B.Y.L.M.

ACT7-scene2

カイトはふと、顔を上げた。

暗い。

「ん?」

はたと我に返り、カイトはきょとりとして瞳を瞬かせた。

だから、暗い。

カイトの『予言』通り、昼日中を少し過ぎたあたりから急に空が暗くなり、雨が降り始めた。

南方に来て半年余り、雨が初めてとは言わないが、これまでは夕立の程度だ。夕暮れ時、ほんのわずかな時間だけ、ざっと降るような。

暮れかけていた日が、沈みきらないうちに上がる程度のものだ。

対して今日、降る雨は違った。雲は厚く、なによりひどく黒く、重かった。昼日中であるというのに、束の間、もはや暮れたかと錯覚したほどだ。

そしてほどなくして、まさに滝のような雨が降り始め、すぐに上がることもなく、降り続いた。

窓の大きく、多い屋敷だ。こういったときには若干、不便で、それほどの雨ともなると、迂闊に窓を開けていれば屋敷中が水浸しとなる。

ために今、屋敷中の窓のすべてはぴたりと閉ざされていた。

だからといって、がくぽがひとつひとつ丁寧に閉めて回ったわけではない。いつものように、数語、うたにも聞こえる韻律の言葉をつぶやいただけだ。それで屋敷中の戸締りが済んだ。

便利な話だと――

便利な話といえばもうひとつ、風だ。

すべての窓が閉じられ、結果、すべての風の出入りを封じられた屋敷内は束の間、息もできないほどの熱気に篭められた。

雲が厚く、日が翳り、大雨が暑気を洗い流そうと、降り始めは未だ冷えきらない。残りの熱気はなかなかのもので、窓を閉ざせば外から入ってくるものもないが、同時に内のものが逃げることもできない。

ほんの束の間だったが、思い出してもぞっとするほどの熱気と湿気が屋敷内に篭もり、カイトはほんとうに息が詰まるかと思った。

その熱気と湿気を、がくぽはやはり、うたに聴こえる韻律の言葉によって風を回し、吹き払った。

その、風だ。がくぽはただ風を回したわけではなく、天井に取りつけられた回転翼に当てた。

がくぽ曰く、南方の屋敷の多くには、天井にこういった回転翼が取りつけられているものだという。

この屋敷といえば、各居室、それから廊下の天井の一部に、風車に似た巨大な回転翼がついており、風が当たるとだらだらと回る。

夜は寝台のみを直に涼風で囲ってしまうし、あまりに暑さが厳しいと効果を実感しないため、カイトはこの存在をしばらく忘れていた。が、こうして屋敷を閉ざせば、相応に利くもののようだった。

がくぽが言うには、がくぽひとりの力で風を回し続けるより、回転翼にも『仕事』をしてもらったほうが力がずっと少なくて済むという。曰く、雲泥の差であるのだと。

初めの動きこそ鈍くても、ある程度の勢いがつけば、しばらく放置しても大丈夫だし――

「……夜。だ、……な?」

覚束ないこころ持ちで、カイトはつぶやいてみた。

窓の外を窺うが、やはり、暗い。

耳を澄ませば、瀑布そのものだった雨の音はしない。水滴の跳ねる音がたまにするが、その程度だ。止んで、軒先から滴っているか、さもなければそろそろ止み加減というほど、弱くなったか。

天井からは回転翼が未だ動いて風を回す、小さな軋み音が響いてくる。否、聞こえるようになった。

先までは、あまりに激しい雨の音で、小さな、あえかな音はすべて消されていたのだ。そこからも、天気の変化がわかる。

が、はっきりと外の様子は窺えない。

透明硝子とはいえ窓が閉まっているし、なにより暗いからだ。

雨は止んだかもしれないが、空は未だ分厚い雲に覆われている。星の光どころか、月の光すら差さない。

これほど暗い空は、南方で初めてだ。

夜とは暗いものだったのだと、カイトは改めて思い出していた。

長椅子に座るカイトの、傍らの燭台には火が入れられているが、それだけでは窓の外まで透かし見るには足らない。あくまでも手元が仄かに明るいという程度だ。

そう、点いているのはこの手元灯、ただひとつだけだった。

これは雨に篭められて書物を読み進めることにしたカイトのため、比較的早い時間に、がくぽが灯していってくれたものだ。

いつもなら燭台など必要のない時間――本来、日があって明るく、そして暑い時間帯に、昼の夫、青年が灯した。

やり方は、少年と同じだ。直接、火を灯したわけではなく、燭台上の蝋燭の芯を基点に、力を置いて光らせるという。

――言っても、書を嗜むには少々、こころもとない明るさです。手元だけでも、照らしましょう。

相変わらず、気の利く夫だ。

否、気の利く夫のはずだった。

が、それが最後だ。その会話を最後に、青年は屋敷内の用事を片づけると言って部屋を出て、真たる暗闇が降りた今となっても、戻ってこない。

――雨漏りでもするか。

冗談めかして訊いたカイトに、がくぽは表情を空白にして見返してきた。周囲の暗さとも相俟ってひどく虚ろな、まるで空っぽの、なにも映さず、なにも容れない顔だ。

そして、なにかまずいことを言ったかと戦慄したカイトに、ひどく平板な声で答えた。

――なんでわかったんです?

この一連が、昼の夫一流の冗談なのだと理解するまで、カイトがしばしの時を要したことは、言うまでもない。

難解なのにもほどがあるというのだ。

唖然として言葉もないカイトに、がくぽは打って変わって、まるで日差しのように明るく笑い――

覚えている最後は、悪びれもしない笑顔で出て行ったときのそれだ。

そのとき、窓の外は言っても、ここまでの暗さではなかった。分厚い雲に覆われて暗いとはいえ、その雲の向こうにはまだ、日があるのだろうと窺える程度の。

それが、カイトが少しばかり書に読み耽ったうちに、どうやら本格的に夜の領分に入ったらしい。日は沈み、雲の厚み如何ではなく、深々と暗い時間帯となった。

そう、日が沈んだ。夜だ。

だというのに、カイトは未だ、長椅子の上にいる。

寝室ではある。寝室ではあるが、寝台ではない。長椅子だ。

雨が降り始め、屋敷の内、居室を兼ねる寝室へ戻された際、時間が早いということもあったが、カイトから強請ったのだ。寝台ではなく、椅子で過ごしたいと。

涼しくなって過ごしやすい状況であるなら、ここ最近、積んでおくばかりで手を付けられていない南方の書物を、少しでも読み進めたかった。

日常、カイトとがくぽが避暑地としているのは、浴室だ。

浴室とはいえ、がくぽが過ごしやすいよう整えてくれたし、足先を水に浸しているのがせいぜいで、さすがに滅多には全身まで浸かることはしない。

とはいえ、水場に変わりはない。

そこに書物を持ちこむのは、カイトには抵抗のあることだった。たとえ持ち主たるがくぽが、まるで気にしないとしてもだ。

それで、今こそはと意気込むカイトに、がくぽも強く否やを唱えることはなく、そう。

だから、早い時間だったのだ。未だ日が沈むには遠かった。

がくぽは、自分もまた、この機会に屋敷内の用事を片づけてくると言って部屋を出て、それから戻らない。

戻らないまま、日が落ちた。夜だ。昼の時間は終わり、夫はきっと、青年から少年へ――

「ぅ……ん………」

膝に広げていた書物はそのまま、カイトは自分の足へ視線をやった。

動かない。頑として、動かない。力いっぱい念じているのだが、びくともしない。する気もしない。

わかっている、動かない――カイトの足はもはや、表面的な意思には決して従わない。理性や理屈、義理や体面といったものは、いっさい加味しない。

本心から、どうしてもどうしてもどうしてもというほどの望みに。

本能が、強くつよくつよく、求めるときにだけ――

「まあ、なにかあったわけではないという、確証にはなるが…」

まるで動く気のない足に目を細め、カイトは微小の不満とともに諦念を吐きだした。

今、夫の様子を窺いに行くためにすら、動かなかった足だ。

寝るために寝台へ移動するというならなおのこと、そこまでの理由付けができるものではない。

そもそもいるのは長椅子で、まったく寝るに適さない環境でもないのだ。カイトのお高く留まった足は、ほんの一歩どころか、立ち上がることすらしないだろう。

となれば、長椅子で寝るか、あるいは、誰かに運んでもらうか――なのだが。

この屋敷に、頼れる相手はひとりしかいない。まったくもって字義通り、裏を返して真意を測る必要もなく、たったひとりだけしかいない。

この、有事には鎮護の働きも期待される屋敷には、カイトとがくぽ、新婚の夫婦ふたりしか住んでいないのだ。

最前、がくぽの父親が主人であったときには使用人も、警護の兵もいたというが、今はいない。いつからいないものか、カイトは知らない。

とにかく、今はいないのだ。使用人も警護の兵もがくぽの父親も、――誰ひとりとして。

それで、その、頼らざるを得ない唯一たる、夫だ。

夜の夫は成長期のただなかにあって、日々目覚ましい発達を遂げているはずだが、それでも未だ少年だ。騎士としては手練れでも、体格の不足は否めない。

昼の青年ならカイトをどう運ぶも自由だが、夜の少年は担ぐことも難しいだろう。肩を貸して、足を引きずって――

主たるカイトへそんな運搬方法を取ることを、あの偏向と傾倒著しい騎士が許容できるはずもない。擦りきれるほどのくり返しとはなるが、カイトは妻であって主ではなく、がくぽもまた、騎士ではなく夫なのだが。

それでも、最愛の妻をそんな方法でという抵抗ではなく、主に対してそんな不敬をと、少年が憤ることは目に見えている。

少年の自分となれば無理だとわかっているから、昼の青年は日が沈む前には必ず、カイトを寝台に運んでいた。少なくともこれまでは、そうだった。

今日は、――機を読み誤ったのだろう。

雲が厚く、日が今、どのあたりにあるかを精確に読みきることは、ひどく難しい状況だった。暗さが増したと思っても、雲の厚みが増しただけかもしれず、あるいは日が沈み加減とはいえ、まだ多少の猶予があるかもしれず。

本来、そこまで精確に判断できなくとも、そう大した問題はない。少なくとも、がくぽひとりであるならということだが。

今は、ひとりでは動けないカイトのことがある。であれば、青年はことに注意深く振る舞っていたものだが――

「やってしまったものは致し方ない。――の、だが」

つぶやいて、カイトは顔を上げた。

そう、カイトは割りきれる。カイトは構わないし、まるで気にしないのだ。足を引きずられようが、あるいはこのまま長椅子で寝ようが、そういうこともあるのひと言で流せる。

王太子時代だとて、まるで経験がないわけではない。事案が立てこんだときには、椅子に座ったまま机に突っ伏し、わずかな仮眠を取っただけという日もある。毎夜毎晩欠かさず、豪奢な寝台に横たわっていたわけではないし、でなければ眠れないなど、決してない。

だから、カイトはいいのだ。カイトは――

流せないのは、割りきれず、こだわるのは、夫だ。

同一人物でありながら意見が合わず、あれだけ反目しておいて、夜も昼もで、こういったときにだけ。

まったくもって、面倒極まりない。

取りつく島もなく思いながら、カイトは扉口へ顔を向けた。

表情はやわらかく、浮かべるのは苦みを含んでも、笑みだ。どこか、微笑ましさを湛えた。

ほどなくして、廊下を荒々しく走ってくる足音が響いた。それでも第一位の騎士かと呆れるようなけたたましい足音を立て、その音の響きに見合った、慌てた表情の少年が飛びこんでくる。

「ぅ、ああ…っ!」

自らが――昼のということだが――やらかしたことをまざと見せつけられ、少女とも見紛うほどにうつくしい少年は、憐れに膝を折った。

そこまでのことかとさらに呆れたカイトだが、がくぽもがくぽだ。さすがに騎士で、がっくり折れた膝を床にまで突かせることはしなかった。

直前でなんとか堪え、しかし苦渋の表情だけは消しきれず、カイトのもとへ蹌踉とした足取りでやってくる。

その途中でふと、顔を上げた。

「♪」

「っ」

カイトが身構えたのは、反射だ。

がくぽがひと声うたうと、居室いたるところの照明すべてに火が入った。眩しい――が、以前に比べれば、ずいぶんましになった。

以前、がくぽは夜になって明かりを求められると、居室すべての照明をひと息に、最大の光量で点けた。

まるで目の前で星が爆発するような感覚だ。一瞬で、夜の闇から昼日中の明るさへ――

当然ながら、そこそこ闇に馴れていた目はあまりの眩さに痛む。少なくともカイトは、頻繁に痛い思いをした。

はっきり言葉にしたことは少ないが、がくぽもそんなカイトの様子を見ていて、思うところがあったのだろう。そうでなくとも、がくぽはカイトに痛い目を見せたいわけではない。望みは逆だ。

あるときからがくぽは、ひと息に最大の光量まで点けることをしなくなった。

相変わらずすべての照明に、いっせいに光は灯す。が、弱々しくやわらかな、小さなものから始めて時間をかけ、ゆっくりと最大の明るさに――

そんなこまやかな調節が可能なものだと思わなかったから、カイトはことに求めなかったのだが、少年は自らで思い立ち、始めてくれた。

おかげでカイトは、急激な眩さに目が痛む思いを、しばらくしていない。

有り難いことではあるが、今日のように少年が慌てていると、もしかしてまた、ひと息に最大まで点けられるのではと、カイトの体はどうしても反射で竦む。

が、少年が成長期であるのはなにも、体だけではない。昼の青年が見せるこまやかな気遣いが、徐々に身に着きつつある。

おかげで今日もいつも通り、穏やかな照明の点きだった。これが続けばきっと、カイトが反射で竦むこともなくなっていくのだろう。

それに、いかに慌てていようとも、カイトが求めるより先に灯を入れてくれた。

以前は慌てていると、自らは獣並みに夜目が利くこともあって、なかなか灯りに思いを馳せられなかった少年だ。それが今日も、カイトに言われるより先に、自ら思い立って――

そうまでこまやかな気遣いができるようになったと、少年の成長ぶりがカイトには馴れることもなく喜ばしく、うれしい。

――のだが、そうまでしおおせながら、少年の気配は暗く沈みきって、まるで浮かなかった。

長椅子の傍らにきて、おそらくは叱責の言葉を待って項垂れたがくぽを、カイトはやわらかな顔で見上げる。

「用は済んだのか?」

「ええ、はい………ええ、そちらは」

責める響きもなくただ確かめたカイトに、がくぽは閊えながらもなんとか答える。

だからそれほどのことかと、カイトは思う。カイトは思うのだ。

思えないのはがくぽで、カイトの夫を名乗りながら、未だ傅く騎士だ。

そうやって苦渋の表情を浮かべ、あるわけもない叱責をおとなしく待ちまでするがくぽだが、だからと自ら先に、『失敗』を謝ることはできない。

カイトはこまかな機を捉えては夫に謝る練習をさせてきたが、こればかりはいっこうに身につく気配がなかった。

いずれ過去、幼少期からの習慣だ。ほんとうにがくぽが『最弱』であった時分には、それで生死に関わることもあっただろう。

今はカイトが促してやって、謝れば赦してやるからと甘やかしてやって、ようやく――

これに関してカイトは、諦念にも近いこころ構えで、気長に考えていた。だからそこの成長のなさは、いい。

幾重にも困った夫だとは思うものの、しかし今日のカイトはいつものように、さほどでもない件を捉えて『練習』の好機とすることはなかった。

やりたいことが、別にあるのだ。謝らないでくれるのは、逆に都合がいい。少年に対し、あまり申し訳ない思いを抱かずにおれる。

――といったこともあり、カイトはがくぽに向けて、むしろ非常に晴れやかに微笑みかけた。