、その、角のところの花飾りを潰す感触に、はたと正気を戻した。慌てて体を離す。

離すと言ってもがくぽの膝の上であるし、そもそもがひとり座るのがせいぜいの、小さな椅子の上だ。仰け反る動きを急にすると不安定で、ともすれば落ちる。

もちろん、がくぽがカイトを取り落とすようなまねを赦すわけもなく、きちんと背を支えてくれた。

そのうえで、急に身を離したカイトを不審げに見る。

「どうしました?」

「ぁ…」

穏やかに訊かれたが、カイトは答えられなかった。

ほんの一瞬だったからだろうか。それとも多少なり、抱きこんだ腕がずれていたものか。がくぽが毎朝、庭仕事のついでに自ら組み合わせてつくる美事な花飾りは、崩れることもなく、きれいにあった。

それはそれでいいが、カイトが目が離せなかったのは、角だ。

そういえばここまで間近にこれを見たのは初めてかもしれないと、思考の片隅で思う。

西方、哥の国にも、角持つ生き物は複数あったが、間近で見るようなものでもなかった。だから比較は難しいのだが、少なくともがくぽのそれは、古木の樹皮に似た風合いだ。なめらかに照り映えながら、奥深い皺を刻み、静かでありながら威厳をもって、ある。

花飾りを挿してあるのは片方だけだが、こういったこともまた、がくぽの得手とするところなのだろう。角の風格を下げることなく、左右の均衡を崩すこともなく、飾るものだからと花を脇役へ追いやることもなく、どちらもさらに映えるよう、計算され尽くした飾り方だ。

遠目に意識もせず見ても美事だと思ったものだが、こうして間近に見ても、文句のつけようがない。

否、ますますもって見惚れて――

「かぃ……かいと、さまっ?!」

「んくっ?!」

悲鳴じみた声に呼ばれ、今度はがくぽに体幹を押さえられてぐっと引き離され、カイトは見入るあまりに落とした正気を取り戻した。

取り戻したが、咄嗟に状況は把握できない。未だ体を押さえたまま、ぎょっとした顔で見つめてくるがくぽに、きょとんと瞳を瞬かせ、首を傾げた。

無意識の動きで舌が覗いて、カイトはてろりと、濡れるくちびるの滴りかけた唾液を舐め取る。

「……ん?」

なぜくちびるがこうも濡れているのかと、カイトもそこでようやく、自らに疑問を持った。いったいなにをして、唾液が口回りにまぶしつくようなことになったのか――

「ぁ、あの……カイト、さまその、ええ、つまり――つ、角など、舐めても、………面白くもなんとも、ありません。よね?」

「………ぇ」

ひどくびくびくとした、怯えるような風情で訊かれ、カイトはまたも、きょとんとして瞳を瞬かせた。

面白くもなんともないと言えば、がくぽが今、舐めしゃぶっていた自分の胸だ。どちらかといえば痩せ型の男であるカイトの胸には、ほんとうに絶望的なまでに、丸みややわらかみといった、触れて愉しいと思われる要素がない。

それでも夫が舐めしゃぶり、吸いつけば、カイトには快楽が与えられるのだが、だから『カイトは』だ。

やられるほうはいいが、やるほうにはなにか、愉しみがあるのか。

それに対して、今、自らががっぷりと咬みつき、しゃぶりついた夫の角のほうだ――

「………不快、か?」

よくよく考えてから、眉をひそめ、カイトは訊いた。

自らにはない器官であるし、ひとに馴染みのない部位でもある。受ける感覚に、思いが及ばない。

しかしとりあえず思い出すに、そういえば角のある生き物というのは、それに触れられることをあまり好まなかった。

だからと確かめたカイトに、昼の青年はらしからず、はくはくと、言葉もないままくちびるを空転させた。

しばらくそうやって言葉を探す間を置いたがくぽは結局、軽く首を傾げ、あからさまに媚びる笑みを浮かべた。

「いえ、特に――感覚らしい感覚がある、…わけでは、ありません。が。ええ、ですからね面白くもないでしょうと」

「ならばいいな」

「えええっ?!」

さっくり言いきったカイトは、自らを戒めていた夫の腕も軽く振り払った。そうしてまたがくぽの頭を抱くと、がっぷりと角に――

「んんっ、ん、んちゅっ、ふ、ぁむむっ…っ」

ほとんど夢中になってしゃぶりつくカイトの、いつになく無邪気で熱心な様子に、しかしその対象だ。

カイトの稚気溢れる様子を、いつものように茶化す余裕もなく、昼の青年は総毛だった。

「いえだからお待ちをカイトさまっ?!角、え、角ですよ?!なにが、ゎっ、あの、話、話をっ!!」

「んんーーーっ」

「そんな駄々っ子振る舞い!!」

またも引き離そうとしたがくぽだが、今度はカイトも用心していた。そう易々とは引き離させない――

が、しかしだ。

なぜ易々と引き離されないよう、用心までするのか。

夫婦となって二月は経て、それでも未だ同性同士のということに馴染みきれないカイトだ。飢えて正気を飛ばせば別だが、そうでもなければここまで積極的な様子を見せることなど、滅多にない。

がくぽのするに任せていることが大半で、自ら積極的に夫に触れるというものではない。

それが、――

「やはり、不快なのか」

「そういうことではありませんっ!!」

攻防の末、またも引き離されたカイトは、どこか拗ねたように訊いた。

がくぽといえば、ほとんど狂乱したように喚き返し、しかしすぐには言葉が続かず、喘ぐ。

カイトはじっとりした、いかにも不満げな目つきで、夫が言葉を継ぐのを待った。

そういう目で妻から見られて、おいそれと自らの要望を吐きだせる夫はいない。ましてやがくぽにとってカイトは、ほとんど初恋の、最愛の妻だ。

いかに昼の青年が無為と口が回ろうと、これは厳しい。

「いったいどうしてそうも、ええ、こんなものをしゃぶりたいのです旨いものでもないでしょう?!」

「どうし……」

非常にもっともな問いではあったが、愚にも尽きる問いだとも言える。ならばがくぽはカイトの体が『旨い』からしゃぶっているのかという、結局、自らにも返る。

がくぽが旨いと言うなら、カイトだとてそうだというだけだし、旨くないと言うなら、ならばなぜという――

そういったことはあれ、しかしカイトはそういう意味ではなく答えられず、首を傾げた。

『言葉がない』。

から、言葉にならない。

ただ、そう、夜の少年の翼の萌芽、背の瘤をそうしなければいけないと思ったように、今、間近に見て、角もそう思った。

そして、夜の少年に対して誤魔化しの理由は言えても、なぜどうしてそうやり始めたかという、動機を説明する言葉を持たなかったのと、同じだ。

カイトは昼の青年に対しても、なぜどうしてという、自らのやりように関する説明の言葉を持たなかった。

通常であればそれは、カイトをひどく困惑させただろう。

通常であれば、だ。

今が通常かというと、諸々重ねた結果、そうでもなかった。

ので、カイトは常では考えられないほどあっさりと、速やかに、割りきった。

「不快ではないと言った。それも、二度もだ。なればもはや、止め立ての権利もあるまい。耐えろ」

「まさか無体な?!って、カイトさ――っっ!!」

きっぱり言いきったカイトはがくぽの反駁を待つことなく、再び口を開き、がっぷりと角へ――